第三幕 姫 君

 シェリダンに吹く風は、ガリオンに吹く風とはどこか違う。
 手にした楓の枝の葉が散らないように注意しながら、クリスティンはそう思った。

 シェリダンに来て早や三日。
 複雑な婚約の儀式はすでに終了し、共に来ていたミゲルや騎士達は明後日にガリオンに帰国する事になっている。不安は大きいが、新しい生活に対する期待もある。クリスティンは子供らしい順応性で、シェリダンの暮らしに、わずかずつではあるが、なじみ始めていた。

 もう、食事に茹でた大海老が出されても驚く事はないだろう。
 ガリオンでは肉や、チーズなどが豊富に用いられるのに対し、シェリダンの食卓に並ぶのは、海老や蟹といった魚介類だ。山深いガリオンで育ったクリスティンは、それらの魚介類をよく知らなかった。初日の宴では、並んだ料理に驚いたものだ。食べ方がよくわからず、もじもじしていたら、侍女が丁寧に身を取り分けてくれた。
三日たった今では、何とか一人で海老を始末できる。

「こちらが姫様のお部屋です」

 侍女の声で、クリスティンは我に返った。思考がすっかり食事に飛んでいた。微かに頬を赤くして、クリスティンは手にしていた楓の枝を後ろ手に隠す。
 歳若い侍女は、それを好意的に勘違いしたらしい。優しい微笑をクリスティンに向ける。

「ご安心なさいませ、何も恥ずかしいことなどございませんわ」

 三日目の今日にして、やっと婚約者の姫と会う時間が設けられたのだ。
 
「さぁ、どうぞ」

 侍女に促され、クリスティンは部屋へと歩を進める。磨きこまれた窓から、まぶしい陽光がさしこみ、思わずクリスティンは、目を細めた。

 侍女が快活な声で、クリスティンを姫君に紹介する。

「姫様、こちらがご婚約者のクリスティン様でいらっしゃいますよ」

「……こんにちは」

 小さな小さな声がした。
 やっと陽光になれたクリスティンの琥珀の瞳に、一人の少女が映る。

 寝台の上に身体を起こしていた少女は、滑らかな栗色の髪に、白いリボンを編みこんだお下げを足らしていた。ほっそりとした華奢な身体が、淡い緑のネグリジェに包まれている。
 ネグリジェと同じ緑色の大きな瞳が、じっとクリスティンを見つめていた。その様子がなんだかエラを思い出させて、クリスティンの胸が痛んだ。

「こんにちは」

 クリスティンは、短く挨拶を返した。

「さぁ、ではわたくしは、お飲み物とお菓子の用意をしてまいりましょう。ごゆっくりお話しなさいませ」

 一礼して部屋を出て行く侍女を見送って、クリスティンは、ぐるりと部屋を見回した。

 決して華美ではないが、趣味の良い上品な家具がならんでいる。装飾品などは少なく、代わって本がたくさんあった。

 レースと刺繍にあふれたゴテゴテとした部屋を想像していただけに、クリスティンは意外な思いを禁じえなかった。

「わたし、タイニィーア」

 恥ずかしそうに、少女は自分の名を告げた。

「タイニィーア……ニア、だね。僕は、クリスティン」

「クリス?」

 タイニィーアが小首をかしげると、その仕草にあわせてお下げの先が揺れる。

「みんなは、僕の事をスティンって呼ぶよ。だから、ニアもそう呼ぶといい」

 タイニィーアは、口の中で小さく「スティン」と呟くとにっこりと笑った。そうすると、幼い顔立ちがもっとあどけなくなる。

「ねぇ、スティン。わたし、あなたの花嫁になるの?」

 まっすぐな質問に、クリスティンは少し困った。

「うん、たぶんね。大きくなったら、そうなるんだと思う。これから、僕はこの国で暮らすんだよ」

「わたし、花嫁になれるのかしら……」

「君の父上と、僕の父上が決めたから、絶対だと思う。でも、どうして?」

 タイニィーアは、ためらいがちに口ごもったが、やがて意を決したように顔をあげた。

「わたしのこと、何も聞いていない?」

 タイニィーアはそう言うと、かけられていた布団をそっとめくった。

 寝台の上には、タイニィーアの足が投げ出されている。しかし、それは驚くほど細かった。

「わたしね、うんと小さいころ、高いお熱を出したんですって。その時から、足が動かないの」

「動かないって……、それじゃあ歩くことも?」

 タイニィーアはこくりとうなずく。
 動くことが出来ない。活動的なクリスティンにとって、それは、考えられない事だった。どう返事をしていいのか、わからない。

「みんな、最初は優しくしてくれる。でも、そのうち退屈になって、去っていってしまうわ。わたしは、いつも取り残されるの。だから、きっとスティンも……」

 タイニィーアの言葉は、わずかばかり、クリスティンを怒らせた。

「僕は、そんな事しないよ!」

「ほんとう?」

 すがるような目をするタイニィーアに、クリスティンは大きくうなずいてみせる。

「約束するよ、ニアを一人ぼっちにはしない」

 クリスティンは、楓の枝を持参していた事を思い出した。婚約者の姫の為に、わざわざ魔術師に冷気の魔法で保存してもらい、ガリオンから運んで来たのだ。

「これを君にあげる。僕の国にたくさんある楓の樹の枝だよ。シェリダンにはあまり楓の樹はないって聞いていたから、持ってきたんだ」

 クリスティンは、赤く色づいた楓の枝を差し出すと、タイニィーアの手に握らせた。
 日の光に、楓の葉は美しく輝く。

「きれい。こんなに赤い葉っぱって、見た事ないわ。スティン、ありがとう」

 無邪気に喜ぶタイニィーアを見て、クリスティンはある事を思いついた。

「ねえニア、外の空気を吸いたくない?」

「でも……」

「大丈夫!」

 クリスティンは、サッとタイニィーアを寝台から抱き上げた。驚いた彼女はバランスを崩しそうになり、慌ててクリスティンにしがみつく。

「僕が、ニアの足になるよ。さ、行こう!」

「ど、どこに?」

「僕の部屋にね、大きなバルコニーがあるんだ。そこから、街と海が見えるよ」

 タイニィーアの大きな瞳が期待に輝く。

「見たいわ!」

「うん、行こう!」

 クリスティンは、タイニィーアを連れて、あてがわれた自室へと戻った。
 バルコニーに出て、街と海を見せると、タイニィーアは歓声を上げた。

「うわぁ……、ねぇ、ねぇスティン! 鳥が飛んでいるわ。それに、船も見える」



バルコニーに出て、街と海を見せると、タイニィーアは歓声を上げた。


 タイニィーアを抱いたまま、クリスティンも物珍しげに海に視線を投げかけた。

 その後二人は、いろんな事を話した。ガリオンの事、シェリダンの事、それぞれの家族の事、そして自分自身の事を。楽しい時間は、かんかんに怒った侍女に見つけられるまで続いた。

 クリスティンとタイニィーアは散々に叱られたが、お互い顔を見合わせて、くすくすと笑う。

 タイニィーアは、侍女に聞こえないよう、そっとクリスティンに囁いた。

「スティン、ありがとう。とても、楽しかったわ」

 侍女が、タイニィーアを抱き上げる。

「さぁ、姫様、お部屋に戻りましょう。またお熱が出てしまいますよ」

「えぇ。スティン、また明日ね」

「うん、また明日」

 クリスティンは、タイニィーアと侍女を見送った。
 満足感と悲しみ、そして微かな恐れが混じったような不思議な思いが、クリスティンの胸に広がる。
 それは、ガリオンでは感じた事のない思いだった。