オティーリエの最強の騎士と豪語したユージンは、その言葉に遜色ない卓越した剣技で淫魔インキュバスを圧倒した。三年に一度開催される女王御前試合での二度の優勝は伊達ではない。
しかし、翼を失い、身体を半ば切断されるという屈辱的な姿になりながらも、インキュバスの獣面には笑みがこびりついたままだった。快楽を導くこの魔神にとって、強き者に支配されることは愉びなのだ。ましてや、自らを支配した強き者が、自らの言葉によって苦悩する様を見るのは、人と交わりその精をすするのと同じ程強烈な愉びをもたらしてくれる。 インキュバスが真実を一つ語るたびに、ユージンの顔は青ざめていった。毅然としていた瞳から徐々に力が失われていく。返して、ユージンの支配を受けているはずのインキュバスは、暗い瞳に愉悦の光が瞬くのを止められなかった。宙を舞うような快感が背骨を甘く蕩かしていく。 「信じはせぬ・・・・・・」 ぎりぎりと歯をかみ締めながら、ユージンはつぶやいた。しかし、インキュバスの語った真実を吹き消すには、いささか力のかけた呟きだった。むしろ、違っていてほしいという懇願すら滲んでいる。願いが秘められた言葉は否定にはならなかった。 「では、確かめていただこうか」 「なに・・・?」 「主が陛下とお呼びするあのモノをお連れしよう」 ユージンは無理やり口の端をゆがめると、あざけるようにはき捨てた。 「クイーンガード長の守護を抜けて、か?」 「かつての聖都であればそれも万全であろうが、今となっては容易きこと。我は淫魔。夜に潜み、夢をわたり、幻をすすむ。必ずや白磁の御手にたどり着いてみせよう」 ユージンは沈黙した。沈黙の長さは、そのままユージンのためらいをあらわしていたが、インキュバスはかまうことなく、主の沈黙を了解ととった。ゆっくりとインキュバスの姿が紫の霞のように薄れていく。 「主よ、かの迷宮の第六層にある、古の都にてお待ちあれ。あの都はすべての始まりの場所なれば、麗しの再会にふさわしかろう・・・・・・・」 ユージンは、答えなかった。ただ、放たれた毒矢のような真実の衝撃に、じっと耐えていた。ユージンとインキュバスの周りをかこっていた障壁が掻き消え、白騎士達が駆けつける。 「殿、殿! ご無事でいらっしゃいますか」 背後から投げかけられた安否を問う言葉に、ユージンはぎこちなく振りかえった。 「お怪我は」 「ない。心配をかけた」 その言葉どおり、ユージンの身体に怪我はなかった。しかし、その心は、魂は、致命傷と呼んでも差し支えない深手を負っていた。 ユージンはこれまで部下達の瞳から目をそらしたことはなかった。だが、今。彼らの忠誠心にとんだ瞳を、見返すことはできなかった。 「淫魔は私の支配するところとなった。一度、撤収し、身を休める」 「かしこまりました」 先頭にたって、ユージンは歩いた。誰にも、顔を見られたくなかったからだ。 「滅ぼしはしない。我が名と、我が誇りと、我が血にかけて・・・・・・」 ユージンが固い決意をつぶやいた翌日に、女王オティーリエは聖都から連れ去られた。それは、カレンが五層の泉に落ちる、十日前の出来事だった。 |
軽やかな音を立てる焚き火が、濡れそぼったカレンの身体をゆっくりと暖めていた。 服と短剣という軽装になりながらも、カレンは先へと進むつもりだった。 癒しの泉のおかげで、傷はすっかりと癒え、気力も充実している。 「いいな、絶対無理はするなよ。今、お前は軽装なんだからな」 「うん、わかってる」 何度も念を押すリカルドに、心配性だなあ、と苦笑するが、リカルドはフンと鼻をならした。 「お前と一緒にいたら、嫌でもそうなる」 「思い当たるフシがあるから、反論はしないでおくよ」 カレンはリカルドに、肩をすくめてみせた。まあ、とグレースが笑う。 「カザ」 カレンは、黙ったまま一言も発しないエルフの司教に呼びかけた。 「助けてくれて、ありがとう」 カザは炎を見つめたまま動かない。野イチゴ色の瞳が、炎の色をうけてなお赤く輝く。 「あなたに命を救われたのは、これで二度目だ。感謝するよ」 「・・・・・・好きでやったわけじゃない」 カレンの真摯な言葉に眉をそびやかせてカザは吐き捨てるが、言うやいなやミシェルがカザの耳をひっぱりながら唇をよせた。 「カザ、わたし、可愛いあなたが好きよ」 「き、君は卑怯だッ!」 ミシェルの手を振り払いながら、カザは耳まで赤くして叫んだ。 カレンの服がほぼ乾いたところで一行は焚き火をしまつし、出立した。 滝の奏でる水音を名残惜しく聞きながら長い階段を下ると、目前に黒ずんだ苔に覆われた広間が広がった。苔と苔の隙間に美しい文様が見えかくれしている。ふと好奇心を刺激され、カレンは壁の苔を短剣でこそげ落とした。 途端に、文字が淡く明滅する。あまりに淡く、迷宮の闇を切り裂くまでにはいたらなかったが、それでもその蛍火のような光はカレン達の注意を引くにはことたりた。 何事かと仲間達が近づいて、カレンの両脇から壁を覗き込む。 「カレン?」 リカルドに肩を叩かれて我に返ったカレンは不思議そうに、頬に手を当てた。 「あれ。わたし、どうして」 カレンは乱暴な手つきで頬をこすりながら、リカルドを仰ぎ見る。 「泣く理由なんて、何もないのに」 しかし、涙を零していたのはカレンだけではなかった。 「これは、エルフの古代文字ですね。森・・・、光・・・? いえ、緑光、輝く・・・」 何とか文字を解読しようとしたグレースの後を、震える声でミシェルがついだ。 「・・・緑光輝きて福音響く。来たりし友に祝福を、祝福を・・・」 ミシェルはカレンの隣に立ち、彼女と同じように文字に指を這わせた。カレンのときよりも強い明滅が起こる。光と、それによって生まれた影が、ミシェルの白い頬の上を走った。 「緑光とは、古代エルフ達が住んでいた緑の城を示す言葉。これは、始原の森に建てられたかの城を訪れた同胞を歓迎するうたよ」 ミシェルは文字から指を離し、四方を見渡す。 「始まりの罪であるこの城が、調べの森の真下にあったなんて」 ふう、とカザが細く息を吐き出した。 「罪の下に横たわるは罪、か。皮肉だな。全てが皮肉だ。我らがここにいることも。ここにいるのが我らであることも」 古代、エルフ達は今よりもはるかに長い寿命と強い魔力を誇っていた。しかし、彼らはその力ゆえに過ちを犯したと伝えられている。寿命を縮め、魔力の大半と居城を失ったエルフ達は、己を受け入れてくれる森を探す流浪の民となった。幾人のエルフが緑の城に帰りたいと願ったことだろう。この祝福を我が身に受けたいと思ったことだろう。 調べの森に生れ落ちたミシェルやカザが、大陸を彷徨ったことはない。半分人の血が流れるカレンもそれは同じこと。だが、三人の身体に流れる血は、古い祝福に反応せずにはいられなかった。望郷の念が涙という形になって、現れたのだ。 「こんな見落としがあったとはねぇ」 軽薄な口笛が、はるかなる邂逅の余韻を吹き飛ばした。 思わず振り返った一行の視線が空を切る。声はわずかに下方から聞こえた。 カレンの青い瞳が、腕組みをして興味深そうに壁を見上げる人物を捕らえる。 皮鎧をまとった小柄な体は、一見人間の子供のようにも思えるが、無造作に束ねた栗毛からのぞく先端のとがった耳は、人間族のそれではなかった。 さらに、先ほどの発言といい、表情といい、子供というには少々皮肉な色が強すぎる。 「ホビット?」 気配を感じさせず近づいたホビットに寒いものを感じて、カレンは密かに肝を冷やした。 「はいはいちょいとごめんよ」 面食らう一行を左右にわけて、ホビットの青年は、壁の文字を見上げる。 「ふん・・・・・・」 ニヤリと不敵に微笑んで、ホビットの青年は、いきなりミシェルの腕を掴んだ。 さすがのミシェルが驚いて、ハッと息をのむ。青年は、そのままミシェルの手を壁に押し当てた。とたんに再現される、緑の明滅。 「なるほど、エルフにのみ反応する文字ね。魔神とは関係なさそうだ。だからシッドも放置したのかな」 「その手を離せ、生まれながらの盗人が!」 我に返ったカザが、ホビットの青年を怒鳴りつける。だが、青年は気にした様子もなくカザの言葉を受け流した。 「がなるんじゃないよ、流浪の民のお坊ちゃんが」 小さなホビットに子供扱いされて、さっとカザの頬に朱が走る。 「はなしてっ」 ミシェルの悲鳴のような声をきいて、やっとホビットの青年は、手をはなした。 あーあ、とこれ見よがしに肩をすくめる。 「何の用?」 抗議の声を上げようとするリカルドとカザを制して、カレンはホビットに尋ねた。 「おー、冷たい声っ。来るねっ、なんか胸にビビっと来るねっ」 ふざけた様子でそう言いながらカレンを見上げたホビットは、たっぷり五秒間、その表情のまま沈黙した。 「何の冗談なんだ。これか、あいつの不調の原因は」 口の中で己にだけ聞こえる声でつぶやき、首を振る。 「忍者兵が、わたし達に何の用」 辛抱強く、カレンは続けた。 「忍者兵?」 リカルドがしげしげとホビットを見つめる。 「このチビっこいのが? 俺はまた、てっきり盗賊かと・・・」 「わたしも一瞬、そう思った。でも、違う。上手に心を隠してる。盗賊が隠せるのは気配まで。心を隠し、殺せるのは、忍者。違う?」 カレンの冷静な言葉に、ホビットの青年は愉快そうな笑みを浮かべた。 「ご名答。まあ、オイラは盗賊家業の方が長いけれどね」 「ダニエル殿!」 突然、荒々しい長靴の音が響き渡った。 回廊の影から、すらりとした体躯に甲冑をまとった若い女が駆けつけてくる。 さらにその後ろから、東方風の鎧を着込んだ無精ひげの男がブラリと続いた。 「千客万来だな」 うんざりとカザが首を振る。 鎧の女は、鋭い眼でホビットの青年に詰め寄った。 「ダニエル殿、異変確認の為とはいえ、勝手に先行されては困る。任務を遂行するには、我等はあなたの指示をあおがねばならないのだから」 「まあまあ、オリビアちゃん」 ダニエル、と呼ばれたホビットの青年がヒラヒラと手をふると、鎧の女は眉を吊り上げた。 「わたしは、オルフェです。二度とその名を口になさいませぬよう!」 「こわーいっ」 ふざけて泣きまねをするダニエルを睨みつけて、オリビア、いや、オルフェはカレン達を一瞥した。 炯炯とした藍色の瞳は、甚だ非友好的で、無遠慮だ。 「冒険者か」 「そうだけど」 丁寧に応対する気にもならず、カレンは簡単に答えを返し、女を観察した。 歳は二十歳を少しすぎたところだろうか。 挑戦的な瞳や、厚みのある唇、なめらかな肌などが密やかに色香を発しているからだ。 女はカレンのあっさりした答えが気に入らなかったらしく、眉間の皺を深くすると、腰間の剣を抜き放った。 ス、とリカルドとグレースが、カレンを守るように左右に並ぶ。 だが、女は臆した様子もなく剣の切っ先をカレンに向けた。 「これより先、冒険者の立ち入りは禁止されている。こんな所にまで宝をあさりに来てご苦労な事だが、即刻立ち去れ」 「我らを盗人と言うのか」 言葉がもたらした嫌悪感に唇をゆがめて、カザが吐き捨てた。 「否定できるのか。わたしに言わせれば、貴様ら冒険者など、死肉をあさるコボルドに等しい」 「なに・・・!」 「はい、オリビアちゃん、そこまで」 険悪な空気の只中に、ダニエルののんびりとした声が割り込んだ。 「ダニエル殿」 ギリ、とオルフェが口元を歪ませる。 「オイラ、ちょいと戦力に不安があったんだよねえ」 「なにを・・・」 脈絡のないセリフに、オルフェは目をしばたいた。沈黙を続けていた無精ひげの男が眉をひそめる。 「だから、決めた。この人達に手伝ってもらう」 「馬鹿な!」 「馬鹿じゃないよ。オイラ達だけじゃ、魔法に若干の不安が残る。でもこの人達には、司教と魔術師がいるみたいだし」 「彼らは冒険者です!」 「見たらわかるよ。でも、この一件にからんでる冒険者もいるだろう。爆炎のヴァーゴ、司教のアンマリー・・・」 なりゆきに半ば置いていかれる形になっていたカレン達だったが、知った名前が登場して顔を見合わせた。 「彼らの実力は証明済みです。こんなどこの馬の骨ともわからぬ冒険者とは・・・」 「こいつら、強いよ。わからない? それにねえ」 すうっとダニエルの瞳が細められた。陽気な輝きが一瞬で消えうせ、見るものが思わず息を飲む冷酷さがむくりと顔を現す。 「君が使命だの立ち入り禁止だの言ってくれちゃったおかげで、彼らを黙ってかえすわけにはいかなくなったんだよね。くすぶった火種を放つわけにはいかない」 ぐ、とオルフェは言葉に詰まった。 「わかってくれた?」 にっこりとダニエルはオルフェに向かって微笑む。 「・・・御免」 それまで一言も発しなかった無精ひげの男が、一歩前に踏み出した。 危険を感じるよりも早く、反射的にカレンは短剣を引き抜き、振り上げた。 重い衝撃が、短剣を握った右手に伝わる。 カレンの短剣が、男の刃を受け止めていた。反応がわずかでも遅れていたら、今頃カレンは血の海に沈んでいただろう。 カレンは右手にこめていた力をゆるめ、男の体勢を崩す。 心得たもので、即座にリカルドが踏み込みすぎた男の刃を跳ね上げた。 リカルドの脇から、グレースの剣が鋭く突き出され、男のそれ以上の動きを封じる。 カザとミシェルは、練り上げた魔力を維持し、男の動向に注意を払った。 「ふむ。剛の者なり」 ゆるりと男は呟いて、人好きのする笑みを浮かべた。 「お嬢さん、見てのとおりです」 「なにをやっているんだ、お前は・・・」 がっくりとオルフェは、肩を落とした。 「アオバ、命令いはーん。減俸ね。侍大将にいっとくよ?」 「そいつは、困りましたなあ」 はっはっはと、大して困っていなさそうに男、アオバは笑った。 「なんなんだ、なんなんだ一体!」 一方的に斬りかかられたカレンは、とうとう癇癪を起こして叫んだ。むしろ今までよくもったと褒めるべきだろう。 ダニエルが、パンと両手を打ち合わせる。 「説明します。今から君達とオイラ達は美しい友情の元一致団結して、魔神と戦います」 「はあ!?」 「魔神は現在この階層の四方に散って、結界を作っています。それを壊さなければ、先へと進めません」 次第に、カレン達の表情が真剣身を帯びていく。 「魔神は手ごわく、こちらは人数不足。成り行きと一方的な都合により、協力を要請します。っていうか、命令。聞かなきゃ、コロス」 「まあ、なんて腹黒い」 「いや、ミシェルさん、あんたが言うな」 「あなたに、その権限が?」 ミシェルとリカルドの麗しい語らいを鮮やかに無視して、グレースが尋ねた。 「現在クイーンガード長の命令でこの階層の探索を仕切ってるのは、忍者兵。オイラ、その副頭」 ねっ、とダニエルはオルフェとアオバを振り返る。二人は沈黙でもってそれを肯定した。 「これだけ知っちゃったら、もう断われないねえ」 ダニエルは、ゆっくりと視線をカレンへ向けた。 そう、あんたは断われない。あんたが、二つ名を持たない最後のクイーンガード、カレン=アンソンならば。 頭の、いやクルガンの心に今も住まう、あの銀の少女であるならば。 「ああ、断わらない。クイーンガード長と忍者兵がここまで動くその理由は、女王オティーリエその人をおいて考えられないから」 カレンは、微笑んだ。瑠璃色の空から零れ落ちる、一片の雪花のように美しく。 |