第六幕 決 意

「どうしても行くのか、婿殿。いや、クリスティン」

「はい」

 クリスティンは静かに、だがはっきりと答えた。
 フェルナンドはため息をつくと、眼下に広がる街を眺めた。
 青白い三日月が、バルコニーに立つ二人を照らし出す。

「私は、立場上それを許す事は出来ない」

「わかっています。ですから、出奔という形をとってくださってかまいません」

「クリスティン」

「例え、つけられた見張りを倒しても、僕は行きます」

 フェルナンドは、苦渋の表情を浮かべ、首を振った。

「君は、この国を継ぐべき者なのだぞ、クリスティン」

 ほろ苦く、クリスティンは自嘲した。

「今の僕に、その資格はありません」

 クリスティンの声に滲むのは、深い悔恨――。

「十年……、時間は、十年もあったんだ。なのに、僕は……。あの時、僕が癒しの魔法を使えたら、こんな事にはならなかった」

 半年前に起こった浜辺での事件は、クリスティンの心を深く傷つけていた。

 何とかガスクラウドを撃退したものの、タイニィーアの身体を蝕んだ麻痺毒を癒す方法を、その場にいた誰も持ち合わせてはいなかったのだ。結局、城に戻り僧侶にディアルコの癒しを与えられるまでタイニィーアは苦しみ、以来、元々丈夫ではなかった身体をさらに弱らせ、寝台から起き上がる事も出来ない日々を送っている。

「シェリダン最高位の司教でさえ、ニアの健康を取り戻せない。だとすれば、残された方法はひとつしかありません」

「魔よけ、か……」

 狂王トレボーが持つ、神秘の魔よけ。
 確かに、神話の時代に作られたと言われるその力を解放すれば、奇跡は起こるかもしれない。

 だが、それは皮肉な事に、今回の事件の元凶でもあった。

 シェリダンの海に、リルガミンの軍船が現われたのと時を同じくして、魔よけは、ワードナと名乗る魔術師に盗まれた。驚くべきことに、それは白昼どうどう、警備の厚いリルガミンの城内で行われたのだ。ワードナは強大な魔術で近衛達を焼き払い、トレボーを見えざる鎖でしばりあげると、臣下の者が立ちすくむ中、悠然と魔よけを手にしたという。

 ワードナは、トレボーが発動させていた魔よけの力を全て解除し、新たな力を発動させた。
 結果、各地で魔よけの力を帯びていた物は暴走し、様々な事件を引き起こしたそうだ。
 兵として使われていた魔物達は、その性質の赴くまま人々を襲い、魔よけの力で改造されていた数々の強力な武器は、使用者共々吹き飛んだという。シェリダンの浜辺に乗り上げた軍船も、その中の一つだったのだ。

 当然、フェルナンドはトレボーに抗議の文書を送り、謝罪を要請したが、一切の口出しは無用、当方関知しかねる、といった内容が、丁寧な脅迫の言葉と共に送られて来ただけだった。
 フェルナンドは激昂したが、魔よけを失ったとはいえ、リルガミンの軍事力はあなどりがたい。砂を噛む様な思いで、それ以上の追求を避けるしかなかった。

「魔よけは今、ワードナと共に、地下迷宮にあるそうです」

 その話は、フェルナンドも知っていた。
 この大陸に住む者で、ワードナの迷宮の事を知らぬ者は、最早皆無と言っても良いだろう。

 ワードナは、魔よけの力を使って、リルガミンに巨大な地下迷宮を作り、そこに住み着いたのだ。最下層に自らの居住する部屋をしつらえていると聞く。

 いったい、ワードナが何を思ってそんな酔狂をしたのかは、わからない。
 わかっているのは、迷宮には魔物が満ちているという事、魔よけはワードナと共にあるという事、そして、狂王が魔よけを取り戻すために、冒険者を集める触れを出したという事だけだ。
 魔よけを取り戻した者は、近衛の兵として取り立てられ、莫大な賞金を得られるという。

「迷宮を抜け、ワードナを倒し、魔よけを手に入れます。狂王になど、渡しはしない。ニアの身体を治したら、海中深くに沈めます」

「駄目だ、危険すぎる! 君にもしもの事があれば、ミゲル殿に何と言えば良いのだ!!」

 クリスティンは、無言で腰の小剣を引き抜くと、自らの喉に押し当てる。

「クリスティン!!」

「僕は本気です。わかってください、義父上」

 小剣の押し当てられた部分から、血が滲み始めた。
 そのまま、二人はお互いの瞳を見つめ合う。
 やがて、フェルナンドは、片手で顔を覆うと、大きく息を吐き出した。

「……わかった。もう、止めはしない。ミゲル殿には、私からきちんと報告しておこう」

 クリスティンはゆっくりと小剣をおろすと、鞘へと戻した。そして、フェルナンドに深々と頭を下げる。

「感謝します」

「――それほどに、ニアが大事か」

「はい。誰よりも」

 確かに、クリスティンは、タイニィーアを愛している。
 だが、フェルナンドは気づいていた。その愛情は、「親愛」であり、まるで、妹へ向けるむけるそれと同一の物だと。

 まだクリスティン自身は気づいていない。それもそうだろう。この十年というもの、タイニィーアに向ける以外の思いを得る機会など、あるはずもなかったのだから。クリスティンは、まだ知らないのだ。家族の者以外と交わす「愛」を。

 それゆえに、フェルナンドは、クリスティンとタイニィーアを離れさせたくはなかった。
 ここに居れば、このままつつがなく、娘とクリスティンは結ばれる事になるのだから。

「ニアの為にも、必ず生きて戻れ……」

 様々な思いを込め、フェルナンドはそう言った。

「はい。では、失礼します」

 クリスティンは、再び一礼すると、フェルナンドの自室を後にした。
 そのまま、タイニィーアの部屋へと向かう。

 すでに時は真夜中で、医師も侍女も自室へと下がっていた。
 警護の騎士が、姫君の部屋へと通じる通路を、直立不動の姿勢で守っているだけだ。

 突然やって来たクリスティンに騎士は驚いたようだが、敬礼をすると道をあけ、クリスティンを通す。

 クリスティンは静かに扉を開けると、タイニィーアの眠る寝台の隣に椅子を運び、腰をおろした。

 タイニィーアは苦しそうに眉をよせ、不規則な寝息をたてている。汗をかいた額には、栗色の髪がはりついていた。クリスティンは、それをそっと払う。



汗をかいた額には、栗色の髪がはりついていた。クリスティンは、それをそっと払う。


 と、タイニィーアの大きな目が開いた。

「スティン?」

「ごめん、目が覚めてしまった?」

 クリスティンは、優しく微笑んだ。

「どうしたの、こんな時間に」

「ニアの顔が、見たくなった」

 起き上がったタイニィーアは、不安そうにクリスティンを見つめた。

「スティン、まさか……」

 タイニィーアは、思い浮かんだ恐ろしい言葉を打ち消すかのように、首をふる。
 だが、クリスティンの琥珀の瞳に、答えを見つけてしまった。

「いや、いやよ!」

「ニア」

「ここに居て、スティン! どこにも行かないで!! あなたがいなくなったら、わたし、また、ひとりぼっちになってしまう」

「義父上や、義母上、それにカテリナも……みんなが、君のそばにいるよ」

「でも、あなたは行くのでしょう? あなたの代わりなんて、他の誰にも出来はしないわ!」

 タイニィーアは、クリスティンに抱きついた。細い腕が、震えている。

「わたし、元気になれなくてもいい。あなたがそばに居てくれたら、それでいいの。おねがいよ、リルガミンには行かないで!」

 クリスティンは、泣き出したタイニィーアを抱きしめた。

「ニア、元気になれなくてもいいなんて、悲しい事を言わないで。僕は、それの為に、全てをかけるんだ」

「スティン……」

「信じてほしい。君の婚約者は、強いよ。魔物になんて負けはしない」

 クリスティンはそう言って、タイニィーアを安心させようと笑って見せた。

 だが、タイニィーアの瞳からあふれる涙は止まらない。まるで、つきることのない泉のように。

「あなたは、あなたは、知らないんだわ。わたしが、あなたをどんなに必要としているか。あなたをどんなに愛しているか」

 ――でも、あなたは……、決して同じようには愛してくれない。

 タイニィーアは、思わず零れ落ちそうになったその言葉を飲み込んだ。

 クリスティンは、小剣を抜くと、編んだ髪を根元からばさりと切り落とす。そして、それをタイニィーアに手渡した。

「この髪のある所が、僕が戻ってくる場所だよ」

 クリスティンは再びタイニィーアを抱きしめると、彼女の耳元に囁いた。

「必ず、魔よけを手に入れてくる。だから、待っていて」

 タイニィーアは、小さく、小さくため息をついた。もう、クリスティンを止める事は出来ない。

「生きて、帰って。待っているから、ずっと、待っているから……」

 タイニィーアは、クリスティンの唇に、そっと自らの唇を重ねた。

 その二日後、フェルナンド=ベライユールの一人娘、タイニィーア=ベライユールの婚約者は、シェリダンから忽然と姿を消した――。