ドゥーハンの地下迷宮に挑むほとんどの冒険者が、迷宮からの脱出に転移の薬を用いる。
 特殊な薬液に転移の魔法を溶かしこんだそれは、使用者を印のついた場所まで安全に運んでくれるのだ。

 冒険者達はその大切な印を、冒険者ギルドにつける事が多かった。
 印を完全な形で保存でき、万が一己の転移の薬が魔物の手に渡り、魔物が転移してきたとしても、その場にいる冒険者や常駐する役員が対応できる。

 リカルドがグレースに手渡した転移の薬も、ギルド内に印がつけてあった。
 さらりと蜂蜜色の髪を揺らして、グレースが実体化する。

 靴が床を踏みしめる音に、棚の羊皮紙の束を整理していた白髪の役員が振り返った。
 グレースを見て、目を細める。

「おや、それはリカルドのヤツの印かと思ったが・・・、綺麗なお嬢さんが現れるとは」

 冗談めかした言葉にかすかに頬を赤らめると、グレースはぺこりと頭をさげた。

「ご親切な戦士の方に、転移の薬を譲っていただきました」

「・・・懲りない男だな。あの甘さはちょっとやそっとではなおらんか」

 くくっと役員は喉を鳴らして笑う。

「懲りない・・・?」

 ふと興味を覚えて、グレースは尋ねる。

「ああ。あんたに薬をやった男はリカルドっていうんだがね、あの迷宮で人の世話ばかり焼いている。この間なんかはその親切が祟って、パーティを追い出されたくらいだ。まあ、今は新しい仲間を見つけたみたいだが」

 役員は、冒険者達が迷宮から持ち帰った折れた剣をひとまとめにしながら答えた。
 どうやらリカルドはその戦士向きではない性質から、ギルドの役員に覚えられてしまっているらしい。

「あそこでは、誰もが自分の事で手一杯だっていうのにな」

 やれやれと役員は肩をすくめる。
 グレースは、思わず頷いていた。己自身がそうだったからだ。
 自分の目的に精一杯で、他者を省みる事をしなかった。そういえば、自分を助けてくれた冒険者達の名前さえ、聞かなかったのではないか。

「リカルド・・・」

 グレースは、シラスの民だと言って笑った男の名前を呟いた。

「さて、生憎外は吹雪でね。宿屋に戻る事さえままならないときたもんだ。迷宮から戻ってきた連中は、ここで吹雪がやむのを待っている。あんたも向こうの部屋へいって、休むといい」

「そうさせてもらいます」

 グレースは丁寧にそう言うと、仮の休憩所となっている部屋へと向かった。
 そこには、役員の言っていたとおり、迷宮から転移の薬で戻ってきた数組の冒険者達が、おもいおもいの場所でくつろいでいた。

 グレースは軽く会釈をして彼らの前を通り過ぎると、部屋の片隅の壁にもたれかかった。
 長剣を鞘ごと抱え込む。迷宮に入るようになってからの、それは癖だった。
 身体を休める時には、不安をしずめるかのように剣を抱かずにはいられない。
 剣は・・・、いなくなった婚約者の、形代だったから。
 だが、剣に人肌の温もりはなく、グレースの疲れた身体に、ひやりとした感触をもたらすだけだった。

 火の気のない部屋で、寂しさと寒さに身を震わせるグレースの耳に、冒険者達の会話が飛びこんでくる。彼らは一様に、迷宮の様子がおかしい事、不死者が増えた事などを話し合っていた。

 ふと、グレースは罪悪感にかられた。
 もしかして自分は、恩人達をとんでもないところへ残してきてしまったのではないか、と。
 そして、また不安にもかられる。
 十中八九あの迷宮にいると思われる婚約者は、果たして無事なのか、と。

 グレースは形のよい眉をよせると、祈りを捧げ始めた。
 婚約者と、恩人達の無事を願って。

 その祈りは。

 グレースが望んだ神に届くことはなかった。

 死の影が、濃く、深く、ドゥーハンの地下迷宮に広がる・・・・・・


 

 

 腰を痛めてしまったリカルドをサラとミシェルにまかせ、グレッグはカレブと二人で第三回廊へとやって来ていた。第四回廊へ到達するのに必要な仕掛けを起動するためだ。

 最初、グレッグは一人で行くつもりだった。だが、カレブが自分も行くと言いだしたのだ。
 理由を尋ねると、彼女は辛辣な笑みを浮かべ言ったものだ。

「この馬鹿戦士の顔を見ていたくないんだ」

 リカルドは何とも言えない表情をしていたが、カレブは振り返りもせずにさっさと歩き出した。彼女を一人で行かせるわけにも行かず、グレッグはミシェルにあとを頼むとカレブを追った。

 ふてくされた表情で歩くハーフエルフの少女を見て、グレッグは苦笑する。
 なんとも愛らしいではないか、と。

「なに笑ってるんだ、忍者だろ? しまりない顔をするな」

 どうやら、カレブの機嫌はすこぶる悪いらしかった。
 グレッグは、カレブの頭に手を置いた。細い銀色の髪が指をくすぐる。
 カレブは、グレッグがそのような行動をするとは思っていなかったのか、ぎょっとして立ち止まった。

「もう少し、素直になってもよかろう? 心をいつわってばかりだと、君自身も回りの者も、深く傷つく時がくる」

「何が言いたい」

「あやまりたかったのではないのか」

 唇の端に小さく浮かべた笑みを消さずにグレッグは言った。

「なっ・・・」

 カレブは短くそう言ったきり、押し黙った。

「理不尽な思いをぶつけて傷つけたリカルドを見ていたくなかったから、とびだした・・・」

 チラリとグレッグはカレブを見る。
 どうやら図星だったようだ。カレブはプイと顔をそむけ、視線を外した。

「手を、放せ」

「ああ、すまない」

 グレッグはカレブの頭に乗せたままだった手を、すっと引っ込めた。

「十が難しければ一でもいい。やってみてはどうだろうか」

 カレブは、それには答えず歩き出した。

「リフトを動かすんだろう。それとも無駄話するためにここに来たのか?」

「・・・行こうか」

 それ以上、グレッグはその事について触れなかった。
 まだ早かったか、と思ったのだ。もう少し時間をかけて話をした方がいいのかもしれない。
 死の恐怖に捕らわれていた忍者は、強張った心をとかすには時間がかかる事を知っていた。

 無言になった二人は足早に通路を歩き、目的の部屋へとたどり着いた。
 正面の壁にしつらえられた鉄製のレバーをおろすと、ガコンと重い音が響き渡ったる。
 第二回廊と、吹き抜けの真ん中にある監視塔をつなぐリフトが動き始めたのだ。

「よし、戻ろう」

 二人は頷きあうと、リカルド達が待ち、リフトが移動した第二回廊へと戻った。

 サラの治療をうけ、元気になったリカルドは既にリフトのところまで移動していた。
 真上からリフトの動くさまを見ていたらしいサラは、目をキラキラさせてカレブに話しかけた。

「ねえねえカレブ君! すごい仕掛けね!!」

「なんでもいちいち感動する女だな」

 カレブは呆れながら答えた。

「いいでしょう? 感動しないより、感動したほうが何倍も素敵だわ」

「わかった。わかったから。しばらく黙っていろ」

 カレブは適当にサラをあしらうと、リフトをふみしめ監視塔へと乗り込んだ。
 本当ならば昇降機を使って第四回廊へ行くのが一番手っ取り早い手段なのだが、その昇降機を起動させるスイッチが第四回廊にあるために、このような複雑な手順をふまねばならないらしい。

 監視塔は床のあちこちが痛み、階段が崩れ落ちていた。
 しかたなくカレブ達は飛び降りながら移動する。
 身軽なカレブとグレッグが先に飛び降り、サラとミシェルが降りるのを手伝った。

 サラに抱きつかれ、カレブはうんざりしたが、サラはカレブにしがみついたまま、ぴくりと身体を強張らせた。

「死の国の風のにおい・・・」

 サラの小さな囁きが、カレブの耳に飛び込んだ。

「不死者か?」

「なに」

 まだ上に残っていたリカルドが表情を険しくして飛び降りてくる。
 それと同時に、剣戟の音が響き渡った。

「第四回廊だな」

 グレッグが素早く移動を開始した。

「ドゥーハン兵かも知れない。行くぞ!」

 カレブはサラの手を握って最後の段差に身を躍らせた。
 サラの悲鳴がほとばしったが、無視する。

 剣戟の音がする方へと駆けると、少しばかり開けた空間へ出た。
 戦士や侍とおぼしき男達が、不死者の群れと戦っていた。
 彼らに守られるようにして、えんじ色の法衣をまとった女性が一人。

「ドゥーハン兵だ!」

 鎧にきざまれた紋章をよみとったリカルドが叫んだ。

 ドゥーハン兵達は、必死の形相でゾンビ達を蹴散らしている。
 どうやら度重なる戦闘に消耗しているらしく、動きが鈍い。

「ミシェルさん」

 カレブは背後の魔術師を振り返った。
 それだけでカレブの意図を正しく理解したミシェルは、頷くより早く杖を振りかざす。
 流れるように詠唱された魔法が、白金の嵐を巻き起こした。
 キラキラと目にもまぶしく輝く白金の氷刃が、ゾンビ達を引き裂く。

 短期決着。

 あまり戦う力の残っていないドゥーハン兵の身を案じた策だった。

「助かる、本当にありがとう」

 カレブは、クルドの魔法を放ったミシェルに微笑んだ。
 ミシェルは相変わらず穏やかな笑みを浮かべ、人差し指を唇に当てる。

 もう一度微笑もうとしたカレブの手が、びくんと動いた。
 いや、正確に言うとカレブが握り締めたままだったサラの右手が、だ。

 また文句を言うつもりかと思ったカレブだったが、そうではなかった。
 サラは、怯えていた。それも、酷く。
 カレブは、すっと表情を消した。

 コウッ、と死の風が吹き抜けたからだ。

 カレブは、視線をドゥーハン兵達の方へと戻した。
 ドゥーハン兵達も表情をこわばらせて前方を見つめている。

 リカルドとグレッグも、冷や汗を流しながら武器を抜き放っていた。
 サラがガクガクと震え始める。

 ゾンビ達が倒れ伏した床に黒い染みが広がっていた。
 染みは、ざわざわと波打ち始め、大きく歪む。

 隣の者の鼓動さえ聞こえそうな沈黙がその場を支配する。
 不可思議な現象に、誰もが目を奪われていた。

 場の緊張が最高潮に達した時、視覚が一瞬血の紅に染まった。

 同時に、床の染みから小柄な黒い影が音もなく飛び出す。
 身につけたぼろぼろのマントがばさりと広がり、死肉を漁る烏を連想させた。
 漆黒の頭巾に隠れ、顔はよく見えない。手には小柄な身体には不釣合いな長大な剣。一振りすれば、それは血煙を生み出すだろう。

 「死」を具現化すれば、このような形になるのかもしれない。

「なんだ、こいつは・・・」

 忍び寄る恐怖を振り払うかのようにリカルドが声を絞り出した。

「ぼくは・・・」

 カレブの口から、無意識に言葉が転がり出る。

「ぼくは、こいつを知っている。こいつは・・・」

 頭巾の奥で、青い炎が揺らめいた。