異世界の姫君こと一ノ瀬ゆかりのライバル候補を演じる貴族の娘モイラは、王子の従者を演じるティムティムと共に、長い回廊を歩いていた。
大きな窓から差し込む目玉焼きの明るい輝きが、モイラの手にある純白の布の上を優しく滑り、床へと落ちる。輝きに触れた布は、若草色の不思議な光を放ち、モイラの顔を美しく照らし出した。
若草色の光を受け止めたモイラは足を止めると、優しい手つきで布をひとなでする。しかし、その仕草とは裏腹に、眼差しは物憂げだった。
脳裏に浮かぶのは、幼馴染である王子の姿。この布を手渡す相手のことだ。彼の胸中を思うと、心が痛んだ。
「そんな顔をするな、モイモイ」
気遣う言葉をかけたのは、皮肉にもこのもの思いの原因を携え、永遠の秋の国よりやって来たティムティムだった。
「あれが悲しみの沼に沈みそうになったら、オレ様が引きずりだしてやる」
ティムティムは腕を組むと、ぶふーと鼻の穴を広げた。
「ティム様の場合」
少し意地の悪い笑みを浮かべ、モイラは答える。
「引きずり出したあげくに、引き倒して踏んづけるのではございませんこと?」
「はっはっは、それもいいな!」
二人は再び並んで歩きながら、声をたてて笑った。
「あの涼しげな小憎たらしい顔をぎゅーぎゅーと踏んでやったら、さぞかし小気味がよいだろう」
その様を想像したのか、ティムティムはニヤリと口元をゆがめたが、次の瞬間恐ろしげに身体を震わせた。
「でもな、モイモイ。そんなことをしたらオレ様はあれに毛刈りの刑に処されるのだ。桃色地肌が見えでもしてみろ。息子と娘にしめしがつかん!」
ムク犬のような姿のティムティムは、フンティという獣人だ。毛並みの美しさを誇る彼らにとって、毛刈りの刑ほど恐ろしいものはない。
「でしたら、引きずり出すにとどめてくださいませ」
「う、うむ。そうするとしよう」
ティムティムが頷いたのは、折りよく王子の執務室の扉の前だった。
ノックをしようとモイラが右手を持ち上げた途端、部屋の中からパチンという指を鳴らす音がして、扉が開く。
二人が部屋の中へと進むと、小卓に置かれた虹水晶から、ゆかりの拗ねた声が響いた。
『なによう、それ。まるでわたしがワガママみたいじゃないの』
「そ、そういう訳ではっ。ゆかりさんは、とっても愛らしい、良い方ですよぅ」
情けない魔法使いを装いながら、しかし王子は本来の表情で、宙に浮かべた数々の書類に目を走らせていた。
パチンと指を鳴らすと、羽ペンが踊り、ギルゼック=インブロッサウム――常若の都の世継ぎのサインを記す。
「ええ、はい。それでは午前十時にあの駅で」
ギィはゆかりとピクニックの約束を取り交わすと、虹水晶に右手をかざした。
「交信終了」
力ある言葉を受け、虹水晶が纏っていた七色の輝きが消えうせる。
「終わりまして?」
「もうすぐだ」
モイラの問いに答えながら、ギィはぞんざいに自身の髪を指差した。
「オレ様が編んでやろうか」
意図を察したティムティムが、肉球のついた手をわきわきさせながら横槍を入れる。
ギィはにこやかな笑顔で白い毛玉を一刀両断した。
「届くならな」
「む、むきょー!?」
悲しいかな、ティムティムの短い腕では、ギィの毛先に触れることもかなわない。
「モイモイっ、だっこを、だっこをするのだーっ」
モイラはため息をつくと、地団太を踏むティムティムを脇にどけ、手触りの良い王子の砂色の髪に手を伸ばした。動きの邪魔にならないように手際よく編んでいく。
「――この役目もいずれあの子に交代ですわね」
昔からこうしてギィが出陣する際に髪を編むのは幼馴染であるモイラの仕事だったが、王子が花嫁を迎えたらその役を譲り渡さねばならないだろう。
幼馴染という立場が変わるわけでもないが、少々感慨深い。
「編み方を教えてやってくれ。ゆかりに任せたら奇天烈な髪にされそうだ」
「お望みのままに。編み方だけでなく、いろいろ教えて差し上げましてよ」
「頼む」
モイラが髪を編む間に、ギィの書類整理も終わったらしい。羽ペンが筆立てへと舞い降り、書類達が束になって机上に積み上げられた。
「随分な量ですこと」
「二日程度でこの始末とは、先が思いやられる」
そう言いながらも、ギィの口調からは余裕が感じられた。出来の良いこの王子を閉口させるには、この数倍の書類の山が必要なのだろう。
「モイラ、従者の仕事までさせてすまないが、後で書記長に渡しておいてくれるか」
「ふん、やっぱりキャロルを短期とはいえ国外になど出さねばよかったのではないか」
ふてくされた口調のまま、ティムティムが王子の真の従者の名を口にした。
「あいつがいたら、計画に差し障る」
「――かもな」
ティムティムは、目に星を浮かべて王子の世話をする従者を思い出し、深くうなずいた。
異世界の娘を花嫁候補として迎えるにあたり、国王、王妃以上に拒否反応をしめしたのが王子の従者キャロルだった。
王子一番の従者は、焼きもち七割、正論三割で猛反対し、閉口したギィによって雲海の彼方の国へ特使として派遣させられているのだ。
「体のいい追放だな」
「失礼な。闇人に関する文献を調査するという大事な任務を授けてある」
「さっき、計画に差し障るとほざいたのはどの口だ!」
「……さて、冗談はこの辺りにしておくか」
ギィは両手を打ち合わせ、従者に関する会話を強引に打ち切った。
モイラが持参した純白の布を恭しく差し出す。
「ラザラス陛下よりお預かりしてきました。護りの魔法が編みこんであるそうよ。どうか――、どうかご無事で戻っていらしてね」
「心配するな」
ギィは受け取ったマントを肩に羽織り、紋章のブローチで止めつけながら、艶やかな笑みを浮かべた。
魔法使いを演じている時の気弱さとは無縁の、自信に満ちた誇り高い微笑みだった。
「闇人を封じ続けるのは、封環大陸三王族、一族長の勤め。この身体に流れる血にかけて負けはしない」
ギィの言葉に、ティムティムもそうだ、と胸をそらす。
「今回はオレ様も一緒だからな。常若と豊穣のトップが雁首そろえて負けたらいい物笑いだぞ」
「今回ばかりは、毛玉に異論はない」
「毛玉ではなーい!」
叫ぶティムティムを無視して、ギィはモイラに向って長い指を二本立てて見せた。
「二月だ。向こう二月の平穏を勝ち取ってくるぞ」
長年の付き合いから、モイラは王子がこういう笑みを浮かべる時は、ぜったいに発言を実現させることを知っていた。
虹水晶で見つけた異世界の娘を気に入り、花嫁候補として迎え入れるという離れ業を思いついた時も、王子はこの笑みを浮かべていたのだ。
国全体を巻き込んだその作戦に比べれば、今まで幾度となく戦ってきた闇人を封印壁の向こうに押しやる遠征など、造作もない事なのかもしれない。
でも。
それでも。
「気を、つけてくださいましね」
モイラは幼馴染の無事を祈らずにはいられなかった。
これからギィが向う先は、彼の最大の傷が秘められている場所だから。
ギィはモイラを安心させるように、その頬をなでた。
「ああ。闇人に遅れは取らないさ」
次の瞬間、ギィの瞳に真剣な輝きが宿る。
「民の為、まだ何も知らぬゆかりの為、……そして尊き蒼の為に、この手に勝利を」
ギィはマントを翻すと、モイラとティムティムを引きつれ、騎士団の待つ中庭へと向った。