鉄製の鍋がふつふつと小気味良い音を立てていた。
 味付けをしたトマトソースの中で、焦げ目をつけた白身魚と、団子状にした小麦粉、それに数種類の豆が煮込まれている。安い素材で腹をふくらませる工夫をこらしたドゥーハン南方の家庭料理だ。

 ざっくばらんに大勢でつついて食べる事が多い。
 ここ月夜亭でも、三、四人からのメニューとして提供されていた。

「充分煮えてるみたいだから、もう食べてもいいぜ」

 鍋の向こうでリカルドが言った。

「うん」

 カレブは嬉しそうに頷くと、フォークを手にして鍋の中から魚や団子を取り出した。

「ミシェルさん、椀をかして」

 カレブは、ちょこんと座っているミシェルにも、鍋の中身をとりわけてやる。

「ありがとう」

 椀をうけとったミシェルは、不思議そうにフォークの先で丸い団子をつっついた。

「ああ、それはミシェルさんも好きだと思うけどな」

 エールを飲みながら、少し意味深にリカルドが言う。

「何かしら」

 いたずらっぽく笑うと、ミシェルはフォークで団子を半分にわった。
 われめから、きざまれた香草が顔をだす。

 団子の白と、少しあせた香草の緑、それにトマトソースの赤がなかなかの彩りだ。

「いい香りね」

 熱い団子をふうふうとさまして、ミシェルはそれを口にほうりこんだ。

「初めてだけれど、美味しい」

「わたしも、こういう料理は初めて」

 カレブはそう言うと、魚にフォークを入れた。
 焦げ目がつくまで焼かれたそれは、サクリと音をたててわれた。
 ぽろりとこぼれる身はやわらかそうだ。
 口に入れると、香辛料のきいたトマトソースの味と、魚の甘味が広がる。

 二日酔いさわぎで、朝からまともな食事をとっていなかったカレブは、夢中でフォークを動かした。

「この魚の皮の部分が美味しいね」

 皮と身の間の脂を楽しみながら、カレブは言った。
 ねっとりした口当たりが苦手な者もいるだろうが、彼女は気に入ったらしい。

「俺は、豆が好きだな」

 リカルドが器用にフォークで豆をつきさす。
 それをみて、カレブはフフンと口元をゆがめた。

「飛ばすなよ」

「やるか。子供じゃあるまいし」

 簡単ではあるが美味な料理は、わずかの間ながらカレブの心からもやもやとしたものを追い払ってくれた。

「・・・遅いな」

 リカルドが呟いて振り向いた瞬間、酒場の扉が開く。
 カレブが料理から顔をあげると、湯気の向こうに乳白色の長衣が見えた。

 蜂蜜色の髪の娘が、きょろきょろと酒場を見回している。
 白百合の美姫グレース=ザリエルだ。

 思わず緊張したカレブの背中を、ミシェルがぽんと叩いた。

 グレースはリカルドを見つけると、ホッと安心したような表情を浮かべ、足早にこちらへとやってきた。

「こんばんは、みなさん」

 グレースは長衣の裾をつまむと、優雅に腰をおる。

「お招きいただいて、ありがとうございます」

「そんなたいしたもんじゃないから、まあ座ってくれよ」

 明日から一緒に行動するのだからと、リカルドが夕食の席をもうけたのだ。

 機嫌の悪そうなカレブにヒヤヒヤしながら、リカルドはグレースに椅子をすすめた。
 グレースは頷くと、リカルドの隣に腰をおろす。

 カレブは、バクバクと料理をほおばっていた。
 どうやら、自分から口をきくつもりはないらしい。

「えーと、この銀髪がカレブ。あっちのエルフがミシェルさん」

 しかたなく、リカルドが二人を紹介する。

 カレブは小さく頷き、ミシェルはにっこりと微笑む。

「カレブ様と、ミシェル様ですね」

 カレブは、あやうく魚と豆を一度にふきだすところだった。

「や、やめてくれ。カレブでいいッ」

「そうね、わたしもミシェルとよんでほしいわ」

 ミシェルの顔から笑みは消えないが、そこにわずかばかりの困惑の色が滲んでいる事にリカルドは気がついた。どうやらこの二人も、姫君を前にしてはやりにくいらしい。

「わかりました」

 グレースはそんな二人に気づいた様子もなく、おっとりと頷く。
 リカルドは、笑い出したくなるのを必死でこらえた。
 ここで笑えばどうなるか、火を見るよりも明らかだ。

「・・・食べれば?」

 ぼそりとカレブが呟く。
 そっけない言い方だが、彼女にすればこれでも最大限に気をつかったのだ。

「はい」

 グレースは頷くと、物珍しそうに鍋を見つめ、フォークを手に取った。
 リカルドに食べ方を教わりながら、食事を始める。

 グレースの手にかかれば、朴訥な庶民の料理も、晩餐に並ぶ料理に変わってしまうらしい。
 洗練されたカトラリーの動きが、そう思わせるのだろう。

 グレースの手の動きを何気なく追いながら、カレブはなつかしい気持ちに駆られていた。
 何故かはわからない。以前、そう遠くない昔に、こんなふうに食事をする誰かを見ていたような・・・、そんな思いが心に押し寄せたのだ。

「お茶をどうぞ」

 グレースに茶をすすめるミシェルの声が、ますますその思いを深める。


 あの人は、ジャスミンティーが好きだった。わたしは、上手に淹れられなくて、しかたなく彼女にコツを教わって・・・


「まあ、美味しい。温かい食事をとるのは、久しぶり」

「久しぶりって・・・、お姫様、じゃない、グレース、あんた何食べていたんだ」

「良く覚えていない・・・。あの人を捜すのに、必死だったから」

 グレースとリカルドの会話がひどく遠くに聞こえる。
 カレブは、フォークを放り出すと額を押さえた。
 今、触れようとしているのは、過去の記憶なのではないか?

 カレブは、今にも消えていきそうになるそれに手を伸ばす。

 ゆらめく蝋燭の炎。いつも絶える事のない野の花。
 衣擦れの音。控えめな笑い声。ほのかな、ジャスミンの香り・・・

「なあ、グレース。あんたが捜している人って、まさか」

「・・・それは」

 グレースが口を開きかけ、カレブの手が儚い記憶に触れようとしたその時、バンッ! と激しく扉が開いた。

 カレブはハッと我に返り、リカルドとグレースも入り口へと目をやる。

 そこには、血まみれの戦士が一人、息も絶えだえに立っていた。
 迷宮から、まっすぐここへとやってきたのだろうか。
 鎧の損傷は激しく、肩口を掴んでいるのは、ゾンビの手首だ。青黒い爪が肉をきりさき、血を滴らせている。そして、恐ろしいことに、それはいまだビクビクと震えていた。

 緊迫した空気に、酒場のざわめきがピタリとやむ。

「死、神・・・」

 ぜいぜいと血と共に吐き出された言葉が、その場に居た全員の心臓を凍りつかせた。
 手近にいた僧服の男が戦士に駆け寄る。手には、フィールの魔法の輝きがあった。

 だが、戦士は僧侶の治療を拒む。

「聞いて、くれ」

 決して大きくはない戦士の言葉が酒場に響いた。

「迷宮は、死の国と、化した」

 給仕娘達が互いに抱き合い、悲鳴を押し殺す。

「気をつけろ、黒い影が、魂を刈り取りにくる・・・。空気をわって、壁をぬけ、どこまでも追ってくる・・・。あそこは、地獄だ・・・っ!」

 闇色の霧が、戦士の身体を包んだ。
 血が、霧に吸い取られる。

「あれはっ!」

 リカルドが叫んだ。
 それと同時に、戦士の身体は、跡形も残さず消滅する。

「同じだ・・・、グレッグとサラが死んだ時と」

 そう呟いたカレブは、ハッとした。

 戦士の肩を掴んでいたゾンビの手首だけが、消えずに残っていたのだ。
 手首は、意思があるかのごとく、呆然と立ち尽くしていた僧侶に襲い掛かった。

「おどきなさいっ!」

 ミシェルが叫んで、壁に立てかけていた杖を投げた。

 石突が鋭くゾンビの手首を打ち、床に叩き落す。

 そのすきに、カレブは手首に走り寄っていた。
 腰間の短剣を引き抜き、振り下ろす。

 床に縫い付けられた手首は、ビチビチと暴れた。
 あきれる生命力だ。

 カレブに遅れ、リカルドとグレースもやってきた。

「貸せ、カレブ!」

 リカルドは短剣の柄を握ると、一息に手首を斬り裂いた。
 しかし、まだ手首は活動を停止しない。

「そうか、この剣には魔法がかかっていないから・・・」

 リカルドは舌打ちした。
 不死者の身体は、特別な武器か、魔法のかけられた武器でしか傷つけられないのだ。

 グレースが右手を差し伸べる。
 あふれ出る、浄化の光。

「滅びよ、穢れた生命よ」

 凛とした一喝と共に、ゾンビの手首は塵と化した。
 グレースの放ったディスペルが成功したのだ。

 訪れる、静寂。

「出よう、騒ぎになる前に」

 リカルドは、カウンターに向かって夕食代を放り投げると、カレブとグレースの腕をつかんで、月夜亭を飛び出した。杖を拾ったミシェルも、無言で続く。

 四人はしばらく歩き、宿のほど近くで立ち止まった。

「とんだ置き土産だぜ」

 はあ、とリカルドがため息をついた。

 カレブは、迷宮で戦った死神の事を思い出していた。
 自分と同じ顔をした死神が、消える直前に放った無数の黒い影。
 あれが、人の魂を刈るのだとしたら・・・?

「増える不死者、そして、死神、か」

 知らず、うめき声がカレブの口からもれた。

「確かに、地獄かもしれない」

「ですが」

 クスリとグレースが笑った。

「今わたし達がいるここもまた地獄。ならば、進むだけでしょう?」

 カレブは、まじまじとグレースを見た。
 よもや、この姫君の口からそんな言葉が出ようとは。

「悲鳴を上げるかと思った」

 そう言ったカレブを、グレースはそっと見つめる。

「わたしは、もう何も怖くない。たったひとつ、あの人を失う事以外は」

 新緑の瞳はただひたすらにまっすぐで、そして限りなく強かった。
 カレブが一瞬、気おされてしまうほどに。

「幸福だね、まだ、失える何かがあって」

 やっとそう言ったカレブの頭を、リカルドがかかえこむ。

「何言ってんだ! お前には俺達がいるだろう?」

 あまりに当たり前だといった調子で言われ、カレブは反論できなかった。

「う、うん」

 頷いたカレブに、嬉しそうにリカルドが笑う。

「失えない何かがあるから、人は強く生きられるんだ。少なくとも、俺はそうだ」

「それを、弱みという人もいるわ」

 ミシェルの一言は、時々ナイフのように鋭い。
 キツイなあ、とリカルドは笑った。

「そうとも言うかもな。でも、俺は、何も持たない強さより、何かを持った弱さを選びたい」

 リカルドの腕の中で、カレブが身を強張らせた。

「・・・カレブ?」

 リカルドは、カレブを見下ろした。

「なんでもない」

 カレブはそう呟くと、リカルドの腕から脱出する。

 カレブは、首をかしげながら胸を押さえた。
 一瞬、心臓がキリリと痛んだのだ。

「少し、胸が痛くて」

「急に寒い所に出たせいかもな」

「うん、そうかも」

 頷きながら、カレブはリカルドが言った言葉を、そっと口の中で転がした。

「何も、持たない強さより・・・、何かを持った弱さ・・・」

 ひどく心がざわめく。
 さざなみのように押し寄せる、理由のわからない悔恨。

 ミシェルがふわりとカレブの肩を抱いた。
 見上げれば、優しい微笑があった。

「わたしにも、出来るかな」

 カレブはミシェルの手に、そっと己の手を重ねる。

「始めてみればいいわ」

「うん」

 カレブは、ミシェルからグレース、そしてリカルドへと視線を移した。
 明日から、迷宮を共にする仲間達。

 まずは、彼らを失わないようにする事から始めよう。
 カレブは、そう心に誓った。