第一幕 選 択

 にゃおぅ、と小さく一声鳴くと、ふわふわした毛並みの黒猫は息絶えた。
 クリスティンは、青ざめた顔で立ちつくしている。

「……エラ?」

 クリスティンと同じ黄金色の髪と琥珀の瞳の少年が、ひびわれた声で猫を呼んだ。
 しかし、猫が主人の声に応える事は二度とない。

 ――クリスティンと少年が、いつもどおり中庭で剣の稽古をしている最中に、少年の飼っていた猫は姿を現した。
 猫は、しばらく、二人の姿を物珍しげに見つめていたが、少年が劣勢に追い込まれたのを見て、クリスティンに飛びかかった。主人を守ろうと思ったのかもしれない。少年は息を飲み、クリスティンに静止を呼びかけようとしたが、勢いのついた木剣は止まらなかった。ふりおろされたクリスティンの木剣は、猫を鋭く打ち据えた……。


しかし、猫が主人の声に応える事は二度とない。


 長い沈黙の後、少年は、ゆっくりとクリスティンが手にしている木剣に目をやった。
 カタカタと小さく震えるそれには、赤いものがにじんでいる。
 琥珀の瞳に理解の色が広がると、上品な顔が憤怒にゆがんだ。

「スティン……、スティン!!」

「アシュレイ、僕は……」

 こんなつもりじゃなかったんだ。

 しかし、のどまで出かかったその言葉を、クリスティンは飲み込んだ。
 涙を浮かべ、自分をにらみつける兄の姿を見たからだ。

 アシュレイは、無言で爆発した。
 こぶしをにぎりしめると、クリスティンの頬をなぐりつける。
 クリスティンは吹き飛び、中庭の芝の上をころがった。

 常に温和な兄の激しい怒りに、クリスティンは呆然として起き上がると、口の端から流れ落ちた血をぬぐった。
 アシュレイは、猫の亡骸をかかえ、涙を流している。

 クリスティンとアシュレイに剣の稽古をつけていた二人の騎士が、それぞれの教え子に近づく。
 アシュレイの師である老たけた騎士は、静かにアシュレイの肩に手を乗せ、クリスティンの師である若い騎士は、クリスティンの服についた芝を払った。
 若い騎士は、アシュレイを見ると苦笑する。

「弟君をなぐられるとは、いかがなものでしょう、アシュレイ様」

 アシュレイは、キッと若い騎士を睨む。

「エラは、もっと痛かったんだ!」

「このような場所にのこのこやって来て、稽古中のクリスティン様に飛びつくなど……、アシュレイ様のしつけにも問題があったのではありませんか?」

「なっ……!」

 騎士の言葉に、アシュレイは目を見開いた。

「言葉が過ぎるぞ、モーガン!!」

 老騎士が、若い騎士を一喝する。
 
「失礼」

 モーガンは慇懃にそう言うと、細い眉を神経質そうに持ち上げた。

「ですが、君主となるべきお方のなさる事とは思えませんな」

「やめろ。それ以上腐れた言葉を並べると、アシュレイ様の名誉のため、私が剣を抜く事になる」

「では、私はクリスティン様の流した血にかけて……」

 二人の騎士は、同時に腰の剣に手をやった。
 クリスティンとアシュレイは、事の成り行きに言葉を失う。
 シュッという、短い音と共に二本の剣が抜刀され、瞬間のきらめきを残し交錯する。
 鋼と鋼のぶつかり合う、鋭い音が響き渡った。
 体の位置を入れ替えた騎士達は、それぞれ怒りとあざけりの表情を浮かべ、静かに腰を落とす。
 一拍の間をおき、雷光の早さで再び剣が振り抜かれた。

「剣を引け、エドワルド、モーガン!」

 重々しく響いた声が、激突寸前の二剣を止めた。
 エドワルドとモーガンは、素早く剣を鞘に戻すと、その場にひざまずいた。

 騒ぎの報告を受け、駆けつけたミゲルが厳しい顔で騎士達を見据る。

「私闘が禁止されている事は、知っているな」

「ハッ」

 短く応えるエドワルドに対し、モーガンは涼しげな顔で言葉を紡いだ。

「これは、私闘などではありません。我が小さき主のための戦いです」

「モーガン!」

 怒りを押し殺した声で、エドワルドがモーガンの名を呼ぶ。
 しかし、モーガンは臆した様子もなく、まっすぐとミゲルを見つめている。自らの発言の意味を重々承知している様子であった。

「この場は私が引き受けよう。そなた達は下がるがよい」

 ミゲルは短く命じ、二人を退出させる。
 去り際、エドワルドは悲しげに呟いた。

「若く荒々しき風はガリオンを激しく吹きぬけ、優しき樹や古木達をなぎ倒すでしょう」

 振り返ったミゲルとエドワルドの視線が、一瞬交わる。
 エドワルドは目礼すると、その場から立ち去った。

「ち、父上、エラが……」

 ミゲルはアシュレイに近づくと、静かに猫の頭をなでた。

「良い猫だった。お前にたくさんの思い出を残してくれた」

 ミゲルは、猫の頭に手をのせたまま、静かに魔法の呪文を唱え始める。
 響き渡る詠唱はマディ。神に仕える僧侶および司教、そして君主が扱える最大級の癒しの魔法だ。
 詠唱さえ完成すれば、切断された腕さえも瞬きほどの間に接合する魔法だが、体から離れた魂を呼び戻す事は出来ない。
 息絶えた猫が蘇る事はなかったが、不自然に歪んでいた体は元通りになり、わずかながらも凄惨さが拭われた。

「復活の魔法の衝撃は、この小さな体を壊してしまうだろう。これが、私に出来る精一杯だ」

 アシュレイは、父の言葉にうなずくと、さよならと愛猫に呟いた。

「さあ、エラの眠る場所を作りに行こう」

 ミゲルはアシュレイの肩をそっと叩くと、立ち尽くすクリスティンに目をやった。

「スティン、お前は母上の所に行って、傷を治してもらうと良い」

「は、はい、父上」

「そして、夕食の後、私の部屋まで来るのだ」

「は、はい」

 ミゲルはきびすを返し、アシュレイと共に歩き出した。
 歩きながら、ミゲルは心に決めていた。
 今だ、と。
 クリスティンに君主の心と剣を教えるのは今しかない、と。
 今なら骨の髄まで染みるはずだ。
 そのために、ミゲルは一つの選択を下していた。