人の香りがする部屋だった。
 冷たい石床のところどころには布が引かれ、机の代わりだろうか木箱が幾つか並んでいた。
 山のように積まれた本、インクの壷に挿された羽ペン。書きかけの羊皮紙。
 蝋燭にともるオレンジ色の炎が、温かかった。

 カレブが、部屋の様子を見て取る間、僧服の娘はリカルドにしなだれかかったままだった。
 ぐすぐすと鼻を鳴らして、泣いている。

 リカルドは優しい言葉をかけて、何とか娘を泣き止ませようとしていた。

 しかし、娘はなかなか泣き止みそうにない。

 気分が悪かった事もあり、カレブの我慢はあっさり限界に達した。

 ビィン!

 壁に突き刺さった手投げナイフが、鈍い音を立てて震える。
 カレブが電光石火の勢いで放ったのだ。

 顔をのけぞらせた娘は、口をパクパクさせてカレブを見た。
 無理もない。ナイフは、リカルドと娘の間を飛んでいったのだ。

「な、な、な」

 カレブは意地悪く笑った。

「泣き止むには、驚くのが一番だ」

 言葉どおり、娘は泣きやんでいた。
 だが。

「なにすんのよーっ!!」

 娘は怒りのあまり、顔を真っ赤にして肩を震わせていた。
 一歩間違えれば、死ぬところだったので、彼女の抗議はいたって正しい。

 リカルドは、額を片手で押さえて天を仰いだ。
 グレッグは少し離れた所で苦笑している。

「人が気分悪いのに、ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ、うるさいからだよ」

 涼しい顔でカレブは答える。

「え、気分が悪いの?」

 娘はピタリと怒りをおさめると、カレブの腕を取った。
 そして、胸の前に手をかざす。

「放せ!」

「静かにしなさい!」

 手を振り解こうとするカレブを一喝すると、娘は目を閉じ、何事かを呟き始めた。
 詩にも似たその言葉は、癒しを導く魔法の呪文だった。

 柔らかな白光が身体の中に吸い込まれるようにして消えると、気分が悪いのが幾分ましになった・・・ような気がした。

「いかが?」

 娘は、若草色の瞳をほころばせた。

「・・・ありがと」

 「ありがとう」とは、感謝の気持ちを人に伝え、人間関係を円滑に進める大切な言葉だ。
 しかし、そこに肝心の気持ちがこもらなければ、これほどイヤミになる言葉もない。

 カレブが言った「ありがと」は、まさしくそれだった。

「可愛くない」

 ぶっすりと、娘は呟く。
 そして、手を組み合わせると、大げさに祈りをあげ始めた。

「神様、未熟なわたくしをお許しください! 人を癒した後に感謝を求めるなんて、大間違いでした。まだまだ、まーだまだ、修行が足りないのですね」

 ・・・・・・なかなかいい根性をしているな、とカレブは思った。

 見た目は柳の枝のようにほっそりとしていて、可愛らしい顔をしているが、かなり「いい」性格の持ち主らしい。

 これ以上一人芝居を続けられても困るので、カレブは現実的な質問を投げかける事にした。

「あんたは、こんな所に一人でなにをしてたの?」

 ハッと娘は我に返り、カレブ達を見つめた。

「あ、ああ、わたし、すごく、困っていたの」

「・・・・・・泣くんじゃないぞ」

 カレブは、先に釘をさす。

「わたしは、修行中の僧侶のサラ。サラ=マクダフよ。無料の救護院を開くのが夢なの」

 それじゃ食べていけない、と言おうとした途端、リカルドにわき腹をつつかれた。
 黙っていろ、という事らしい。
 あんたに指図されるいわれはないと思ったが、話がややこしくなっても困るので、カレブはおとなしくしている事にした。自分で自分を褒めたい気分だった。

「本当はね、救護院に勤める予定があったのよ。でも、あの閃光で救護院自体が無くなってしまって・・・。わたし、行く所がなくなっちゃったの。そりゃあ、最初は途方にくれたわ。これから、どうすればいいんだろうって。すごく、たくさん考えた。自分が何をすべきなのか。どうやって生きていくべきなのか・・・」

 サラはちろりと唇を舐めると、話を続けた。

「悩んで、悩んで。そして、ある日決心したの。自分の手で、救護院をつくろうって。だってあの恐ろしい惨劇を生き残れたのも、何か人の役にたつことをしなさいっていう、神様のお導きだと思うから・・・」

 カレブは大きく頷いた。

 リカルドが目を丸くする。
 まさか、今の話に現実主義者のカレブが同意するとは思わなかったのだ。

 こいつも、少しは人情深いところがあるんだな、と思ったが、次の瞬間それは間違いだったと知る。

「いやあ、長い自己紹介をありがとう。それはいいから、ぼくの質問に答えろ。いいか、よくきけよ? あ・ん・た・は! こんな所に一人でなにをしてたんだ!」

 なんの事はない、カレブはうんざりして適当に頷いただけだったのだ。
 まあ、そのほうがこいつらしい、とリカルドは苦笑した。

 カレブの冷たい発言にめげる事もなく、サラは続ける。

「うん、今から話すから黙って聞いていてよ。あのね、救護院を開くには、僧侶の腕を磨かなきゃいけないの。そこに、この迷宮の話でしょう? 丁度いいって思うじゃない。王国の為にがんばる冒険者の人達や、兵士の皆さんを助けてあげられるって。それで、わざわざ北の街からやって来たんだけど・・・」

 スッとカレブの瞳の色が深くなった。
 胸を押さえる。

「どうした、また気分が悪いのか?」

 カレブは首をふる。

「いい。続けろ、サラ」

 サラは心配そうにカレブを見たが、そこに拒絶の色を感じて頷いた。言われたとおりに話を続ける。

「一人で迷宮に入るのは無謀だって言われて、一緒に行ってくれる戦士を雇ったのね。なけなしのお金をはたいて」

「なんだって?」

 リカルドが眉を跳ね上げる。

「金を払って? そんな事しなくても、仲間になってくれるやつはたくさんいるだろう? ギルドで紹介してもらうって手もあるはずだ。なあ、グレッグ」

 黙って話を聞いていたグレッグも、リカルドの言葉に頷いた。

「え、そうなの!?」

 サラは目を丸くする。
 どうやら彼女は世間知らずのようだ。
 無料の救護院を一人で開こうと思う事からもわかるのだが。
 有力な貴族か、大きな寺院の後ろ盾でもない限り、無料救護院を運営する事など不可能だ。あっという間に首が回らなくなる。

「で、その雇ったっていう連中は? 魔物にやられたのか」

 リカルドは、最も考えられる事態を述べた。

 迷宮にもぐる全ての者が、生きて帰れるわけではなかった。
 ものいわぬ骸となりはてる可能性の方が高いのだ。

 しかし、サラは首をふった。

「うんざりだっていって、どこかに行っちゃった」

「は?」

 リカルドはまじまじとサラを見た。

「あの、わたしって、お喋りかしら?」

 深く、カレブは頷く。
 よく回る舌だと、さっきから呆れていた。

「そう、やっぱりそうなのね。あの・・・・・・、ここに来るまで、わたしの夢を語り続けていたら、うるさいって怒られて・・・、それで、うんざりだって、あの人達どこかに行ってしまったの」

 ・・・・・・ようするに、お喋りが災いして、彼女はおいてきぼりを食らったらしい。

 カレブは笑いころげた。

「そ、そいつらの気持ち、よ、よくわかるよっ!」

 サラは、むくれる。

「ひどい! わたし途方にくれていたんだから。でも、あなた達が来てくれて助かったわ! ね、わたしを仲間にしてくださらない?」

 カレブは笑いをぴたりとおさめると、サラを見た。

「なんだって?」

「見たところ、あなた達、僧侶がいないようだし。いいでしょう?」

「冗談だろっ! カンベンしてくれ」

 グレッグにリカルド。その上お喋りな僧侶まで背負い込むつもりは、カレブにはさらさらなかった。

 だが。

「僧侶が居れば、確かに助かるよな」

「ああ。私もいくつか魔法は使えるが、やはり専門の者が居た方が心強いだろう」

 リカルドとグレッグが頷きあっている。

「勝手に決めるな!」

 カレブは慌てて怒鳴った。

「けどさ、カレブ。一階の最深部を目指すなら、僧侶の一人くらい居た方がいいぜ。早く行きたいってんならなおさらな」

 リカルドは、言い聞かせるようにそう言った。
 サラはこくこくと頷き、目を輝かせる。

「わたし、がんばるわ。足手まといにはならない」

「それに、このまま見捨てるわけにもいくまいよ。僧侶が一人で無事に戻れるとは思えない」

 グレッグがぽつりと呟く。

 カレブは思い切り見捨てたかったが、キャスタが言った一言でしぶしぶ頷く羽目になった。

「見捨てたりしたら、剣士様に怒られると思うだど? 剣士様、怒るとコワイだ」

 はあ、と大きくため息をつく。
 剣士の怖さは身に染みてわかっていた。出来ることなら、機嫌を損ねたくはない。

「・・・わかったよ。好きにしろ」

 きゃあ、とサラは歓声をあげてリカルドに抱きついた。

「よろしくね!」

 フンと鼻をならしてカレブは奥の扉へ進む。

「決まったんならさっさと行くよ」

 リカルドとグレッグは歩き出したが、サラは動かない。

「サラ、早く」

 イライラと振り向くと、サラはなんだかモジモジしていた。

「なに。なんなの」

「あ、あのね?」

「うん」

 サラは顔をあげると微笑んだ。

「わたし、さっきあなたにかけた魔法で、魔力を使い切ってしまったの。だから、一度、街に戻りたいなあって思って・・・」

 カレブは眉間に皺を寄せた。

「役立たず」