考えた事がなかったと言えば嘘になる。
 もう一度カレンと出会ったら、己はどんな行動に出るのだろうか、と。

 心の底に押し込めた、疑惑と怒りに突き動かされるまま、カレンを問いただすのか。

 奪った唇の感触と、重ねた時の想いに後押しされるまま、カレンを抱き締めるのか。

 だが、実際にカレンと合間見えた今、心を支配したのは、怒りでも愛しさでもなかった。むくりと頭を持ち上げたのは、ただ純粋な殺意。

 疾風の二つ名で呼ばれるクイーンガードは、その殺意の命じるままに腰の短刀を引き抜いた。


 誰にも告げていなかった本当の名前を呼ばれたカレブは、混乱の只中にいた。
 エルフの姿は記憶になかったが、「カレン」と低く呟いたその声は、耳に鋭く突き刺さった。

 脳裏に繰り返される、主なき言葉。

 ”雪は、その結晶の形から、「六花」とも言うそうだ。”

 ”ついて来い。この「風」に”

 ”癒しの魔法の一つくらい覚えておけ。俺の手を煩わせるな。お前は・・・なのだから”

 エルフの声と、脳裏の声が、ゆっくりと重なっていった。
 水面に映ってゆらめいていた影が、波紋の収まりと共にピタリと映像を結ぶかのように。

「あ・・・」

 姿のない声を掴むかのように、カレブは震える両手を差し伸べた。

「あなたは、だれ?」

 声の主を逃したくなかった。しっかりと抱きとめて、もう一度声を聞きたかった。

 ここが迷宮の中だという事も、身体の中に入り込んだ黒い影の危険性も、仲間の存在それさえも、カレブの意識から消え失せる。

 青い目は、短刀を引き抜いたエルフだけを、ひたと凝視していた。

「誰、だと?」

 感情の失せた声が、エルフの端整な唇から零れた。

「わたしを、知っているの・・・?」

「笑わせる!」

 一喝と共に、エルフの姿がカレブの視界から消えうせた。
 ハッとしたカレブは、一歩後ろに飛び退った。

 一瞬前まで己のいた空間を、エルフの短刀が貫く。
 シンと冷たい銀色の切っ先が、カレブの胸に刺さるか否かのギリギリのところで止まっていた。

 エルフが攻撃の手をゆるめたわけではない。カレブが一切の無駄を省いた最小の動作でそれをかわしたのだ。

 雰囲気にのまれ、動くことが出来なかったリカルドが、ここまできて、やっと声を出す事に成功した。

「あ、アンタ、何やってんだ!」

 リカルドはエルフの肩を掴もうとしたが、逆に腕を取られた。
 「え?」と思う間もなく、足がふわりと浮き上がる。くるりと視界が一回転し、リカルドは受身もとれずに、床に叩きつけられた。

「ぐ、あっ・・・」

「リカルド!」

 グレースが駆け寄り、リカルドを抱き起こす。
 したたかに背中を打ったリカルドは、苦しそうにうめき声をもらした。
 よほど強く打ったのか、すぐには身体を動かすことが出来ない。

 エルフは、リカルドを投げ飛ばすやいなや、カレブに第二撃を放った。
 手首をひるがえし、みぞおちを狙う。

 カレブは、呆然となりながらも身体をひねって再び攻撃をかわした。

 一瞬、泉の瞳と落日の瞳が交差する。

 くらりと眩暈がした。

 覚えている。

 記憶にはないはずなのに、カレブはこの瞳を知っていた。
 こんなふうに間近で、しかし、今とは異なる気持ちで、この瞳をのぞきこんだことがある。

 カレブは、胸を押さえた。
 苦しくて、悲しくて、切なくて・・・、心が押しつぶされそうになる。

「ごめん、なさい」

 自分のものとは思えないような、細く頼りない声が、詫びの言葉を呟いた。

「ごめんなさい・・・」

 落日色の瞳から、目をそらす事ができなかった。脚の震えが止まらないほど怖いのに、見つめ続けずにはいられない。

 カレブは、まるで祈るように「ごめんなさい」と呟き続けた。

 しかし、カレブの祈りは、エルフの心をさらに凍えさせただけだった。

「詫びなら」

 シュッ、と空を裂いて走った短刀が、カレブの喉に紅い線を走らせる。

「死の国へ堕ちた後で言え」

 三日月のような弧を描いて、カレブの喉から血が噴出した。

 グレースが高く悲鳴を上げる。

 その悲鳴を、人事のようにききながら、カレブは喉に手をやった。
 ぬるりとした熱いものが、指の隙間から溢れていく。

 痛みは感じなかった。

 ゆるゆると手を眼前にかざすと、血まみれの指の隙間から、エルフの顔が見えた。

 無表情な冷たい顔。だが、カレブは、それを寂しそうな顔だと思った。
 彼らしくない、表情だと。

 謝らなければならない。

 そんな顔をさせてしまって、ごめんなさい、と。

 だが、急激に視界が狭くなった。

 エルフの顔がぼやけていく。

 色の失せた唇をわなめかせ、カレブは倒れた。

 銀色の髪と、紅の血が、墓土の上に広がる。

 とどめとばかりに、エルフが血塗られた短刀を振り上げた。

 ミシェルは、悲鳴を聞いていた。

 グレースの悲鳴ではない。
 リカルドの悲鳴でもない。

 その悲鳴は、ここにはいない者の、声にならない悲鳴だった。

 エルフが短刀を引き抜いた時から、その悲しげな悲鳴は止まらない。

「わかっていてよ、姉さん・・・!」

 ミシェルは低く叫ぶと、カレブをかばうように身を投げ出した。

「どけ!」

 エルフが叫ぶ。

 ミシェルは顔を上げない。

 彼女は、己の顔がこのエルフにとって切り札になる事を知っていた。
 切り札は、最善のタイミングで使わなければならない。

「どけ!!」

 エルフの声に、かすかに苛立ちがまじり、短刀が空を裂く音が聞こえた。

 切り札は、今。

 ミシェルは、ぐっと頭を上げた。
 金色の髪がさらりと流れ、愛らしい顔が露になる。

 振り下ろされた短刀は、ミシェルの眉間にめりこむ寸前で止まった。

「お前、は」

「引いてください、疾風のクルガン。聖なる癒し手の名において」

 凛とミシェルは言い放つ。

「・・・俺に命令が出来るのは、オティーリエ陛下と長だけだ」

 否といいながらも、エルフ、クルガンの声から力強さは失われていた。

 ミシェルは、切り札が有効に働いた事を知った。

 ふ、とミシェルは笑みを浮かべた。

「では、言葉を変えます。クルゥ、これは、ソフィの願いです」

 ぎりっとクルガンの顔が大きく歪んだ。
 癒されざる傷を負った者が浮かべる、苦悶の表情だった。

 大きく息をはくと、クルガンは短刀を鞘に収めた。

「姉に似たその顔に感謝しろ」

 そして、倒れたカレブを一瞬視界に納め、身を翻す。

「処刑は、すんだ。穢れた魂は、黒き影が連れ去るだろう」

「貴様、それを知って・・・!」

 リカルドは、クルガンの背中に怒号を浴びせた。

 この男は、気づいていたのだ。
 カレブが黒い影に取り付かれていたことを。

 リカルドは痛む身体を何とか起こすと、剣を抜いた。

「戦士さん!」

 ミシェルが叫ぶ。

「今は、帰る事が先決です」

 グレースも、リカルドの腕を強く引く。

「くそっ!!」

 リカルドは忌々しげにクルガンを睨みつけると、グレースと共にカレブのそばにかけよった。ミシェルが素早く転移の薬を振りまく。

 一瞬の残像を残し、四人の姿は、転移の薬が描いた魔法陣の中に消えていった。

 たっぷりと百を数える間をおき、クルガンは振り返った。

 ゆっくりと、カレブが倒れた場所へと歩みよる。
 そこには、まだ乾ききらない彼女の血があった。

 クルガンは身をかがめ、カレブの血がしみこんだ土を、ザリッと掴みとった。

「カレン」

 とどめがさせなかった。

 黒い影などという不確定な要素に頼るとは、忍者らしくない行動だっただろう。

「させなかったのか・・・?」

 クルガンは、己に問うた。

「それとも、さしたくなかったのか・・・」

 クルガンは、握り締めた土を、そっと胸に押し当てた。
 かつて、やわらかな身体をその胸に抱き寄せたように。



 

 

 宿へと戻ったリカルド達は、カレブの治療に奔走した。
 魔力をほぼ使いはたしていたグレースの魔法では、傷口を塞ぐのがようやっとだったからだ。

 傷をふさいでも、ぐったりとした身体に活力は戻らず、ゆっくりと、だが確実にぬくもりが冷えていく。

 カレブの身体に入り込んだ黒い影は、うれしそうに紅の靄でカレブを包み、息絶える時を待っているかのようだった。

 リカルドは、癒しの魔法が使える僧侶や司教を捜したが、間の悪い事に皆出払っていた。怪我がつきものの迷宮に、僧侶達の存在は必要不可欠で、もともと余剰が出ることはあまりないのだ。

 寝台の脇に座り、カレブを診ていたグレースは、扉の開く音に顔を上げた。
 疲れ果てた様子のリカルドが、沈痛な表情で入ってくる。

 どうですか、と聞くまでもなかった。

「駄目だ。サレム寺院の坊主どもは、怪我の治療まではしてくれねえし・・・」

 死体になるのを待てっていうのかよ、とリカルドは壁を殴りつけた。

「すみません。わたしが、魔力の配分をまちがえなければ」

 グレースが唇をかみ締める。

「あなたのせいではないわ、白百合の姫」

 ミシェルが優しく、グレースの肩を叩いて立ち上がった。

「ミシェル、どこへ・・・?」

 見上げたグレースに、ミシェルはマントを羽織りなおしながら答えた。

「心当たりが一人。大急ぎで行ってくるから、この子をお願い」

「心当たりって・・・、宿にも、酒場にも僧侶はいなかったぜ」

「絶対に連れてくるから」

 ミシェルは、「絶対」の部分に力を入れて請け負った。

 小鹿のような素早さで宿を飛び出す。

 目指すのは、幼馴染のカザが寝泊りしている街の片隅にある家屋だった。
 目的は違ったが、彼も自分と同じように、迷宮と街を行き来する日々を送っている。

 本当は、迷宮内にある故郷の森にずっといたいのだろうが、あれは真実の故郷ではない。歪んだ空間のもたらした、偽りの故郷だ。

 偽りに身を浸し続けるのは、心身に大きな負担を強いる。

 それで仕方なく、彼は街へと戻ってくるのだ。

 雪の中を息を切らして駆け、彼の部屋の扉をあけると、いつぞやと同じようにカザは壊れかけた女神像に祈りを捧げていた。

 突然開いた扉に、カザはぎょっとしてふりかえった。
 息を整えるミシェルの姿を見て、かるく目をみはる。
 このような彼女の姿をあまり見たことがなかったからだ。

「ミシェル、どうしたんだい。そんなに、息を切らせて」

 心配そうに近づく幼馴染に、ミシェルは微笑んだ。
 素直に彼の腕に掴まって、身体を休める。

「あなたに、お願いがあって」

「お願い?」

 カザにもたれながら、ミシェルは頷いた。

「あなたの癒しが必要なの。友達を、助けてほしい」

 何かを言おうとするカザの唇に指をおしあてて、ミシェルは彼を黙らせた。

「ひとまず、来て。このままじゃあの子は」

 カザは肩をすくめると苦笑した。

「私の意志は関係ないという事らしい」

 ミシェルは、否定も肯定もしなかった。
 カザの苦笑は、ますます深くなった。

 だが、その笑みは、ミシェルに連れられてやってきた宿で消えうせた。
 己の癒しを待っていた者は、彼にとって仇以外の何者でもなかったからだ。

「ミシェル」

 低い声で、カザは策士の名を呼ぶ。

 事態の飲み込めないリカルドとグレースは、かわるがわるミシェルとカザを見比べた。

「君はどうしてこんな奴と!」

 リカルドは眉をひそめた。
 ミシェルの幼馴染だというエルフの反応は、カレブと出会ったときのクルガンの反応によく似ていたからだ。

「黒き影は、エルフの罪。それを祓うはエルフの宿命。お願いよ、カザ。あなたになら、出来るでしょう?」

「そういう問題じゃ!」

「いいえ、そういう問題よ」

 ミシェルは譲らない。

 だが、カザもその言葉を受け入れようとはしなかった。

「これだけは、きけはしない」

「あ、おい!」

 立ち去る気配をみせるカザを見て、リカルドは慌てた。
 彼は最後の頼みの綱なのだ。こうしているあいだにも、横たわる少女の呼吸はどんどん浅くなっていく。

「カザ」

 ミシェルは、人差し指を口にあてると首をかしげて微笑んだ。

「でも、あなたはやらなければならないわ」

「何故だ。その必要はない」

「だって、あなたは、彼女に借りがあるもの」

 ぴくりとカザは眉を持ち上げる。聞き捨てならない言葉だったからだ。

「借りだと? 私がどんな借りを作ったと君は言うんだ」

「あなたがこの間おいしそうに食べたマフィンとジャムは、このパーティでかせいだお金で買ったものよ。つまり、パーティーのリーダーである、彼女のお金なの」

 カザは。

 整ったその顔に、なんともいえない表情をうかべるはめになった。
 口元を手でおおうが、後の祭りだ。食べたものは戻りはしない。

「借りはかえすものでしょう?」

「ミシェル」

 なるべく感情を押さえてカザは言った。

「君は、意地悪だ」

「彼女と違ってね」

 ミシェルは、それはそれは愛らしく微笑んだ。