目玉焼きの輝きを受けながら、天馬が優美な翼で風を切る。その風に垂れた耳をそよがせながら、ティムティムがふうむ、とえらそうな呟きを発した。
「我が豊穣の森の色鮮やかさは格別だが、常若のこの優しい色合いもなかなか良いものだな」
天馬の影が落ちる大地には、桃や薄青、淡緑に若菫といった柔らかな色彩が踊り、永遠の春の国の名にふさわしい風情を描き出している。花々が咲き乱れる緑野は、選りすぐりの糸で、乙女が丹精こめて仕上げた刺繍絵のようだ。
ティムティムは自身の背後で天馬の手綱を取る常若の王子を振り仰いだ。王子の姿を映す大きな青い目が意地悪くニッと笑む。
「主はこんなにも性格が悪いのになあ!」
今は貧乏魔法使いの仮面をかなぐり捨てている王子も、ティムティムににっこりと微笑み返した。片手が軽やかに翻ったかと思うと、ティムティムの首根っこを捕まえる。
「ん?」
「そんなに気に入ったのなら、もっと近くで堪能するといい」
「ぎょわー!?!?」
鞍から持ち上げられたティムティムは、ぷらんと宙吊りにされてしまった。靴の先がむなしく空を切る。
王子達の下方を金鴉に乗って飛んでいた光翼騎士(セラスナイツ)達から、一瞬「おお」というざわめきが発せられるが、すぐに静かになった。客将たるティムティムが宙吊りにされているというのに、誰も気遣う気配を見せない。どうやらこの宙吊りは、麗しい友情のたまものと騎士達に判断されたようだ。
「ぎっ、ギィギィ! もどせっ。今すぐもどせっ」
ピンと持ち上がった尻尾の先まで震わせながら、ティムティムが叫ぶ。
「ギィギィ?」
ティムティムの呼びかけに、王子はスッと目を細めた。なんとも背筋が寒くなる半眼だ。
王子はその表情のまま、わざとらしくティムティムを捕まえている腕から力を抜いた。
「ああ、もう駄目だ。空の散歩を堪能させてやりたいが、私の細腕ではこれ以上お前を支えていてやれそうにない」
がくんと身体が大きく揺らいで、ティムティムは悲鳴を上げながら降参した。
「うわーん、もうぜったいギィギィなんて言いません! ギィ様、ギルゼック殿下! 落とさないでごめんなさい! オレ様には守るべき民草、愛しい妻に可愛い子供達、それに敬愛する両親がー!」
「暴れるな、本当に落ちるぞ」
常若の王子ギルゼックことギィは、くっくと低く笑いながら、ティムティムを鞍へと引っ張り上げた。
天馬の首にしっかと抱きついて、ティムティムはむせび泣いた。
「ロカロカ、ヤムヤムっ、父は死線を越えたぞ!」
その大げさな様に、とうとうギィは目玉焼きの浮かぶ空に大きな笑い声を響かせた。
涙をふきふき、ティムティムはギィを睨みつける。
「オレ様は時々、真の敵は闇人ではなく貴様なのではないかと思うぞ……」
ギィは笑顔のまま、再びティムティムに手を伸ばした。ティムティムは、またもや拷問めいた目に合うのかと一瞬身体を固くさせたが、ギィの手はティムティムの頭を優しく叩くに留まった。
「む?」
いったい何のたくらみだとばかりに、ティムティムは鼻の頭に皺を寄せる。しかし、笑みを消したギィの瞳には静かな光が瞬いていた。
「そうわざとらしく力づけてくれなくてもいい」
「――ふん、いざという時に動揺されでもしたら困るからな」
憎まれ口をたたきながらも、ティムティムの声色は暖かった。何かと舌戦が絶えない二人だが、それも信頼あってこそ。交わされる非友好的な言葉の裏には、親愛の情が流れているのだ。
「動揺などしないさ。あれは最早、ジオであってジオではないのだから」
一瞬、ギィの脳裏に一人の少年の姿が浮かんで消えた。
三年前に永久の別れを遂げた蒼の王子の姿が。
「言葉で言うほどに割り切れないのが、我らの心というものだ」
とっさにギィは反論できなかった。ティムティムの言葉は、いつになく物事の本質をついていたらしい。
「だから、今はわざとらしいなぐさめに甘えていろ。封印の術を成功させるためにもな」
「……珍しく大人だな、ティム」
「なにが珍しくだ。元よりオレ様は、お前より六歳も年長なのだぞ」
「感謝する」
そう言ってギィは視線をはるか前方へと向けた。かすかに耳の先が赤くなっている。
ティムティムはにんまりと笑うと、ギィの腹に己のフカフカした後頭部をこすりつけた。
しかし、穏やかな時間は長くは続かなかった。
暖かな風が寒さをはらませ始める。薄紫の空が濃度を増し、紺瑠璃へと変わる。
それは、春の終わりを告げる印。
永遠の冬に閉ざされた、銀嶺の国が迫りつつあるのだ。
「見えたぞ、封印壁だ」
呟いたギィの声は苦々しかった。睨みすえる砂色の瞳の先に、白い線が放射状に走っている。紺瑠璃の空と青銀の大地を背に広がるそれは、巨大な蜘蛛の糸のようにも見えた。
「お前の報告よりも、ずいぶんと亀裂が大きいようだが?」
ウーッと牙をむき出して、犬のようにティムティムが唸る。
「そうだろうともさ、見ろ!」
ティムティムが指し示す方を見れば、広がる蜘蛛の糸の裾に、幾つもの黒い影が見えた。
氷星を乗せた風に、蒼狼の長い毛が舞う。それにまたがるのは銀嶺の――。
水晶を打ち鳴らすかのような甲高い音が響き渡り、同時に糸――封印壁の亀裂が広がった。
「猶予はないな。ティム、落ちるなよ!」
「ぎゃわー!?!?」
ギィは手綱を鳴らして、天馬を急降下させた。モイラが編んだギィの長い砂色の髪が、流星のようにシュッとたなびいた。ティムティムは振り落とされないように、天馬にしがみつく。
「殿下!」
「ギルゼック様!」
光翼騎士達を掠めるように地上を目指しながら、ギィは右手を振り上げた。
「我に続け!」
ギィの声に従い、真っ先に常若の戦乙女ナンが金鴉を下降させる。ナンのまとう海竜の鱗鎧が、シャランと軽やかに鳴った。やや遅れて、他の光翼騎士達もギィを追う。
ギィは背後の騎士達に激を飛ばした。
「よいか、常若の騎士に敗北はありえない。勝利の花冠を頭に戴け!」
「勝利の花冠を我らが頭上に!」
「我らが頭上に勝利の花冠を!」
ナンや騎士達の頼もしい声が消えぬ間に、ギィの天馬は地上へとひづめをつけた。
打ち捨てられた瀕死の王都を従えるように、蒼狼の背にまたがった銀嶺の騎士達が隊列を組んでいる。
不可視の壁に隔てられ、二つの騎士団が相対した。
「久しいね、ギィ。一年ぶりかな」
銀嶺の騎士達の先頭で、ひときわ立派な蒼狼にまたがるほっそりとした少年が、にこやかにギィに声をかけた。
麗しい銀の髪の下で輝くのは、尊き蒼ではなく、おぞましい闇の瞳。
ギィは沈黙でもって少年の呼びかけに答える。
ふう、と悲しげに少年はため息をついた。
「つれないじゃないか、ギィ。君に会いたくてたまらなかったんだよ? この間は短い逢瀬で別れなきゃならなかったし」
しかし、ギィは無言のまま左手を緩やかに持ち上げる。手のひらにボウッと淡い光が宿った。
「……また僕を遠ざけるの?」
「閉じよ、封印の力を持つ壁よ」
ギィの光が鋭く封印壁を打つ。と、みるまに音をたてて亀裂が塞がっていった。
「悲しいな、ギィ」
思わずかけより抱きしめたくなるような切ない声で、少年が呟く。
実際、真の少年が発した声であれば、ギィはすぐさま彼の元に駆け寄りその体を抱きしめただろう。
だが、この少年は。
皆に愛された銀嶺の蒼の王子ロジオンではなく、ロジオンを滅ぼした憎むべき敵だった。
それゆえに、ギィはゆかりには絶対に見せない冷酷な瞳で少年を見つめることが出来る。
「悲しむ心は、闇人にはない」
「やっと喋ってくれたね」
美しい顔を歪めて少年が笑った。仕留めるべき獲物の弱点を見つけた狩人のように。
「やっぱり君は、僕を無視できない」
ハッとティムティムが息を飲む。
「ギィ、気をつけろ!」
ティムティムの警告と、少年が手にした大槍が空を裂くのが同時だった。
水晶を千にも万にも砕くかのように、嘆きの音を立てながら、封印壁の一部が崩れ去る。
「君とこうやってまみえる為に、この一年、おとなしく力を蓄えていたのさ!」
少年の蒼狼が地を蹴り、ギィめがけて飛びかかる。
ギィは左手に封印の光を宿したまま、右手で腰間の剣を抜き放ち、振り上げた。
すさまじい力で叩きつけられる大槍を、細身の剣が受け止める。パッと鮮やかに輝晶花と氷星が舞った。
「殿下!」
後方で滞空していたナンがすかさず弓を構え、少年めがけて矢を射掛ける。
少年はすんでのところで身を翻した。
狙いを外れた矢は大地に突き刺さり、芳香を放つ百合と化す。
ティムティムは天馬から飛び降りると、少年とギィの間に割って入った。腰にぶら下げていた槌を取り外すと、くるりと回転させ身構える。
「お前は下がれ!」
ギィはティムティムの言葉に従い、少年から距離をとった。
封印壁が崩れ落ちた箇所から、銀嶺の騎士達が次々と飛び出してくる。
「殿下をお護りしろ!」
ナンの号令が下るや否や、光翼騎士達の金鴉が舞い、銀嶺の騎士達と刃を交えた。
「乱戦じゃないか。うっとうしいね」
駆け抜けようとする少年の蒼狼の足元に、ティムティムが槌を打ちつける。緋色の霞葉が舞い上がり、蒼狼の動きを止めた。
「行かせぬよ。お前達の居場所は封印壁の向こう側だ!」
それすらも口惜しいが、というティムティムの呟きは戦の音にまぎれて消える。
繰り出される少年の大槍をかわしながら、ティムティムは槌を振るう。
鼻面をしたたかに打ち据えられ、少年の蒼狼が悲鳴を上げた。
小さな足で地を蹴り、ティムティムが飛び上がる。
「去れ、流離いたゆたう負の心よ!」
振り下ろされるティムティムの槌を、少年の大槍が振り払った。空中でバランスを崩したティムティムに向かって、再び大槍が振るわれる。
しかし、槍の切っ先がティムティムの体を貫くことはなかった。
戦乙女にすくい上げられたティムティムを見て、少年がいまいましそうに舌打する。
「助かったぞ、ナンナン」
「ナンです、ティム殿」
ティムティムを金鴉に引き上げながら、ナンは剣を抜き放った。
「我が王子と豊穣の若長に刃を向けた罪は重いぞ!」
吹きすさぶ風すら斬り裂いて、ナンの白刃が少年に叩き込まれる。
少年は、騎乗していた蒼狼を犠牲にすることで戦乙女の剣から逃れた。
悲鳴すらあげる暇もなく、蒼狼は絶命し倒れ付す。
きろり、と少年の闇の瞳がナンとティムティムをねめつけた。
「チッ!」
ティムティムが舌打し、金鴉の手綱を取る。
少年の華奢な体から闇が螺旋のように噴出し、二人にむかって振るわれた。
鞭のように伸びる闇の触手を、ティムティムは見事な手綱さばきで回避した。
ナンの金鴉は風に舞う木の葉のように、するりするりと闇をかわす。
手綱をティムティムに任せたナンは、再び弓矢を手にし、少年に狙いを定めた。
しかし、闇の触手は執拗で、なかなか攻撃の機会を見出せない。
少年はそうしてナン達を牽制しながら、ギィめがけて駆けた。
肉薄する少年に、ギィはわずかに目を細める。
「ギルゼック=インブロッサウム、貴様も闇に染まれ! 蒼の王子ロジオン=グルージアのように!」
少年が突きつけた槍の先から、闇の塊が解き放たれる。
ギィはよけなかった。天馬も主の心を読み取ったのか、微動だにしない。
少年の唇に、勝利の笑みが刻まれる。
ギィは、闇が己を貫く寸前に、若草の光が踊る純白のマントを優雅に払った。
常若の王の護りの魔法が編みこまれたマントは、キン、と涼やかな音をたてて、少年の放った闇を消し去る。
「さて、そろそろその醜い姿を見るのも限界だ。ご帰還願おうか……!」
ギィがパチンと指を鳴らすと、ふわりと少年の髪が舞い上がった。
そよと吹いた風は、次の瞬間に春の嵐となり爆発した。
百花舞う嵐が、少年と銀嶺の騎士達を地上から巻き上げると、封印壁の向こうへと追いやる。
ギィの手から封印の光が放たれ、崩れた封印壁が修復された。
青銀の大地にたたきつけられた少年が飛び起き、不可視の壁に向かって槍を振るうが、今度は壁は破られなかった。
「ギィ、またお別れかい?」
最後まで、蒼の王子ロジオンの口調そのままに、少年は言葉をつむぐ。
「ああ。また大人しくしていてもらおう。もっとも」
この時、初めてギィの砂色の瞳に強い怒りが満ちた。
「次にまみえる時は、貴様ら闇人が滅びる時だ」
「……楽しみにしてるよ、ギィ」
ギィは少年に、そして銀嶺の国に背を向ける。
「ギルゼック殿下万歳! その頭に勝利の花環を!」
わっと光翼騎士達が勝利の歓声をあげた。
「全騎帰還!」
ギィの天馬が空へと駆け、光翼騎士達もそれに続いた。
小さくなる常若の騎士達を見送りながら、敗れたはずの少年が楽しげに笑う。
「すぐに会えるよ、ギィ。すぐに、ね」
少年の闇色の瞳が、蒼狼の血で汚れた大地を見つめた。
ティムティムも、ナンも、そしてギィさえも気づかなかった。
その血にまぎれるように、小さな小さな闇の染みが、国境に刻まれたことを。
温みはじめた薄紫の空、レース雲にかくれていた目玉焼きが顔をのぞかせる。
「ギィ!」
ナンの金鴉の上からティムティムが叫んだ。
「よくやったな!」
「なに」
振り向いて、ギィは微笑んだ。
「落ち着いて花嫁を迎えねばならんからな」
「そうか」
ティムティムは、ギィの瞳の端をかすかに濡らすものには気づかぬふりをした。
「ピクニックにはオレ様も同行してやるぞ!」
きししと笑いながら、ティムティムは祈った。
願わくは、この強かで愚かでそして悲しい王子の心を、異界の娘が癒してくれるように、と。
その祈りに応えるように、かの娘の笑顔のごとく、目玉焼きがまぶしく輝いた。