グレッグは、静かに祭壇に近づき右手を当てた。
 じっと目を閉じ、過去に思いを馳せる。

「どうだ。恐怖は消えたか」

 やっとカレブから解放されたリカルドは、頭を振りながらグレッグの後姿に問うた。
 グレッグは、ゆっくりと振り向くと、首を振る。

「なんだよ、それはっ! 散々苦労した結果がそれなのかっ!?」

 カレブは、またヒステリーを起こした。
 どうにも、感情のスイッチが怒りの方向に入ったままのようだ。

「ああ、叫ぶな。頭に響く」

 リカルドは、しかめつらでカレブの口をおさえた。

「むぐう!! うううう!!」

 後ろから抱え込まれた形になり、カレブはもがいた。
 リカルドに肘鉄を食らわせるが、彼は手を放さない。

 数度肘鉄を繰り返し、手がいい加減痺れてくると、カレブはついに諦め、静かにした。
 こうなったら、さっさと終わってくれる事を祈るのみだ。

 リカルドは、ニヤリと笑うと、カレブから手を放した。

 シンとした沈黙が訪れる。

 グレッグは、白い息をひとつ宙に漂わせると、おもむろに口を開いた。
 目を閉じ、独り言のように呟く。

「あの時と同じ場所に立ち、あの時と同じ魔物と戦った。怪我をする事もなく、私は生きている。私は、あの時をやり直した。だが、恐怖は、消えない・・・」

 静かに開かれる、漆黒の瞳。

「恐怖は、消えない。だが、それでいいのかもしれない」

 意外な言葉に、カレブはキョトンとしてグレッグを見た。
 その視線に気づいたのか、グレッグは、かすかに笑う。

「私は、もがいていた。「死」という恐怖と戦い、なんとかして打ち勝とうと。そうでなければ忍者でいられない、と。・・・だが、実際には私は忍者で、ここに、こうして立っている」

 リカルドは、大きく頷いた。

「そうだな。どこから見ても、立派な忍者に見えるぜ」

「私は、恐怖を抱いたまま、生きようと思う。この恐怖に怯えるのではなく、共存しようと思う。死は、いずれ等しく皆の上に訪れるのだから。ならば、この恐怖を見つめ、来るべき死に備えよう。息絶えようとするその時に、再び後悔しないように。悔いのない人生だったと思えるように・・・・・・」

「・・・あんた、強くなるぜ」

 リカルドが笑った。

「恐怖なんて、知らないですむんなら、その方がいいけど。知ったら、知ったゆえの強さが生まれると思う。無知ゆえの強さより、きちんと理解して、何かを掴んだ強さの方が、確かだと思う」

 な、カレブ。とリカルドは言った。
 しかし、カレブは答えない。

 グレッグは、苦笑しながら聞いた。

「君は笑うだろうか。消えない恐怖を抱く忍者、と」

 リカルドは、ちらりとカレブを見る。
 なんだか、怒っているように見えた。
 また、余計な事を言って、グレッグを落ち込ませるんじゃないだろうか、と心配になる。
 せっかく立ち直ろうとしているのに、きつい一言が放たれたら、全てが水泡に帰さないとも限らない。

「馬鹿だな」

 カレブは呟いた。

 リカルドは、あわててカレブを止めようとする。
 だが、リカルドが口を開くよりも早く、カレブは続きを口にした。

「馬鹿だな、それを、乗り越えるって言うんだろう?」

 そして、プイと横を向く。
 頬がかすかに紅かった。

 リカルドとグレッグは、顔を見合わせる。
 そして、この少々ひねくれた少年の心を逆なでしないように、そっと微笑みあった。


 

 

 十字路まで引き返したカレブ達は、さらに奥を目指した。
 「いだいなる戦士」なる者の注意書きが残された壁の前を通り過ぎたところで、リカルドが立ち止まる。

「あれ。ラディックさん、居ないな」

 リカルドはキョロキョロと辺りを見回した。

「珍しい事もあったもんだ」

「誰、ラディックって。魔物?」

 カレブの言葉に、がくっとリカルドは肩を落とす。

「んなわけ、あるかっ! あの人は、王宮騎士だ。だいたい、「ラディック」なんて名前がついている魔物がいるわけないだろうが」

 カレブは挑戦的な表情を浮かべると、キャスタを前に突き出した。

「こいつには、「キャスタ」とかいう、やたら立派な名前がついているけど?」

 褒められたと思ったキャスタは、嬉しそうに何度も頷く。

「ヤメロ。涎が飛ぶだろ」

 キラキラと飛び散る涎に、カレブは思わずキャスタから離れた。
 ボギーキャットの血に汚れた上に、オークの涎を浴びたくはない。

「ラディック殿がいないという事は、女王やクイーンガード長も居ないという事だろうか」

 ゆっくりとカレブが顔をあげた。
 強張った顔。
 飴色の瞳が暗くにごって、グレッグを見つめている。

 グレッグは、いぶかしげに呟いた。

「どうした、カレブ」

 リカルドも、カレブの様子が普通ではない事に気がついた。

「カレブ」

 名を呼び、細い肩に手を乗せる。

「・・・気分、悪い」

 いつもなら振り払うだろうリカルドの手もそのままに、カレブは答えた。
 小さな手が、そっと己の胸を押さえる。

「おかしいな。急に・・・」

「貧血か?」

 カレブは首を振る。
 平衡感覚はきちんとしている。気が遠くなったりもしない。
 ただ、ひどく気分が悪かった。吐き気がする。

 青ざめる顔色に、リカルドは不安になった。

「戻った方が、いいな」

 きびすを返そうとしたリカルドを、カレブは手を掴んで止める。

「戻らない。行くよ。早く、終わらせたい」

「・・・そんなに、イヤか、俺達が」

 リカルドは、苦笑した。
 カレブは、片方の眉だけを器用に持ち上げて笑う。

「ああ、イヤだね」

 フンとリカルドは鼻を鳴らすと、歩き出した。

「いいのか、リカルド」

 すれ違いざま、グレッグが呟く。
 リカルドは、カレブに聞こえないように小さく答えた。

「言い出したら聞きやしないよ、あの意地っ張りは。さっさと進んで、休ませる」

 なるほど、とグレッグは頷いた。

 カレブは、目を瞑って呼吸を整えると、二人に続く。
 キャスタは、心配そうに、カレブの隣についた。
 ・・・涎を飛ばさないように気をつけながら。

 リカルドが扉を開けると、女と目が合った。
 グレッグが言っていた女王、ではない。
 白い僧服をまとった若い人間の娘だ。

 娘は、目を潤ませるとリカルドに抱きついた。

「神様、感謝します!」

 カレブは、むかつきがいっそうひどくなったような気がした。