人は、闇から生まれてくる。己を包んでいた闇を抱いたまま、産声をあげる。生まれたての赤子は何も見えないというが、それは真実ではない。赤子はただ、己を包む緩やかな闇を見つめているだけだ。しかし、やがてその闇は少しずつ取り払われるだろう。両親をはじめとする肉親が、触れ合うぬくもりが、優しさが、ゆっくりと明かりを灯すのだ。こうして、人は世界を知る。その灯火に背を向けたとき、人は再び闇と向かい合わねばならない。
人は、闇の中に何を見出すのか。 炎が空を走り、生臭い悪魔の吐息が風となり、わだかまった闇が大地となる異界。人の住まわぬその地に、一冊の書を手にしたユージン=ギュスターム公爵は降り立っていた。 王家からギュスターム家に託されていたその書物は、異界の不思議を記した召喚の書であった。書には、異界への扉の開き方、異界へ降り立つ方法、魔神を支配する術などが詳細に記されていた。到底人の手にはあまる、また、人が手にしてはならない禁断の魔本である。 書の示すまま配下の乙女を生贄にささげ、異界への門を開いたユージンは、すでにオークキングや、オーガといった下位魔神を支配下においていたが、さらなる魔神を支配すべく、白騎士達と共に紅の悪魔の群れと対峙していた。 紅の悪魔は、レッサーデーモンと呼ばれる異界の斬り込み兵だった。戦いの気配を感じとり、群れをなして駆けつけたらしい。 異様に長い腕や、ねじくれた角、やせこけた猿のような顔に浮かぶ残忍な笑み。巨大な真紅の皮翼が、勢いよく空を切り裂く。その恐ろしげな容姿は、悪魔の名に相応しいものだった。発せられる瘴気の濃さが、オークキング達の比ではない。 「戦闘準備」 ユージンが言葉少なに命じると、付き従っていた白騎士達は、それぞれ剣や杖を構えた。 魔神を支配下におくには、その魔神の一族の長を屈服させればいい。 レッサーデーモンの登場は、ユージンにとって願ってもないことであった。 ひづめを鳴らし、ふきすさぶ嘆きの風に合わせて奇妙な戦の踊りを踊る悪魔達。その中に一際大きく、竜の牙を首からぶらさげたものがいた。眼光鋭く他のものを見張り、時折指示を飛ばす。 「あれか」 低く呟くと、ユージンは命令する。 「騎士隊長。紅の悪魔の長、そなたにまかせよう。見事、悪魔をぬかづかせてみよ」 灰色の口ひげをたくわえた初老の白騎士は頷いた。 「我らが殿の御為に」 騎士隊長は剣を振り上げ、自ら先頭きって悪魔の群れに斬りこんでいく。少し遅れて残りの白騎士達が続き、尼僧や魔術師達が援護の魔法を詠唱し始めた。レッサーデモン達は喉を仰け反らせておぞましい咆哮をあげると、長い腕を振って攻撃を開始した。途端に、辺りは血の匂いと怒号に満たされる。 一歩下がったユージンは、静かな瞳で部下と悪魔の死闘を見守った。 ユージンはここまで自らが魔神を支配することはなかった。オークキングやオーガ、翼竜といった下位魔神は騎士達が、中位魔神は騎士隊長が、それぞれ指揮する形をとりたかったのだ。指揮系統が複数あれば、敵を混乱させることができる。無能な指揮官ならば、味方の混乱にも繋がるが、白騎士達の能力の高さは、王宮の騎士達に勝るとも劣らない。決定的な差は、数だけだ。 その数の不足を、魔神で補う。王室に立ち向かえるだけの武力を手に入れる。 それがユージンの考えだった。白百合の姫が憂えた事は、現実だったのだ。 「これだけの魔神、レドゥアといえども黙殺することはできまいな」 呟くユージンの前で、悪魔と人との戦いが決着しようとしていた。 騎士隊長の神速の剣が、レッサーデーモンの長の両脚を深く抉る。レッサーデーモンはたまらずよろめき、膝をついた。白騎士達が、他の悪魔を牽制している隙に、騎士隊長は、すばやく魔神と盟約を交わす古の言葉を口にする。びくりとレッサーデーモンの長は大きく痙攣した。騎士隊長が再び、盟約の言葉を叫ぶ。見えない力にあらがうように、レッサーデーモンの長は痙攣を繰り返していたが、やがて騎士隊長にうやうやしく頭をたれた。それを見た他の悪魔達も、次々に膝をおる。 おお、と歓声が白騎士達の間からあがった。 騎士隊長は傷ついた身体を引きずりながらも、ユージンの前に進み出てひかえる。 「紅の悪魔、御しましてございます」 「ご苦労」 ユージンは労いの言葉をかけながら、、騎士隊長の手を取った。 「御手が汚れます」 恐縮する騎士隊長に、ユージンは首をふってみせた。 「かまわぬ。この紅き血は、我らが異界にありながら、人であるという証なのだから」 ユージンは騎士隊長の傷に手をかざし、癒しの魔法を詠唱した。異界の闇の只中では心細いような淡い光が、しかし、ゆっくりと騎士隊長の裂傷を癒していく。 騎士隊長は、父の代からギュスターム家に仕える古参の騎士だった。 いや、騎士隊長だけではなかった。今ここにいる白騎士の全てが、異界などとは無縁の人生を歩んできた者達だ。 その忠誠心ゆえに、己と運命を共にしてくれる騎士達に、ユージンは深い感謝と、謝罪の念を抱いていた。彼らは、二度と栄光の騎士と呼ばれる事はない。 「よし、血は止まったな」 「申し訳ございません」 あくまでも生真面目な騎士隊長の肩を叩き、ユージンは休憩を命じる。 ぬるりと、灰色の霧が辺りに広がった。 明らかな異変に、ユージンは眉を持ち上げ、腰の剣へと手を伸ばした。白騎士達にも警戒を促す。 「イザベル・・・?」 しかし、ユージンの警告が聞こえなかったのか、一人の白騎士が、女性の名を呼びながら、ふらりと一歩前へ出た。 「ああ、君だ。そんなところにいたのか。危ないよ、こちらに・・・」 何もない空間に向かって、白騎士は手を伸ばした。イザベル、というのは彼の恋人の名だった。だが、彼女はもういない。何故なら、異空へ渡るための生贄として、自らすすんで命を投げ出したからだ。 「さがれ、ニコラス!」 騎士隊長が白騎士の腕を引くが、それは遅すぎた。 「ああ、イザベル・・・!」 恍惚とした声で、恋人の名を呼ぶ白騎士の身体が、一瞬で干からびた。目は落ち窪み、肌はしわがれ、あっというまに頭髪が抜け落ちていく。やがて、鎧の重さに耐えかねたように、白騎士は崩れ落ちた。騎士隊長が掴んでいた腕が引きちぎられる。 尼僧達から悲鳴が上がった。その悲鳴がやむよりも早く、白騎士の身体は灰と化す。 「殿をお護りするのだ!」 騎士隊長が素早く命じ、ユージンの前に身を躍らせた。我に返った白騎士達も、次々にユージンの前に走り出る。 しかし、灰色の霧は、そんな彼らの忠義を嘲笑うかのように大きく膨れ上がり、頭からユージンを飲み込んだ。 「殿ぉっ!」 騎士隊長の叫びが遠くなる。 ユージンは、白騎士のように干からびる事も、灰になる事もなかった。しかし、灰色の霧に包まれたまま、白騎士達と引き離されてしまう。こちらから彼らの姿を見る事はできるのだが、彼らはこちらの姿を認識する事は出来ないらしい。 油断なく気配を探るユージンの前で、霧が揺れた。 「ジーン」 声と共に、灰色の世界に光が零れる。ほのかな、白色の尊い光。 ユージンの事を「ジーン」と呼ぶ人物は限られていた。今は亡き父母と、従姉の君たる女王オティーリエ。そして、婚約者である白百合の姫の四名のみだ。そのいずれもがこの場にはいないはずであったが、響いた声は聞き覚えのある、いや、魂に刻まれた声だった。 血の匂いが引いていく。ゆるやかに広がるのは、かぐわしい白百合の香。乳白色の長衣の裾を揺らして、霧の向こうから一人の娘が現れる。 なんと美しいのだろう。 ゆるく編まれた蜂蜜色の髪が白磁の肌を縁取るさまは、野に咲く白百合に陽光が降り注いでいるかのようだ。乳白色の衣に包まれた身体はなめらかな曲線を描き、海中で眠る貝に育まれて光沢をまとう真珠を思わせる。 芸術家が彼女の姿を見たとすれば、その美しさを写し取ることに躍起になり、そしてその作業のあまりの困難さに嘆きの声を上げるだろう。 彼女の美しさは、造形だけではない。微笑む新緑の瞳の輝きが、優しい表情が、雰囲気までもが美しいのだ。 その彼女が、白百合の姫グレース=ザリエルが、やわらかな微笑を浮かべ、こちらに歩み寄ってくる。 「ジーン、愛しい貴方」 繊細な指が長衣のボタンを一つ外す。 「お会いしたかった、わたしのジーン」 また一つ。 「名前を呼んで。いつものように」 また一つ。 「優しく呼んで、貴方の声で」 また一つ。 「ねぇ、ジーン」 グレースがユージンの前に立った瞬間、しゅるりと衣擦れの音をたてて乳白色の長衣が滑り落ちた。 その裸体は、まさに初夏の野に咲く涼やかな白百合。 グレースはそのままユージンを見つめ、じらすようにゆっくりと蜂蜜色の髪をほどいた。ゆるく波打つ細い髪が零れ落ち、つつましく両の胸のふくらみを覆う。 「ジーン」 グレースははにかんだ笑みを浮かべユージンを抱き締めると、紅唇をユージンの頬に押し当てた。紅唇は頬を滑り、ユージンの唇に重ねられる。滑らかな舌が唇の輪郭を辿り、甘い吐息が零れた。 グレースは顔を離すと、ユージンの顎に指をかけ、持ち上げた。わずかにそったユージンの喉に、熱い舌と、冷たい指が走る。ユージンの鼓動を確かめるように、それは何度も上下した。時折、レンゲの花びらのような跡を残しながら。 「醜悪な」 黙して動かなかったユージンの右手が翻った。密やかに抜かれていた護身用のダガーが、グレースの背にぴたりと当てられる。 「それ以上私の白百合を汚すことは許さぬ」 ユージンは、ぐっとグレースの肩を押さえつけると、ためらいなく白い肌にダガーをつきたてた。 「ああっ」 悲鳴をあげて、グレースが崩れ落ちる。 震えながらグレースは顔を上げ、潤んだ瞳でユージンを見つめた。 つ、と紅唇から紅の血が糸を引いて落ちる。白い胸に紅の雫が跳ね、妖しい程の艶を白百合の姫に添えた。 ふ、とユージンは凄絶な笑みを浮かべた。 「いや、最早あの人は私のものではないな・・・。だが」 ユージンの長い脚が振りぬかれた。顎の骨を砕かれて、グレースが悲鳴も上げずに転がる。 「貴様のその姿は醜悪すぎる」 ユージンは容赦なく、転げたグレースの腹を踏みつけた。ごぼりと血の泡が、愛らしい口元ではじけた。 「やめろ。人ならざるものが、人を偽るのは」 「ジーン、ど、して・・・・・・」 悲痛な声でユージンの名を呼び、グレースは唇を震わせる。 光が弾け、グレースだったものは一瞬で砂と化す。 砂は舞い上がると、ユージンの周りを旋回し、少し離れたところで人の女の姿をとった。 豊満な胸とくびれた腰が煽情的な黒髪の美女であったが、その姿はユージンに何の感銘ももたらさなかった。 「お堅い若様でいらっしゃる」 楽しそうに笑いながら美しい唇を持ち上げ、女は再びユージンに近づいた。ふう、とユージンの耳元に甘い息を吹きかける。 「それになかなか豪胆だこと。顔色一つ変えないとは口惜しい。こういうカタチは、お前達人の男が好むものでしょう」 「全てがそうとは限らぬ」 ユージンの返答に、女は形の良い眉を器用に片方だけ持ち上げた。 「そうね。だからこそお前の好む娘のカタチをとって・・・」 ぐ、と女はうめいた。 ユージンの剣が女の背から生えていた。 「戯言はいい。”淫魔”よ」 女は、ユージンの手に自らの手を添えて身体から剣を抜くと、唇をゆがめた。 「はなから見抜いていたか、人の子よ」 「異界に白百合は咲かぬ。咲くのは貴様のような妖花のみだ」 クツクツと声をたて、しどけなく身体をくねらせて、女、いや淫魔は笑う。身体の中心に赤黒く開いていた穴はいつしかとけるように消え、滑らかな白さが戻った。 「まるで己は清浄だとでも言いたげな発言だな」 美しい女の声と、深みのある優しげな男の声が、同じ言葉を呟いた。 淫魔は、人の夢に現れる上位の魔神であった。男性の夢には絶世の美女の姿、女性の夢には魅惑的な青年の姿で現れ、甘く愛を囁きながら人と交わり、その精をすする。淫魔との交わりは、人との交わりでは決して得ることの出来ない、狂おしいまでの快楽を得ることが出来るが、その愛撫を受けたものは精を吸い尽くされ、砕け散るのだ。 「我ら魔神の力を借りねば、権力を得る事も出来ぬ男が」 「私が、権力を・・・?」 初めて、ユージンの顔に面白そうな表情が浮かんだ。 顔に手を当て、天を仰いで高らかな笑い声を響かせる。 「人の心の隙をつくはずの淫魔が、人の心を読めぬとは、これはとんだお笑い種だ!」 ユージンの言葉をそのまま飲み込むとするのなら、彼は権力を求めていない事になる。 「確かに私は女王に反旗を翻した。だがそれは、私が王位を得る為ではない。リーエ姉上に正道に立ち戻ってもらう為、未来の平和を勝ち取る為だ!」 ユージンの激情を受けたかのように、彼のマントが大きくはためく。 「王家に次ぐ地位を持つギュスターム家が反旗を翻したとなれば、女王もその意味を考えねばなるまい。今の我が国の状態が、間違っているのだと気づかざるを得ないだろう。その為なら、私は反逆者の汚名を着る事も厭わない。そして」 鋭い瞳で、ユージンは一対の淫魔を睨みつけた。 「あの忌まわしき迷宮に隠された貴様ら魔神の宝とやらを、この手で破壊する。姉上が心奪われた邪なモノを打ち砕くのだ!」 ユージンの叫びが闇に吸い込まれるのと同時に、沈黙が訪れた。 やがて、淫魔が呟いた。 「哀れなり」 「哀れだと?」 一対の淫魔は、互いに口づけを交わしながら頷いた。 「そう、哀れ」 「瓦礫の砂上に権力を求めるも哀れだが・・・」 「すでに闇に閉ざされた地に、光を求めるがより哀れ」 淫魔は悩ましげな視線で、淫らな交わりにユージンを誘うが、ユージンは動じた様子もなく、毅然とそれを跳ね除けた。 「砂上ではない。闇に閉ざされてなどいない。女王オティーリエが存命である限り、再びドゥーハンは蘇る!」 ユージンのその叫びが甘美な快楽であるかのように、淫魔は長い舌で己の唇をねっとりと舐めた。 「女王が、存命である、と」 男の淫魔がつ、と闇色の瞳を動かしてユージンを見つめた。宿っているのは、哀れみと、嘲笑。 「何が言いたい」 淫魔の放った一言を、ユージンは聞き流すことができなかった。 淫魔達はユージンの反応を楽しみながら、再び互いの身体を絡めあった。 「知りたければ、我らを屈服させるがいい」 「それが異界の掟なれば」 「知ればお前は真実を」 「我らは新たな快楽の糧を得ることができる」 淫魔の身体が熱く溶ける。堕落と狂乱の声を上げながらあわ立つように溶け合う。やがて淫魔達の体は砂となり、あたり一面に舞い散った。 砂は、ユージンの髪や肌をなでながら音を立てて流れると、徐々に一つの形をつくりあげていく。 ひづめが現れ、紋様が描かれた体ができ、黒い皮翼が生える。そして、砂は渦巻きながら巨大な馬の顔を作り上げた。 いななき、翼を打ち震わせ、魔神が立ち上がる。 暗紫色の巨馬こそが、淫魔の真の姿であった。 淫魔の鼻面から薄紅の毒の息が零れる。 「さあ、か弱き人間よ。我を屈服させよ。それもまた、我には悦び」 しかし、言葉とは裏腹に淫魔の表情からは、ユージンをあなどっている様子が見て取れた。 ユージンは、ついに対峙した上位魔神に向かって、剣を抜き放った。 「聞き出してみせるぞ」 「お前に可能か、背信の騎士よ」 淫魔の口元が卑しく蠢く。 ユージンは秀麗な顔に、見惚れるような笑みを一つ浮かべた。誇り高く、清冽な、騎士の笑みを。 「聖ドゥーハン王国十七代女王、オティーリエ。かの人のガードに騎士はいない。それは何故か」 剣が、持ち上げられる。 「かの人の最強の騎士は、その身分ゆえに、ガードとなる事を許されないからだ。最も女王の信頼を勝ち取り、最も女王を敬愛する騎士は、ガードになれない」 淫魔は、素早く両の手を組み合わせると、一撃で死を招く致死の魔法を放った。 「その身に刻み、そして知れ」 音を立てて、ユージンの剣が旋回する。 「私が陛下の最強の騎士だ!」 |