第五幕 遠 出

「本で読んで知ってはいたけど、海の水って、本当に塩辛いんだ」

 唇に飛んだ波しぶきを舐めて、クリスティンは呟いた。

「クリスティン様! 濡れてしまわれますわ!」

 振り返ると、侍女のカテリナが心配そうにこちらに向かって叫んでいた。対して、砂浜の上に広げた布に腰をおろしていたタイニィーアは、特に心配するでもなく、クスクスと笑っている。

 カテリナのお小言が始まる前に、クリスティンは二人の所に戻った。

 フェルナンドが寛大と言えども、さすがに、タイニィーアと二人だけの遠出は許されなかった。侍女のカテリナと、護衛として数人の騎士がつけられている。騎士達は少し離れた所で、油断無く辺りに気を配っていた。

「近くで見ると、海ってすごいね。なんだか、感動した」

「わたしも。こんなに濃い潮の香りをかいだのって初めてよ」

 喜ぶタイニィーアを見て、クリスティンは嬉しくなった。来てよかったと心から思う。そして、遠出を許可してくれたフェルナンドに感謝した。

「ガリオンに、海はないのよね?」

「うん。小さな湖はいくつかあるけれどね。だから、シェリダンに来て初めて海を見た時から、ずっと間近で見たいって思っていたんだ」

 濡れた所を拭いてください、とカテリナがハンカチーフを差し出した。
 それを受け取ろうとしたクリスティンの目が、沖に浮かぶ一隻の船を捕らえた。まだ距離はあるが、それは確実にこちらに近づきつつある。こんな所に、沖から船が来るなど、あまり考えられなかった。シェリダンを訪れる船は、全て港に停泊する事が義務付けられているからだ。そして、この辺りには砂浜が広がっていて、船が停泊できる港などはない。

「スティン?」

 笑みを消したクリスティンを見て、心配そうにタイニィーアが声をかける。
 クリスティンは嫌な予感が雲霞のように胸に広がるのを、止める事が出来なかった。

「ニア、少し早いけど、引き上げよう」

 タイニィーアが驚いて、クリスティンを見る。

「どうして? まだ来たばかりなのに……。お茶の用意を始めたところなのよ」

「また、次の機会にゆっくり来ればいい」

「でも」

「クリスティン様!」

 カテリナの怯えた声が、二人の会話を止めた。振り向くと、船が恐ろしい速さでこちらに近づいてくる。

「なっ……」

 その異常な速さに、クリスティンは絶句した。異変に気づいた騎士達が駆けつけて来る。

「クリスティン様! この場を離れましょう!!」

「ああ。ニアを城へ!」

「ス、スティンは!?」

「これはあきらかな異常事態だ。僕は残って事を判別する義務がある」

 クリスティンは立ち上がりながら、騎士達に指示を与えた。

「二名はニアの警護と城への連絡を。他の者は僕と残ってくれ」

「いや!」

 タイニィーアは抱き上げようとした騎士の手を振り払うと、クリスティンの腕に抱きついた。

「わたし、わたし、あなたの傍にいる! あなたの傍が一番安心できるの!」

「ニア!」

 クリスティンの厳しい声に、タイニィーアはびくりと肩を震わせたが、決して離すまいと細い腕に力をこめた。

 こうなったら頑として譲らないのがタイニィーアだ。クリスティンは、何とか城へ戻るようにタイニィーアに説得しようと言葉を探したが、それはなかなかに困難だった。話し合いをしている時間はないのだ。

「……一名は伝令へ!」

「ハッ!」

 騎士達は敬礼すると、素早く行動を開始した。一人が城へと戻るべくその場を離れ、残りの者はクリスティン達の前に、壁として立つ。

「スティン」

 タイニィーアはほっと安堵して、クリスティンを解放した。

「何事もない事を祈ろう。――カテリナ、ニアを頼むよ」

「は、はいっ!」

 カテリナは、震えながらも、ぎゅっとタイニィーアを抱きしめた。

「あれは……、リルガミンの軍船!!」

 騎士の一人が息を飲む。近づいてきた船は軍船だった。トレボーに魔よけの加護を与えられた、無敵と称される船だ。その力によって、たった一隻で数百の船団と戦えると噂されている。

「来るぞっ」

 軍船は、クリスティン達から少し離れた所に、轟音を立てながら乗り上げた。
 船底が砂をかむ嫌な音がやむと、船は止まる。

 一拍の間を置き、悲鳴と共に船から人が転がり落ちてきた。
 砂浜にたたきつけられて、うめきながらよろよろと立ち上がる。あちこちにひどい傷を負っているようだ。

「助けて、助けてくれ!!」

 転がり落ちた人間――、リルガミンの兵士は、悲鳴をあげながらクリスティン達の方に駆け寄ろうとする。だが、兵士を追うように、いくつもの黒い影が船から飛び降りた。

 兵士が一際高い悲鳴をあげる。

「まさか」

 クリスティンは、腰の剣を抜き放った。自分の記憶が正しければ、あの影は……。

「コボルド……!」

 クリスティンは、兵士を襲う黒い影に走り寄る。そしてそのまま、間髪いれず剣を叩き込んだ。

 ギャン! という悲鳴をあげ、黒い影は砂浜に転がった。砂に散った血を波が洗っていく。
 薄汚い皮の服をまとった獣面のその生き物は、まちがいなく、コボルドと呼ばれる「魔物」だった。



その生き物は、まちがいなく、コボルドと呼ばれる「魔物」だった。


 コボルド達は、低いうなり声を上げながらクリスティンを取り囲む。
 兵士が再び悲鳴をあげた。まるで、それが合図だったのかのように、コボルド達は一斉にクリスティンに飛びかかった。

「くっ」

 次々にコボルド達の剣や爪が襲いかかって来る。おまけになれない砂上の戦いだ。とても、クリスティンに兵士を助ける余裕はなかった。兵士は、悲鳴を上げながらしばらくは逃げ惑っていたが、やがて、コボルドに喉笛を噛み切られ、絶命した。

 数匹のコボルドを切り伏せたところで、ついに砂に足を取られ、クリスティンが体勢を崩す。狡猾なコボルド達がその好機を逃すはずがない。牙と剣が危険な光を放った。タイニィーアの悲鳴が高く響く。

「いやあっ、スティンっ!!」

 タイニィーアの悲鳴で我に返った騎士達が、クリスティンを助けるべく駆け寄った。
 クリスティンに振り下ろされようとしていたコボルドの剣は、間一髪で跳ね飛ばされる。

「全滅させるんだ! 一匹も逃がしちゃいけない!!」

「ハッ」

 クリスティンと騎士達は、確実にコボルドを葬り去っていった。
 コボルドと剣を交えながら、クリスティンは、必死で沸き立つ心を抑える。

 戦う事に、喜びを感じちゃいけない。自分の為に、戦っちゃいけない。エラを死なせてしまった時の気持ちを思い出すんだ。皆を……ニアを守るんだ!!

 最後の一匹を倒したとき、クリスティンは全身にびっしりと汗をかいていた。

 肩で息を整え、背後を振り返る。

「全員……、無事?」

「ハイ」

 騎士達は青ざめた顔でうなずいた。そして、おぞましげに足元に転がるコボルドの屍を見る。

「なぜ、魔物が……」

「聞いたことがある」

 一人の騎士が、ぽつりと呟いた。

「トレボーは、魔よけの力を使って、魔物さえも手駒として使っていると」

「では、何故、仲間を襲うのだ?」

「そこまでは……」

 クリスティンは、軍船を見上げた。まだ、魔物が残っているかもしれない。
 調べてみなくては。そう思った瞬間、船からふわりと暗紫色の霧のような物が舞い上がった。人間の大人ほどの大きさに凝り固まり、くぐもった音をたてながら、不気味に表面を泡立せている。

 霧はクリスティン達の頭上を超え、まっすぐにタイニィーアの方へ向かった。

「ニア!!」

 わずかに遅れてクリスティンが走る。だが、霧は素早くタイニィーアを抱き込んだ。
 タイニィーアの顔が、恐怖に歪む。やがて、それは苦悶の表情へと変わった。

 騎士の一人が、剣をかざしてバディオスの魔法を詠唱する。
 一瞬で生命力を奪う魔法を浴び、暗紫色の霧――、ガスクラウドはたまらず消滅した。

「ニア!!」

「姫様、姫様!!」

 カテリナが狂ったように、泣き叫ぶ。
 タイニィーアは、緑色の目を見開いたままその場に倒れ付し、硬直した唇を震わせていた。

 狂王トレボーが、魔術師ワードナに魔よけを盗まれた、ちょうどその日の出来事だった……。