【本当の名前】 |
紺色のランドセルをカタカタ鳴らして、舞花は裏路地を走っていた。目指すは、不思議で素敵なジョゼルマリーの店だ。 ふわりと髪をなびかせる舞花を、路地の両脇に並んだプランターが見送る。 季節を無視した花が一杯に咲くそれは、もうすぐジョゼルマリーの店ですよ、という印だった。 甘い花の香りの向こうに、小さな赤レンガの建物がひっそりと建っている。 舞花は最後の数メートルを元気に駆け抜けると、勢いよく入り口へ飛び込んだ。 ――そして。 「え、ええっ?」 目に入った光景に、思わず立ちつくす。 舞花を迎えたのは、広々とした美しい和室だった。桜の模様のすかしが入った障子が、淡い光を通している。 ついこの間来た時には、ここは風変わりなチョコレートの店だったというのに、その面影はどこにも見当たらない。 場所を間違えたのかしらと舞花は大きな目をしばたかせたが、部屋の奥からエンジ色のエプロンドレスを揺らして、ジョゼルマリーが現れた。 金の髪の女店主は、今日もりりしく美しい。 ジョゼルマリーはエプロンドレスの裾を持ち上げると、腰をかがめた。 「いらっしゃいませ」 「ジョゼルマリー!」 ほっと安心した舞花は、ジョゼルマリーに抱きつくと、やわらかな頬をジョゼルマリーの胸に押し当てた。 「ありがとう、ジョゼルマリー! わたし、お礼を言いに来たのよ。あなたのおかげで、亮太君にとても喜んでもらえたわ」 「それはようございました」 舞花を抱きとめて、ジョゼルマリーは微笑む。 「ですが、今日はそのためにわざわざいらしてくださったのですか?」 「ええ。あなたのおかげで、亮太くんにぴったりのチョコレートを贈れたんですもの。一番にあなたにお礼が言いたかったの。二番目は、このお店を教えてくれたおじいちゃんよ!」 ジョゼルマリーの笑みが深くなった。切れ長の目じりが下がって優しい表情になる。 「ありがとうございます。とても嬉しいですわ。さ、おあがりくださいな。お茶をさしあげましょう」 わあ、と舞花は素直な歓声を上げた。 ジョゼルマリーは舞花を部屋に招き入れると、座卓の前に案内する。 「なんて綺麗なお部屋なのかしら」 舞花は、夢見がちな瞳をくるくると動かして、好奇心いっぱいに部屋中を見回した。敷物は彩り美しく、すえつけられた家具は品の良いたたずまいを見せている。 螺鈿(らでん)のほどこされた塗りの座卓にそっと指を走らせていると、ジョゼルマリーが香り高い紅茶と、金平糖の皿を運んで来た。 「どうぞ、おあがりなさいませ」 「ありがとう、ジョゼルマリー」 行儀よくいただきますと言って、紅茶をひとくち飲んでから、舞花は尋ねた。 「この素敵なお部屋は何屋さんなのかしら。家具屋さん? それともお茶屋さん?」 「ここは何屋でもありません。舞花様は、今日は贈り物を切望するお客様ではございませんから」 「だったら、ここはジョゼルマリーのお部屋なの?」 すると、どことなく物悲しそうな影が、ジョゼルマリーの白い顔に落ちかかった。 「この部屋は、綺麗で、美しい……、牢獄ですわ」 穏やかではないその言葉に、舞花は押し黙る。 「――ですが、確かに昔、わたくしはこの部屋で暮らしておりましたの。そう、あの雨の日までは」 ジョゼルマリーがそう言い終えるや否や、ざあっと雨音が聞こえ出した。 あめ、あめ、あめ。雨がふる。 寝台の上で半身を起こし、コンコン、コンコンと何度も苦しそうに咳き込んでいる。 どうにか咳が収まったかと思えば、今度は苦しそうな息づかいが、喉からヒュウヒュウともれる。 「大丈夫よ、ジョゼル」 棚の上からじっとこちらを見つめている豪華なビスクドールに、毬子は淡い笑みを向ける。 「もう、慣れっこだもの」 毬子は棚から薬の包みを取り出し、一服飲み下すと、ビスクドールを胸に抱いた。 ジョゼルという名のビスクドールは、ほつれた髪を白い頬にはりつけた毬子とは対照的に、金の髪に縁取られた薔薇色の頬をしていた。青い瞳と珊瑚色の唇が、にっこりと毬子に微笑みかけている。 「それに、ジョゼルがいてくれるから、わたし寂しくても我慢ができるわ」 と、毬子の発言に抗議するかのように、ニィ、と愛らしい鳴き声がした。 桐のたんすの陰から、白い猫が顔をのぞかせている。 「まあ、華さん」 ヒュ、と喉を鳴らして毬子は毛並みの美しいその猫を呼んだ。 ちりめんのリボンを首に結んだ白猫は、やっと自分の事を思い出したのかと、得意げに頭を持ち上げた。 「そうね、華さんも一緒だったわね。二人ともわたしの大切なお友達。おばあさまがわたしに下さった宝物よ」 嬉しそうに喉を鳴らす華に、毬子は心の中で詫びた。 今の言葉には、ほんの少しだけ偽りがあったからだ。 ジョゼルも華も友には違いない。 何故ならジョゼルは、真実毬子の為を思って贈られた品で、華は贈るという行為に意味をもたされた品だったからだ。 毬子は、ジョゼルを抱き、華をひたと見つめながら、初めて出逢った日の祖母を思い出した。 『あなたが、マリーね……? お会いしたかったですよ』 そう言って、不器用ながらも優しく微笑んだ祖母。 『これは、あなたとわたくしが初めて会った記念の品です。仲良くやりましょう』 ジョゼルを差し出しながら、涙ぐんだ祖母。 手ずから紅茶をつぎ、毬子の知らなかった父の事を教えてくれた。 川田男爵家のたったひとりの跡継ぎだった父清貴は、異国の女性と恋に落ち、家を飛び出したそうだ。 川田男爵は怒り、息子を勘当したが、その男爵が亡くなった為、祖母は必死に清貴を捜していたのだと言う。 『でも、清貴さんも既に亡くなっていただなんて……』 ぽつりと紅茶にしたたる一滴の涙。 だから、祖母の手に己の手を重ねて言ったのだ。 父は幸せだった、と。 父の幸せを知れば、祖母の孤独も少しは癒えるだろうと思ったのだ。 だが、毬子の手の下で、ぴくりと祖母の手が強張った。 『――どうか、亡くなったお父様の分も、わたくしの傍にいてちょうだい』 一瞬の沈黙にためらいながらも毬子は頷き、そして川田の屋敷に引き取られた。 当初、毬子の行動に制限はなかった。 それが、いつからだろうか。 『マリーという名は川田の家に相応しくありません』 『清貴さんの髪は、まっすぐで黒々としていたのに』 『発作……? まあ、清貴さんにそんな病はありませんでしたよ!』 名も、姿も、そして生れついての病も、毬子は母に似すぎていた。 そしてそれは、祖母に息子を奪った憎い女を思い出させるのだ。 両親から与えられたマリーという名は毬子に変わった。 外出が禁じられ、次に母屋に立ち入る事ができなくなった。 気づけば、毬子の自由は、離れにあるこの部屋の中だけになっていた。 最後に祖母に会ったのは、何ヶ月前だろう。もうそれを思い出すのも難しい。 顔をあわせなくなった祖母は、その埋め合わせをするかのように、豪華な贈り物を時折毬子の部屋に運ばせた。 だが、そうやって持ち込まれた茶器が、袱紗が、菓子が。 着物が、かんざしが、鏡が。 本が、絵画が、琴が。 よりいっそう毬子と祖母の孤独をきわだたせるのだ。 中でも毬子に深い悲しみを抱かせた贈物が、他でもない華だった。 毬子の病を考えれば、与えられなかったであろう華は、退屈しのぎにの一言と共に押し付けられた。 動物の毛は毬子の病に、ことのほかよくないというのに。 祖母は毬子を省みていない。 改めて思い知らされた事実に、毬子は絶望した。 華だけは、容易く受け入れられないと思った。 だが、そんな毬子の気持ちを知ってか知らずか、華は毬子によく懐いた。 親が恋しい時分だったこともあるのだろう。 ふわふわとした小さな命が、毬子にぴったりとよりそっていた。 そんな華の姿が、ふと己と祖母の関係を思い出させた。 受け入れてもらいたい思い。 華は毬子だ。 毬子は祖母だ。 贈物として選ばれた華に罪はない。 スッと毬子の中で華へのこだわりが消え、同時に友愛の情が芽生えたのは、自然な流れだったのかもしれない。 一番の位置は、ジョゼルであったけれど。 「ねぇ、ジョゼル……、華さん」 ぜい、と苦しい息をして毬子は続けた。 「わたしね、夢があるの」 ジョゼルを左手に抱き、身体をすりよせてくる華を右手で撫でる。 「いつか、自由になったら……、お店を開きたい。贈物をそろえたお店よ。傍にジョゼルが居て、華さんが居て……、わたしはお客様が贈物を選ぶお手伝いをするの。お客様のお話をたくさんきいてね、ぴったりの贈物を選ぶのよ」 にゃお、と華が返事をするかのように鳴いた。 「ね、素敵でしょう? わたしなら、きっとできると思うの。贈物の嬉しさも、悲しさも、知っているから。だから、ね。ジョゼルも華さんも、ずっと、一緒にいてね」 毬子はそっと息を吐き出し、静かに目を閉じた。 あめ、あめ、あめ。雨が降る。 「あめ、あめ、あめ。雨が、降っておりました」 ジョゼルマリーが口を閉じると、始まった時と同じように突然雨音がやんだ。 舞花は、なんともいえない表情で、じっとジョゼルマリーを見つめる。 ジョゼルという名の人形。 おそるおそる舞花はたずねる。 「――毬子さんは、どうなったの?」 「亡くなりました。あの雨の夜に、体調を損なわれて。家の者が気づいた時にはもう手遅れでした」 舞花は息を飲んだ。 では。 では。 今、目の前にいるこの”ジョゼルマリー”という名の不思議な女性は。 「お耳汚しでございました」 ふ、と笑ったジョゼルマリーに向かって、舞花はかぶりをふった。 「そんなことないわ!」 腕を伸ばして、ジョゼルマリーを抱きしめる。 「話してくれてありがとう。わたし、前よりもっと贈物の事がよくわかったわ。この店とあなたの事が大好きになったわ。ジョゼル……、それとも、毬子さんと呼んだほうがいいのかしら」 だが、舞花の言葉にジョゼルマリーは一瞬あっけにとられたような表情になると、かすかに苦笑めいたものを浮かべた。 「……違うの?」 てっきり、”ジョゼルマリー”とは、毬子の愛したジョゼルという人形か、毬子その人が生まれ変わった姿だと思ったのに。 「舞花様はひとりお忘れのようです」 ジョゼルマリーの瞳に悪戯な光が揺れる。 あっと舞花は小さな叫び声を上げた。 「わたくしは、ジョゼルマリー。ジョゼルマリー・華と申します。かつては、毬子様に愛された猫でございました」 「……華さん」 「ですが、どうかわたくしの事は、これまでどおりジョゼルマリーとお呼びくださいませ」 舞花は、あふれる思いをうまく言葉にすることができなかった。 だから、細い腕にぎゅっと力をこめ、絶対に言いたい一言だけをジョゼルマリーの耳に囁いた。 「きっときっと、毬子さん、微笑んでいるわ。貴方の中で、ジョゼルと一緒に微笑んでいるわ」 ジョゼルマリーは誇らしげに口元をほころばせた。 「はい。わたくし達はいつまでも一緒です。その名も、魂も、ずっと」 今日もどこかの街角で、遠い昔の約束を胸に抱き、ジョゼルマリーは待っている。 心のこもった贈り物たちを取り揃え、あなたが来るのを待っている。 「ジョゼルマリーへようこそ!」 おわり |