【ジョゼルマリーへようこそ3】 |
「……あぁ、そうか」 茨木亮太は、この春中学に入学した頃から胸に抱いていた違和感の正体に、ようやっと気づいた。 読んでいた分厚い本を閉じ、ひとり頷く。 「どうした?」 図書室という場所柄か、声をひそめて向かいの席に座る少年が問うた。 「いえ」 同じく声をひそめながら、亮太は一学年上の少年に答える。 「ずっと気にかかっていた事がなにか、やっとわかって――」 亮太は答えを得るカギとなったものに、チラリと視線をやった。 しかし、そこに特別変わったものは何もなかった。二人に背を向ける形で腰掛けた女生徒が、読書に没頭しているだけだ。 「……ああいうのが、茨木の好みか」 少し意地悪い響きを秘めた少年の言葉に、亮太は口を尖らせる。 「そんなんじゃありません」 予想通りの答えだったのだろう。少年は、唇の端を持ち上げて微笑した。目が、言葉の続きを促している。 「リボンですよ」 「リボン?」 少年はもう一度、背後の女生徒を振り返った。 なるほど、首の後ろでひとつにまとめた髪に、黒いリボンが結んである。 彼女はページをめくる時に首を傾けるのがクセらしく、ページをめくる音がするたびに、リボンの先がチラチラと揺れた。 「どうして気づかなかったんだろう」 見つかった答えが嬉しくて、少しばかり亮太の声が大きくなる。 「出よう」 苦笑いの少年に促され、亮太は席を立った。 「すみません、つきあわせてしまって」 「構わないさ」 恐縮する亮太の肩を、ぽんと少年が叩いた。 それで幾分気が楽になって、亮太はゆっくりと口を開いた。 「この学校は、髪の長い女子がリボンをつけてもいいんですよね」 「ああ。色は黒、白、紺、青に限定されてるけれどね。この辺りの学校の校則では珍しいんじゃないかな」 男子にとってはしごくどうでもいい校則だったが、女子には好評で、髪の長い少女達の多くがリボンを結んでいる。 もっともリボンを結ばない者もいて、亮太のクラスメイトである藤枝舞花もその一人だ。 ただ、亮太の知る舞花は、美しいもの、愛らしいものを好む性質の少女で、どちらかというとリボンを愛用しそうなタイプに分類される。 舞花の髪にリボンがないこと、それが違和感となって胸に住み着いていたことに、亮太は今日ようやっと気づいたのだった。 「茨木がのんびりしてるのは知ってたけど……」 説明をきいた少年が、笑って校庭を見る。 入学式のときに咲き誇っていた桜の花の姿は既になく、変わって藤の花が風に舞っていた。 まるで、噂の少女の名前のように。 並んで藤の花を見る二人を追い立てるように、予鈴が鳴る。昼休み終了五分前だ。 「じゃあな、茨木」 「はい、若槻先輩」 どこかぼんやりとしたままの亮太の額を、少年がつついた。 「そんなに気になるら、リボン、あげれば?」 「え?」 思いもかけなかった言葉に、亮太は目を丸くした。 少年は手を振ると、図書室から出てきた妹と共に二年の教室へと去っていく。 「俺が、舞花ちゃんに、リボンを……?」 二人の姿を見送りながら呟いた亮太の声は、藤の舞う風にさらわれて行った。 若槻少年の残した言葉は、午後いっぱい亮太を悩ませた。 おかげで数学の教科書で英語の授業をうけたり、音楽の授業で音程を外して歌ってしまったりと散々だ。いつになく教師に「茨木!」と連呼させてしまった。 「亮太くん、大丈夫?」 さすがにしょげてトボトボと教室へ戻っていると、亮太を悩ませている張本人――舞花が声をかけてきた。 ふいに大きな瞳に顔をのぞきこまれて、鼓動が踊る。 「へ、平気。ちょっと、考え事してて」 「当ててみせましょうか」 並んで歩きながら、茶目っ気たっぷりに舞花は片目をつむった。 「読みかけの本の続きが気になってた!」 「……ハズレ」 「あら、違うの? えーと、それじゃ、次はどんな本を借りようか考えてた!」 「それもハズレ」 「えー?」 舞花は唇をとがらせると小首をかしげた。 ――どうしてだろう。きっと似合うのに。 そんな事を考えながら、おしゃまなクラスメイトの次の答えを待つ。 「じゃあ……、実は授業中だけど本を読んでた!」 「舞花ちゃん、君、俺が本の事しか頭にないとか思ってるだろう」 「違うの?」 ふわりとスカートの裾を翻して、舞花は亮太の前に回りこんだ。 舞花の瞳は透明な光に満ちていて、心の奥を見透かすかのようだ。 「だって、亮太くん本が大好きでしょう? 本の事になると雄弁ですもの」 「否定は、しないけど」 あっさりと断定されて、亮太は苦笑する。 他の女子は、亮太が本にかじりついていると暗いだの、気持ち悪いだの心無いことを言ったりするのだが、舞花はけっしてそういった類の事を口にしなかった。 それどころか。 「わたし、亮太くんから本のお話聞くの好きよ。この間見せてもらった妖精辞典、とても素敵だったわ」 こんな嬉しいことを、サラリと言ってくれるのだ。 だからだろう。 つい、舞花の姿を探してしまうのは。 「そんなに気に入ったのなら、今度貸すよ」 「本当? 嬉しい。ありがとう!」 きゃ、と可愛らしく喜んで、舞花は口に手を当てた。 「そうだ、本の事じゃなかったら、亮太くん何を考えてたの?」 「……贈り物を」 「贈り物?」 ぴくりと舞花が反応した。 「うん。贈り物を買わなくちゃいけなくて。どんなのがいいか、どこで買おうか、悩んでたんだ」 亮太の告白を聞いた途端、舞花の目がキラキラと輝きだす。 「いい事を教えてあげる!」 舞花は辺りを見回して人影がない事を確認すると、耳を貸せと亮太を手招きした。 照れくさくてためらっていると、舞花が背伸びをして、亮太の耳元に口を近づけた。 「ジョゼルマリーのお店に行くといいわ」 「ジョゼルマリー?」 大切に囁かれた言葉は、まるで魔法の呪文のような響きを秘めて、亮太を翻弄した。 ゆっくりと自転車をこぐ亮太を、柔らかな風が追い越していく。亮太は髪をなびかせながら、ジョゼルマリーの店を探してあてどもなく街をさまよっていた。 舞花が教えてくれた不思議な贈り物の店。 まるで夢物語だ。 けれども亮太はそれを、舞花独特の言い回しだと理解した。 洒落た物言いをする舞花のことだ。 普段通らない道を自転車で走るのは楽しかった。本を読んでいるだけでは出会えない風景にめぐり合える。 それはまるで、舞花がくれた贈り物のように亮太には思えた。 次々と現れる通りが、公園が、街路樹が、亮太の目を楽しませ、時が過ぎるのを忘れさせた。 しかし、空を振り仰げば、金色だった太陽が徐々に茜にそまり、夕刻が近づきつつある。 もう一筋路地を走って、それから帰ろうと亮太は思った。 今日見つからなくても明日がある。こんな風に街をさまようのも悪くはない。 そんなのんきなことを考えながらも、いや、ダメだと亮太は首を振った。 「強く望まないと、行けないんだよね」 『そのとおり』 「え?」 思わぬ合いの手に、亮太は自転車を止めた。 視線を感じて辺りを見渡せば、ちりめんのリボンを首に結んだ白猫が、塀の上でくつろいでいる。 「――まさか、ね」 亮太は苦笑して、自転車のペダルに足をかけたが、その美しい猫から目を離す事ができなかった。 猫はまるで亮太を誘うように、長い尾を揺らして塀の上を歩き出した。 「あ」 思わず亮太は猫を追った。 猫は決して走っているわけではないのに、自転車の亮太が追いつけない。 「ねえ、ちょっとお前、待ってよ!」 猫はかまわずどんどん進み、亮太も懸命に細い路地に自転車を走らせた。 やがて、路地の両脇に並んだプランターが亮太を迎える。 プランターには、季節を無視した花が一杯に咲いていた。 塀の上から猫が飛び降り、路地の先にある小さな赤レンガの建物を見上げる。 「ジョゼル、マリー……」 「さようです」 猫が。 ここまで亮太を誘った猫が凛とした声でそう言った。 舞花ほどの柔軟性を持ち合わせない亮太は、まじまじと猫を見つめる。 猫はゆらりと二本足で立ち上がった。ゆっくりと身体が縦に伸び、妙齢の女性へと変化する。 癖のない金の髪が顎のラインで揺れ、切れ長の青い瞳と、珊瑚色の唇が微笑みを浮かべた。 「ジョゼルマリーへようこそ。密やかに求めしお客様」 女性が芝居がかった仕草で一礼すると、エンジ色のエプロンドレスが、さらさらと衣擦れの音を立てた。 「わたくしは店主のジョゼルマリー。おいでいただき嬉しゅうございますわ」 ジョゼルマリーはにこやかに名乗ったが、 亮太は立ち尽くしたまま言葉もない。 「いかがなされました?」 問いかけられ、亮太はやっと声を絞り出した。 「さ、さすが舞花ちゃんが教えてくれたお店だ」 まだ動揺はおさまらないが、なんとか状況を受け入れようと亮太は己に言い聞かせた。 「ただの雑貨店のわけがなかったよね」 「もちろんでございます」 ジョゼルマリーは、亮太の手をとると店の中へと招き入れる。 硝子の自動扉が開くと、まず目に飛び込んできたのは鮮やかな色彩だった。 色とりどりのリボンが、いたるところに掛けられ、風にそよいでいる。 もし亮太が年頃の少女であれば、歓声をあげていたかもしれない。 ジョゼルマリーは、小気味良く靴音を響かせて店の中央へと進み出ると、ゆっくりと両の手を左右に広げた。 「ジョゼルマリーの店では、本日このようにとりどりのリボンをご用意しております。お客様のお求めになる品がきっとございましょう。ごゆるりとお選びくださいませ」 「どうして、わかったの? 俺が、リボンを探してるって」 「わかりますとも。ここは贈り物を選ぶ店でございますゆえに」 自信たっぷりにそう言われれば、もはや亮太は頷くしかない。 亮太はジョゼルマリーの笑顔に促され、リボンを選びにかかった。 舞花が学校で使うことが大前提なので、候補にあがるのは白、黒、紺、青のリボンだ。 手近な青いリボンを手に取ってみる。 つややかなそのリボンはいたってシンプルなデザインで、幅も細く、学校用にするには向いているようだったが、亮太はいまひとつ気に入らなかった。 亮太は青いリボンを元に戻し、頭をめぐらせた。 次に目にとまったのは、白と黒の千鳥格子の大きなリボンだった。 「……これは、難しいかもしれない」 亮太は、たくさんのリボンの前で途方にくれた。 舞花の髪にリボンがあればいいと思う。 頭の中ではリボンをつけた舞花が微笑んでいるというのに、こうして実際にリボンを選ぼうとすると、想像のリボンはたよりなく消えうせ、形になってはくれないのだ。 「どのような物をおさがしなのか、よろしければお聞かせください」 ジョゼルマリーが助け舟を出す。 「ええと」 亮太は言葉を選びながら、照れくさそうに呟いた。 「友達に、学校でつけるリボンを贈りたくて。色は白か、黒か、紺か、青」 ジョゼルマリーはうなずくと、エプロンのポケットからメモ帳をとりだし、亮太の発言を万年筆でさらさらと書きとめた。 「彼女の髪は長くてふわふわしているから、あまり細いリボンだと、髪に負けてしまうかもしれない」 「では、三センチほどの幅のものがいいでしょうね」 ジョゼルマリーが魔法のような手つきで、参考にと取り出したリボンは、思い描いていた形に近く、亮太は笑顔でうなずいた。 「できれば、やわらかな素材がいいな。彼女はね、とても優しく笑うんだ。その笑顔に似合う、ふんわりしたリボンがいい」 不思議なもので、話していると少しずつリボンの形がはっきりとしてくる。 「リボンだけ可愛くてもダメなんだ。それをつけた彼女が、彼女として完成される。そんなリボンがいい」 ジョゼルマリーは万年筆を走らせ、亮太の思いをすべてメモした。 ざっとメモに目をとおし、ジョゼルマリーはうなずく。 「よくわかりました。では、お客様のおっしゃるリボンを取りに参りましょう」 「リボンを、取りに?」 「ええ」 答えてジョゼルマリーは、部屋の片隅におかれた棚から、一枚の千代紙を取り出した。 千代紙は、ジョゼルマリーの手によってあっという間に折鶴へと姿を変える。 ジョゼルマリーは亮太を招き、棚の隣にあった古びた扉を押し開いた。 「う、わ!?」 扉の向こうに広がった光景に、亮太は息を飲んだ。 どこまでも、どこまでも、果てなく続く黒銀。 きらめき、またたき、流れる、白銀。 霞み、たなびき、優雅な曲線を描く紫銀。 はるか高みに存在するはずの宇宙が、扉の向こうでそっと息づいていた。 ジョゼルマリーが、手のひらにのせた折鶴にフゥと息を吹きかけると、折鶴は見る間に大きくなる。 ジョゼルマリーは亮太の手をとると、ひらりと折鶴に飛び乗った。 トンと足で床を蹴ると、亮太とジョゼルマリーを乗せた折鶴は、勢い良く宇宙に滑り出した。 思わず亮太は目を閉じたが、頬をくすぐる風に、目を開いた。 星が矢となって、ぐんぐん背後に流れていく。 「すごい……! ジョゼルマリーすごいよ!」 亮太は歓声をあげて、背後のジョゼルマリーを振り返った。 「宇宙服もなしに宇宙を飛べるだなんて、アームストロング船長もびっくりだ!」 「美しいでしょう? 素晴らしいリボンになると思いませんか?」 「宇宙をリボンに?」 「そうです!」 ジョゼルマリーは、おとめ座に手を振ると、折鶴を大きく旋回させた。 星の河を渡り、星雲をくぐり、やがて宇宙の果て、星屑がたゆたう泉へとたどり着く。 「さあ、この泉に手を差し伸べてくださいませ」 亮太は折鶴から身を乗り出すと、さまざまに色を変える泉に手を伸ばした。 指先がふれると、丸い波紋がオルゴールのような高い音をたてて広がった。 星屑の泉は、冷たく亮太の手を洗う。 星の雫を落としながら姿を現したのは、この宇宙を凝縮したような紺瑠璃のリボンだった。 時折、星がまたたくように美しく光り、へりは星の河のように滑らかに波打っていた。 「舞花ちゃんのリボンだ……」 亮太が呟くと、白光が弾けた。 宇宙は消えうせてしまったが、紺瑠璃のリボンは、しっかりと亮太の手の中にあった。 「ありがとう、ジョゼルマリー! やっとみつかったよ!」 ジョゼルマリーは満足そうに微笑んだ。 「お客様の想いがそのリボンをもたらしたのです」 「そうだ、御代……」 「御代はこれで充分」 財布を取り出そうとした亮太を押しとどめ、ジョゼルマリーは細い指を伸ばした。亮太の耳の上に引っかかった、小さな星屑を拾い上げる。 「きっと舞花様もお気に召しますよ、亮太様」 何故、ジョゼルマリーが自分の名前を知っているのか。 翌日、まだ人のまばらな朝の教室で、亮太は舞花に一冊の本を手渡した。 「わあ、妖精辞典! 持って来てくれたのね」 「うん」 「ありがとう、亮太くん。大切に読むわ」 亮太は、舞花がうきうきと自分の席に戻り、ページをめくる様子を、そっと見つめた。 舞花のページをめくる手が止まる。 本の間から、紺瑠璃のリボンがつまみあげられた。 もとより大きな目を、さらに大きく見開いて振り返る舞花に、亮太はくすくすと笑った。 舞花は急いで亮太の所にとって返すと、頬を紅潮させて口を開いた。 「亮太くん、これ、もしかして、ジョゼルマリーの店で……?」 「わかる?」 「わかるわ! だって、わたしはあのお店を知ってるもの!」 待ってね、と呟くと、舞花は器用に髪にリボンを結んだ。 亮太の想像したとおり、紺瑠璃のリボンは舞花に良く似合った。 「嬉しい。とても素敵。わたしね、ずっとずっとこの制服にあうリボンを探していたのよ。でも、みつからなかったの。でも、やっとわかったわ。このリボンは、ジョゼルマリーの店で、亮太くんがみつけてくれるのを、待っていたのね」 「やっぱり舞花ちゃんはロマンチックだ」 「ありがとう、亮太くん。本当にありがとう!」 舞花は嬉しそうに、くるりとその場で回転した。 幸せそうな舞花の微笑みを、亮太は心から誇らしく思った。 舞花のふわふわした髪の上で、紺瑠璃の宇宙が美しくたなびいていた。 おわり |