第四幕 褒 美

「ニア、今日はリボンを編みこまないでよ。この間、皆にひどく笑われたんだから」

「残念だわ、せっかく可愛らしかったのに」

 タイニィーアはいたずらっぽくそう言うと、クリスティンの黄金の髪を編んでいく。

 手触りのよい髪に指を滑らせながら、タイニィーアは娘らしい口元を淡くほころばせた。

「だいぶ髪がのびたわね、スティン」

「のばせって言ったのは、君だろ、ニア」

「だって、こんな綺麗な黄金色の髪、短いままなんてもったいないもの!」

 幼い頃は短く整えられていたクリスティンの髪は、今は背の中ほどまで伸びていた。

 クリスティンは、編まれた髪を引っ張ってリボンが編みこまれていないのを確認すると、寝台の脇の椅子から立ち上がる。

「さあ、姫様どうぞ」

 クリスティンはなれた手つきで、タイニィーアの肩に上着をかけると、軽々と彼女を抱き上げた。

「寒くない?」

「えぇ、平気よ」

「もうカテリナに叱られるのはごめんだからね」

「十年も前の事、よく覚えているわねえ」

「そりゃあね」

 クリスティンは、クスクスと笑いながら、タイニィーアと初めて出会った日の事を思い出した。

 あの日、クリスティンはタイニィーアを部屋から連れ出し、自室のバルコニーで海を見ながらお喋りした。
 だがその行動は、少しばかり問題があった。身体の弱い姫様を、海風にあたらせるなんて! と、侍女のカテリナに散々に叱られてしまったのだ。カテリナの心配は見事に当たり、その夜タイニィーアは高熱を出してしまった。驚いて様子を見に行ったクリスティンは、看病に忙しいカテリナと鉢合わせし、再びおこごとを聞くはめになった。
 おまけに、この話は帰国直前の父ミゲルの耳にも入り、慌しい時間だったにも関わらず、己の尺度だけで物事をはからぬようにと、こんこんと諭されてしまった。
 いろんな意味で、忘れようにも忘れられない。

 それ以来、クリスティンは、タイニィーアの体調に、細心の注意を払ってきた。

「ごめんなさい、少し遅くなってしまったわね。お父様がお待ちだわ」

「急ぐよ」

 クリスティンはタイニィーアを抱いたまま、練習場へと急いだ。

 広い庭にしつらえられた練習場では、シェリダン領主、フェルナンド=ベライユールが義理の息子を待っていた。ミゲルより八歳ほど年下で、赤毛の髪と同色の口ひげをたくわえた伊達男だ。日に焼けた顔には、いつも笑みが小さく刻まれている。

 急ぎ足で現れたクリスティンに向かって、フェルナンドは大げさに肩をすくめて見せた。

「わがまま姫のお守りは大変だな、婿殿」

 クリスティンは、タイニィーアを籐の椅子に座らせると、振り向いた。

「遅れて申し訳ありません」

「なに、かまわんさ」

 フェルナンドは、手にしていた木剣の一本を、クリスティンに放り投げる。

「スティン、がんばって!」

 声援を送った娘に、フェルナンドは意味深な笑みを浮かべた。

「ニア、毎日練習を見てきたのに、あまり学習をしないようだな。お前の大切な婚約者が、一度でも私から一本を取った事があるか?」

「まあ、お父様、ご油断は禁物ですわよ。雛鳥もいつかは羽ばたくものですわ」



「まあ、お父様、ご油断は禁物ですわよ。雛鳥もいつかは羽ばたくものですわ」


 娘の方も負けてはいない。機嫌よくフェルナンドは笑い声をあげる。

「言いよるわ!」

「義父上」

 クリスティンは、木剣を構えながらフェルナンドに呼びかけた。

「なんだ、婿殿」

「今日、義父上から一本を取れたら――、褒美をください」

「褒美だと?」

 フェルナンドは、口ひげを整えながら、面白そうにたずねる。

「はい。ニアとの遠出の許可を下さい」

 フェルナンドは、ニヤリと笑った。

「いいだろう。ただし、一本取れたら、な」

 余裕しゃくしゃくといった様子で、フェルナンドは木剣を構える。

 ――相変わらず、隙の無い……。

 対峙しながら、クリスティンは舌を巻いた。

 義理の父となるフェルナンドが、剣の稽古をつけてくれるようになったのは、一月ほど前からだ。以来、クリスティンはこの時間を心待ちにしている。直に君主の剣にふれる事が出来るからだ。
 この十年、クリスティンは剣と心の修行を積んできた。ミゲルの望みどおり、タイニィーアは確実にクリスティンに影響を及ぼし、彼の世界を広げてくれた。以前より優しくなったと、昔を知るガリオンの者は言う。だが、まだ他者のために己を殺すという境地に達することが出来ていないのは、クリスティン自身が一番よくわかっていた。
 何かが足りない。その何かを、フェルナンドと剣を交える事で掴み取りたかった。

「来ないのか? では、私から行くぞ!」

 フェルナンドは動かないクリスティンに向かって軽く跳躍すると、一気に間合いを詰め、木剣を振り下ろした。
 クリスティンは、重い一撃をかろうじて木剣で受け止める。

 クリスティンの危うい防御に、フェルナンドは余裕の表情を深めた。

「その調子では、褒美はやれんぞ」

 クリスティンは、力を込めてフェルナンドの木剣を振り払うと、そのまま素早く切り込んだ。しかし、フェルナンドの懐に入ることは難しく、連続して放ったフェイントも、軽くあしらわれてしまった。

「相変わらず荒いな。シェリダンの男なら、華麗に、粋に、だ!」

 流れるような動きを見せるフェルナンドの木剣を、クリスティンは再び力任せに突き崩す。
 フェルナンドは、わずかに眉を寄せた。力に頼ってばかりとは、芸の無い事と思ったのだ。
 それなら、徹底的に分からせてやろうと、フェルナンドは立て続けに木剣を振り抜いた。波のように押し寄せるそれらと、クリスティンは、必死に切り結ぶ。

 活路を見出せないクリスティンに、フェルナンドはやれやれとため息をつくと、最後とばかりに強烈な突きを放った。空気を裂く音が、突きの鋭さを物語る。
 だが、クリスティンはこの突きを、力ずくで止めはしなかった。絶妙の角度で、受流したのだ。
 虚を突かれたフェルナンドは、体勢を崩した。

 ピタリ、とクリスティンの木剣が、フェルナンドの喉下に突きつけられる。

「僕の勝ち、ですね?」

 フェルナンドは、木剣の切っ先を見つめていたが、やがて豪快な笑い声を上げた。

「抜かったわ。狙っていたな、婿殿」

「負けてばかりは、悔しいですから」

「褒美は、遠出の許可だったな」

「はい、出来れば明日」

「なんと、明日!? せっかちな事だ」

「やはり、無理でしょうか……」

 フェルナンドは、しばし考えをめぐらせ、うなずく。

「――まあ良いだろう」

「ありがとうございます」

 クリスティンは、フェルナンドに頭を下げると、息を呑んで見守っていたタイニィーアに微笑んだ。