王子さまの花嫁として、魔法使いのギィと七色の汽車にのりこんだゆかりは、いつのまにやら眠りに落ちていた。
金魚の泳ぐ窓に頭を持たせかけ、寝息を立てながらも、ゆかりは時折涙のしずくを零す。透明なしずくは、ゆかりのなめらかな頬を滑り落ち、にぎりしめた拳の上ではかなくはじけた。
ややあって、ゆかりの隣に腰掛けていたギィは、ゆかりの涙に気がついた。
――夢で泣くほどに、悲しかったのかな。
心の中でつぶやき、それもそうか、と思い直す。無理もない。彼女は、長年付き合ったボーイフレンドにふられたのだ。新しく、自分とよく似た「男」の彼女ができたがために。
ギィは、砂色の瞳を細めると、そっとゆかりの涙をぬぐった。
しゃらん、しゃらんと賑やかな音をたてて、車両と車両をつなぐ扉が開く。
ぬっと姿を現したのは、紺色の制服をきっちりときこみ、同じく紺色の帽子をななめに小粋にかぶった――それをそう呼んでも差し支えないとすれば――オットセイだった。
ひょこひょこと飛び跳ねながらギィのところにやってきたオットセイは、ギィに手ビレをさしのべた。
「切符をぉぉ、拝見!」
むさくるしい大きな声でさけぶオットセイに向かって、ギィはしっと唇に指を当てた。
ゆかりは、ううんと小さなうめき声をもらしたが、目を覚ましはしなかった。
ほっと安堵したギィは、ふところから、小さな白い貝殻を差し出した。ギィの手のひらよりひとまわり小さい、綺麗な筋の入った扇型の貝だ。
「車掌さん、仕事熱心なのはいいですけれど、少しだけお静かにお願いしますね。姫君がおきてしまいますから」
ギィがささやくと、オットセイ、いや七色の汽車の車掌は大きく首を上下させた。どうやらうなずいたようだ。
「こぉぉれは、えっと、その、そう、魔法使いさまぁ、おーつかいですか?」
「ええそうです」
ギィがにっこりと微笑むと、車掌は再び大きくうなずき、ギィの差し出した貝にパチンと穴を開けた。
「よきぃ、旅をぉぉ。えっと、その、そう、魔法使いさまぁ」
ギィは手をひらひらと振って車掌を追い払うと、ふたたびゆかりを見つめた。
ふっくらとしたほほをふちどる、ふわふわした栗色の髪が愛らしい。
愛らしいのに、悲しそうにとがった唇が気になった。
「あなたを苦しめる夢を、追い払っていいですか? アーネスト王子とは笑顔でお会いしていただきたいので」
とろとろと浅い眠りにまどろむゆかりは答えなかったが、ギィは特に答えを必要とはしていなかったので、ゆかりの小さな額の上で、くるりと手をまわした。その刹那、またゆかりの目から涙がこぼれる。とっさに、ギィは、それを口づけで止めた。
ギィの乾いた唇がゆかりの涙で潤う。わずかに目を細めて、ギィは指を鳴らした。
銀色の光がはじけ、ゆかりの表情がやわらぐ。
ギィは顔を離すと、ゆかりの寝息が安らかになるのを確認した。どうやら悪夢追いの魔法は成功したらしい。
ギィはやれやれと安堵のためいきをもらすと、背もたれに体重をあずけ、しばしの汽車旅を楽しんだ。時折、唇に手をやって、そこに触れたゆかりのやわらかな頬の感触を思い出しながら。
やがて汽車は長い暗闇をぬけ、不可思議な景色の只中を走っていた。
そろそろいいだろうと、ギィはゆかりをゆすり起こした。
「ゆかりさん、ゆかりさん、起きてください。もうすぐ終点ですよ」
目を開いたゆかりは、目の前で泳ぐ金魚に驚いてとびすさった。
「わっとっと、思い出しました? ここは汽車の中ですよ」
ドキドキとはね踊る心臓を無理やり落ち着けさせて、ゆかりは記憶をたどる。
ふりかえると、砂色の髪と瞳の魔法使いが、ニコニコと微笑んでいた。
夢ではなかったのだ。
王子さまの花嫁候補にされてしまったことも、魔法使いと奇妙な汽車に乗り込んだことも、……男に彼氏をとられたことも。
「……わたし、死にたい」
ぼそっと不吉なセリフをつぶやくゆかりに、ギィは慌てた。
「死なないで!? お願いです、我が家のパンのためにぃぃぃっ!」
花嫁候補の姫を城に連れて行けば、ギィは王宮の魔法使いになれるのだ。
王宮の魔法使いになれば、俸給があがり、晩年貧乏とおさらばできる。ここでゆかりに死なれるわけにはいかなかった。
ギィはゆかりの気分を盛り上げようと、必死に窓の外を指差した。
「ほーら見てください。一本杉が見えるでしょう? あれは、都まであと一キロゥというしるしです」
ギィのしめした一本杉とは、杉が一本立っているというものではなく、文字通り、数字の1の形をした杉だった。目と鼻と口までついていたような気がするが、とりあえずゆかりは見なかったことにする。
「ほら、それに今日はあんなに良いお天気ですし、お城まで歩くのは素敵ですよ!」
つられて空を見上げれば、そこには、太陽ならぬ卵二つの目玉焼きが、さんさんとまぶしい輝きを放ち、薄紫色の空に浮かんでいた。
「いやあ、今日はことさら半熟具合がすばらしい」
ギィの言葉に、ゆかりはほうけたように笑い出した。笑う以外に何ができただろう。
寝ている間に、初めて男から口づけされたと知ったら、笑いながらギィを痛めつけたかもしれないが。
ともかくゆかりの悲哀をよそに、汽車は滑るように駅についた。
乗り込んだ時と同じく、竪琴の音が鳴り響き扉がひらく。
ゆかりの手をとって立ち上がりながら、にこやかにギィが言った。
「ようこそ、我らの都へ。運命の姫君!」