異世界の姫君こと王子さまの花嫁候補ゆかりは、食堂中の視線を集めながらひどく狼狽していた。大きな瞳に涙が滲んで今にも零れ落ちそうになっている。半分錯乱状態になっているゆかりをひとまず椅子に座らせながら、金欠魔法使いのギィは優しくたずねた。
「どうしたんです、ゆかりさん。無断外泊って?」
「わたし、昨日おうちに連絡いれてない! 絶対お母さん心配してるっ。お父さん怒ってる。ああああ、きっと警察に通報しちゃってるわ、どうしよううううう!」
ゆかりは一般的な日本人の娘として、ごく普通に生きてきた。いや、どちらかというと、平均よりも少々真面目な性分であったかもしれない。高校生になるまで一人でファーストフード店に入ったことがなかったし、友人と旅行に行ったこともなかった。
この春高校を卒業して、やっと友人の家に泊りがけで遊びに行くことを許されるようになったが、その時も必ず母親に許可をもらっていた。こんな風に何の連絡も入れずに他所に泊まった事など、今まで一度たりともない。
きっと今頃自宅では、大騒ぎのはずだ。
ゆかりの脳裏に、専門学校生失踪だの、十八歳少女誘拐だのといった不吉な文字が躍る。
顔面蒼白になって自分を捜す父と母の姿がありありと想像できた。
後悔と申し訳なさでゆかりの指先が震えだす。
ギィがおろおろとその指先に触れた。
「ゆかりさん、落ち着いて。ね? だいじょう……」
「落ち着いてなんていられますかー!」
ゆかりは再び椅子を蹴倒して立ち上がると、ギィの手を振り払った。
「きっと世間を騒がせた罪でわたし、捕まっちゃうんだわっ。犯罪者の娘を持ったお父さんは会社を首になって、お母さんは親戚のおばさんに後ろ指さされちゃうんだわっ。きっときっと瑞貴くんの所にもマスコミの取材がやって来たりして、迷惑かけちゃうんだわーーー!」
ゆかりの突拍子のない叫びに、ギィは苦笑していたが、ゆかりの口から元彼氏の瑞貴の名前が転がり出ると、キッとまなじりが鋭くなった。
「だからその男の事は忘れなさいと言っているでしょう」
怖くなったギィの声にゆかりは一瞬口をつぐんだが、頬を赤くして負けじと叫び返す。
「ムリよ。いろんな意味で絶対ムリ! わたしそっくりな男を選んだ人よ。忘れたくたって忘れられないわっ」
言いながらゆかりはテーブルを蹴飛ばした。普段のゆかりからは考えられない行動だが、よほど頭に血が上っていたのだろう。ぐらりと揺れたテーブルは、任務放棄とばかりに乗っていたものを放り出した。食器が悲鳴を上げて割れていく。
「お……、じゃなくて魔法使いさま、花嫁候補の姫君」
何ともいえない冷たい声に、ゆかりとギィは同時に振り返った。
完璧な笑顔を浮かべた店員が、こめかみの辺りをふるわせてスッと店の入り口を指し示す。
「痴話げんかなら、どうぞ外で」
ギィはぺこぺこ店員に頭を下げながら、ゆかりの手をとった。
「出ます、出ます、すぐ出ます! ああ、それから食器は弁償いたします。お城の王子さま宛でご請求くださいね」
わかっていますよ、といわんばかりの店員の哀れむような視線に見送られ、ギィとゆかりは店の外へ出た。
常若の都の春の香りをのせたそよ風が、興奮したゆかりの頬を優しくなでていく。
「ご、ごめんなさい……」
自身の行動が恥ずかしくなったゆかりは、目をふせ、小さな声で呟いた。
「大丈夫ですよう、気にしないで」
ギィの暢気な呟きに、ほっとゆかりは安堵した。それと同時に、やはり家の事が心配になってくる。そんなゆかりの心を見透かしたのか、ギィはクスリと笑うと、着ていたボロローブの袖口に手をやった。
「さて、ゆかりさん。これはなんでしょう」
目の前にさしだされた物をみて、ゆかりはぽかんと口を開けた。
「それ、わたしの携帯……」
可愛らしいクマのストラップのついた白い携帯電話は、間違いなくゆかりのものだった。それを、何故ギィが持っているのだろう。
「連絡がないとお母様、心配されますものね。手抜かりはありません」
薄紫の空にぽっかりと浮かぶ目玉焼きの輝きを受けて、ギィの砂色の瞳がキラリと意味ありげに光った。
ギィは器用に携帯を開くと、耳元にあて喋り始める。
「あ、お母さん。わたし、ゆかり。うん。今晩は安藤さんのお家にお邪魔するから。うん、突然でごめんね。明日はちゃんと遅くならないうちに帰るから。はーい、挨拶はきちんとします。それじゃあ、お父さんにもよろしくね」
ギィの口から出てくる声は、ゆかりのものだった。
口をパクパクさせるゆかりに、ギィは得意げに胸を張る。
「とまあ、こんなカンジで昨夜のうちにゆかりさんのお母様には連絡をいれておきましたので! 親友の安藤さんのお宅に泊まったことになってますから、うまく調子をあわせてくださいね」
「どうしてギィがわたしの親友知ってるの!? その声はなに!? どうして携帯がつかえるのーーー!?」
ゆかりはギィの手から携帯をひったくった。じいっと画面を見つめると、不思議な事にアンテナが三本立っている。
ためしに117番にかけてみると。
『九時四十五分二十秒をお知らせします』
――日本時間だ。
「ど、どど、どうしてー!」
「察するに、日本人の生活に携帯はなくてはならない物のようですから、ゆかりさんがご不便を感じないようにという王子さまのご命令で、こちらでも通じるようにちょっと細工をさせていただいたんです」
さらりとすごい台詞を言われて、ゆかりは絶句する。ありがとうと言うべきなのだろうか。
「ゆかりさん、一度お帰りなさい」
「え?」
予想していなかったギィの言葉に、ゆかりは思わず聞き返した。
「さっきも言ったように、ゆかりさんは一日だけ安藤さんのお宅に泊まったことになっています。遅くならないうちに帰って、お母様を安心させてあげなければ」
ゆかりは、まじまじとギィを見つめる。相変わらずひょうひょうとしたつかみどころのない笑顔だ。
「帰っていいの?」
「ええ。お城に連絡を入れて荷物をもってきてもらいますから、昨日の列車で帰りましょう」
「わたし……、わたし、帰ったらもう戻ってこないかもよ?」
ギィはフ、と口元をゆがめると細い指をパチンと鳴らした。と、ギィの手の中に一輪の花が現れる。形自体に特に面白みはないが、五枚の花弁は虹色にきらめいて透けていた。愛らしさと美しさが同居して、神秘的に揺れている。
風にやわらかく花弁が舞うさまは、なんとも幻想的だった。
ギィは虹色の花を器用にゆかりの髪に飾る。
「ゆかりさんは、戻っていらっしゃいますよ」
自信たっぷりに言われて、ゆかりは唇をとがらせる。
「わからないじゃない、そんなこと」
「いいえ、ゆかりさんは、戻っていらっしゃいます。必ずね」
「それ、予言?」
「さあて」
ギィは、ゆかりの髪の上で光る花を見て満足そうに頷いた。
ゆかりは知らない。
虹色の花がこの世界でただひとつ、常若の都にしか咲かないのだということを。
そして、この国で虹色は、花嫁を意味するのだということを。
さらに、それを男が送ることが求婚を意味するのだということを。
ゆかりはふくれっつらで、嘘の上手な金欠魔法使いをにらみつけた。