ゆかりは、幸せだった。
腕の中では、愛する息子が安らかな寝息をたてている。起こさないように気をつけながら、滑らかな頬にそっと指を走らせた。頬よりも、ついほっぺと呼びたくなってしまうこの手触り。幸せに感触があるとしたら、まさにこの柔らかさかも知れないと、ゆかりは思う。
愛らしい寝顔は、どれだけ見ていても飽きない。
最近は、自分と夫に似ている部分を息子の中に探すのが、癖のようになっていた。
緩く渦を巻く前髪は、ゆかり似。頬に濃い影を落とす長いまつげもゆかり似だろう。
「うふふ、パパに似ているのはどこかなー」
鼻筋だろうか。それとも、耳の形?
いや。息子が夫にもっとも似ているのは、筋肉だ。
「え?」
ゆかりは、思わず自分の心に浮かんだ言葉に首をかしげた。
「いやだ、わたしどうしたんだろう」
夫の瑞貴はスラリとした細身の若者で、隆々とした筋肉とは無縁である。ましてや、赤ん坊に筋肉がついている訳がないではないか。
ゆかりは、体勢を変えて息子を抱きなおそうとしたが、次の瞬間硬直した。
息子を包んでいた可愛い小さなベビー服が、ムクムクとふくれあがっているのだ。
ゆかりの狼狽をよそに、ベビー服は千切れとび、たくましい筋肉が現れる。
「きゃああああああ!?」
ゆかりの悲鳴を聞いて、席を外していた夫が駆けつけてくる。
「どうした、ゆかり!」
「瑞貴くん!」
ゆかりは涙を浮かべて、振りかえった。
だが、扉を力まかせに引きちぎって現れたのは、瑞貴ではなかった。
我が妻よ、などと恐ろしい台詞を口にしたのは、きらびやかな青い礼装に身を包んだ筋肉の塊こと常若の都の王子、アーネストである。
口をむなしく開閉させるゆかりをあざ笑うように、夫と息子がそろってたくましい筋肉を見せ付けるポーズをとった。
「いやああああああああああああ!」
肺の中の空気を全て吐き出して、ゆかりは絶叫した。
やわらかな寝台の上で弾みをつけて、ゆかりは飛び起きた。
背中にびっしりと嫌な汗をかいている。何かを確かめるように辺りをゆっくりと見回し、ゆかりは、そのまま泣き崩れた。
「夢ならよかったのに、夢ならよかったのに、全部夢ならよかったのに!」
筋肉息子はただの悪夢であったが、筋肉王子の花嫁候補にされてしまったのは夢ではなかった。
ほんの一日前までは一般的な日本人の娘として、まず平凡で幸せな朝を迎えていたというのに、この変わりようはなんなのだろう。
不幸は、自分そっくりの男に彼氏の瑞貴をとられたところからはじまった。傷心をかかえて自宅に帰るはずだったのに、どこをどう間違えたのか、金欠魔法使いにどことも分からぬあやしい国につれて来られ、世継ぎの王子の花嫁候補として、歓迎されてしまったのである。
宴の席で飲めない酒を手違いから口にし、噂の王子の姿を見たゆかりは、卒倒した。
齢四十と少しを数える常若の都の王子は、世の全ての乙女の王子に対する幻想を打ち砕く容姿の持ち主だったのだ。口ひげは百歩ゆずって我慢するとしても、あの筋肉だけはゆるせない。
よせばいいのに王子の姿を思い出して、ゆかりは身震いした。
と、扉がノックされ、開く。
「やあ、ゆかりさん、おはようございます。今日もすてきな半熟具合ですよ」
ゆかりは、淡い期待を抱いて美しい彫刻の施された扉をふりかえったが、現れたのはやはり瑞貴ではなく、銀の盆を手にした金欠魔法使いのギィであった。
すてきな半熟具合というのは、この国独特の言い回しで、いい天気という意味らしい。
窓から空を振り仰げば、卵二つの目玉焼きが、太陽のようにさんさんと光をはなっていることだろう。
ゆかりは、うらめしそうにギィをにらみつけた。
「ど、どうしました?」
ゆかりの視線におびえながら、ギィは後ろ手に扉をしめる。
「……なんでもない」
ゆかりは、罵詈雑言をギィにぶつけようとしたが、ギィについて来たのは、やけっぱちだったとはいえ、自分自身の意思だったという事を思い出したのだ。
「女の子って心底好きだった人にふられると、意外となんでもできるのね」
ゆかりの低い呟きに、ギィの眉が跳ね上がる。
「ゆかりさんをふってしまうような見る目のない男の事なんて、忘れてしまいなさい。あなたは王子さまの花嫁ですよ。王子さまの事だけ考えてください!」
ゆかりは、とっさに羽枕をつかむと、ギィめがけて投げつけた。
「それを人は拷問と言うのよ!」
だが、ギィは意外な俊敏さで枕をかわし、寝台へと歩み寄った。
手にしていた盆をゆかりに差し出す。盆の上には白磁のカップが乗っていた。茶の芳しい湯気がゆかりの鼻をくすぐる。
盆を受け取ろうとしたゆかりとギィの手が、一瞬だけふれあった。
ゆかりは特に気にしなかったが、ギィの砂色の瞳がわずかに細められる。幸福そうな、満足そうな輝きが瞳に踊ったのは、刹那のこと。
ゆかりはカップの中身に視線を注いでいたので、ギィのその様子には気づかなかった。
「これ、また、味が変わるの?」
カップの中身は、ごくごく普通の茶のようだったが、油断はできなかった。
なにせ、ゆかりは、夕べの宴で次々に味が変わる飲み物を与えられ、酔っ払ってしまったのだ。
こわごわたずねるゆかりに、いつものひょうひょうとした表情でギィが答えた。
「いえ、あれは宴用の特別な飲み物ですので。これは普通の香草茶ですよ。しゃっきりとした目覚めにはかかせません」
「ふうん……」
ゆかりはやっと安心して香草茶を口にした。
とたんに香ばしさが口内で弾ける。飲み下すと甘い香りが鼻へスッと抜けていくのがわかった。紅茶のような味わいを想像していたゆかりは、目をしばたかせた。今まで味わったことのない茶だった。あえて知っている物の中で近い風味の物をあげるとすれば、ハト麦茶だろうか。あれよりも口当たりが軽やかで、爽やかな甘い香りが心地よく、確かに目覚めの一杯としては、最適かも知れなかった。
ゆかりはカップを傾けて、悪夢で乾いた喉を潤した。
その様子を見守りながら、ギィが口を開く。
「ゆかりさん、朝食はせっかくですから、町の食堂へ出かけましょうか」
「町へ?」
「ええ、そうです。散歩して、気晴らしをしましょう」
ギィなりに気をつかってくれるているのだろう。ゆかりは、少しばかり嬉しくなってうなずいた。だが、ささやかな平和な時間は長くは続かなかった。
ギィが閉じたばかりの扉が、再び開かれたのだ。
「あーら。ニホンとかいう国の花嫁候補さんは、ずいぶんお寝坊でいらっしゃること」
かわいらしい声が皮肉を言うと、普通の声の十倍いやみったらしくきこえるのだと、ゆかりは初めて知った。
小ばかにした笑みでゆかりを見るのは、ゆかりと同じ花嫁候補のモイラである。
オレンジ色の派手な髪を三つ編みにした小柄な少女で、中年魔法使いに連れられてこの都へやってきた。
「しかたあるまい。かの人は、昨夜の宴で卒倒なされた。儚き人なのであろう」
落ち着いた声でそう言ったのは、女魔法使いに伴われてやってきたもう一人の花嫁候補のナンだ。頬にかかった漆黒の髪を、物憂げにかきあげている。モイラが愛らしい少女ならば、ナンは美しい娘であった。はっと人目を引く華やかさがナンにはある。
「まあ、まあ、まあまあ。それはいけないわね!」
ナンの言葉を受けて、随分と嬉しそうにモイラが言う。
「王子さまの花嫁たるもの、健康でなければ」
両手を組んでうっとりしながら、モイラは続けた。
「若く、賢く、美しく。そして健やかでなければ、王子さまの御子をもうけることなどできないわ」
ゆかりは呆然としてモイラとナンを見ていたが、御子という言葉に身体を震わせた。先ほどの悪夢を思い出したのだ。
「やめてっ、そんな事言わないでっ!」
だが、ゆかりの叫びにナンが顔をしかめる。
「まるで、御子を宿すのがいやだとでも言いたげだな。あの方の良さがわからぬとはおろかな女だ。隆々とした筋肉のさまといったら、なにものにも変えがたいほどに美しいではないか」
ナンの瞳が美しく輝いた。上気したその顔は、まさしく恋する乙女の表情である。
ナンは見た目の美しさとは裏腹に、美意識にはなはだ問題があるようだ。
ゆかりは、助けを求めるようにギィを見たが、ギィも二人の花嫁候補に気おされてしまっていた。視線をそらし、鼻歌を口ずさんでいる。
「それはともかく」
ナンの言葉をモイラはさらりとながし、ゆかりに指をつきつけた。
「やる気のない方が花嫁候補というのも、迷惑な話だわ。さっさと荷物をまとめてお帰りになれば?」
帰れるものなら帰りたい、ゆかりはそう言おうとしたが、モイラが言葉を続けるほうが早かった。
「どうせあなたのようにパッとしない人は、殿方の心をとらえる事なんてできないでしょうから。そうね、わたくしが殿方なら、あなたよりも、そこの魔法使いをとるかもしれなくてよ」
ゆかりは、おっとりとしたのんびり屋だが、この台詞を聞き流すことはできなかった。むしろ、逆鱗に突き刺さったといっても過言ではない。
「男に彼氏をとられるですって!?」
モイラはそこまで言っていないのだが、ゆかりの耳にはそう聞こえた。
「冗談じゃないわ。わたしに魅力がないんじゃなくて、瑞貴くんがどうかしてただけよ! 王子さまがなんだっていうのよ! 絶対あなた達になんて、負けないから!」
ゆかりは寝台に立ち上がって力説した。
ナンがふむ、と頷いた。
「では、わたし達と堂々と勝負していただけるのだな、ゆかり殿」
ナンに頷きながら、ゆかりの心に邪悪な計画が持ち上がった。モイラとナンを打ち負かし、王子さまの花嫁の座を射止め、そして王子をこっぴどくふってやろう、と。
ゆかりが受けた不幸を、今度は彼らが味わうのだ。
拳を握り締めるゆかりに、ギィはおそるおそる声をかけた。
「ゆ、ゆかりさーん、顔がこわいでーす」
「気のせいよ」
ゆかりは、柔らかな笑みでギィの抗議を一刀両断した。