はあはあと荒い息遣いが、迷宮の中に響きわたった。

「くそっ・・・、迷宮の中が暖かいなんて思ったの、初めてだぜ・・・」

 ぐったりと壁にもたれながら、リカルドは濡れて重くなったマントを脱ぎ捨てた。
 いつもなら肌寒く感じる迷宮の空気が、今日はかすかに暖かく感じる。
 それほどに、吹雪に晒された身体は冷え切っていたのだ。

 体力を温存しながら歩いてきたつもりだったが、しばらく休憩しないと進めそうにない。
 カレブとグレッグも座って呼吸を整えていたし、崩れ落ちていたサラは、ブルブルと身体を震わせていた。

「大丈夫か、サラ。寒いのか」

 声をかけながら、リカルドは何かかけてやるものをさがした。
 だが、どれも濡れてしまっていて、これをかけてやったりすれば逆効果だ。

「あー、まいったな。みんな濡れてる」

 細い指が、ギュッとリカルドの腕をつかんだ。そこにこめられた力に驚き、リカルドは振り返る。サラは、青ざめた顔でうつむいていた。身体の震えがとまらない。

「サラ?」

 怪訝そうに、リカルドはサラの名を呼ぶ。
 異変に気づいたのか、カレブとグレッグ、そしてラディックがサラを見つめた。

「リ、リカルド」

 サラは、リカルドに抱きついた。

「ねえ、何か怖いよ。とても、怖い。みんなは、なんともないの?」

 ラディックの表情がほんの少し硬くなったのを、カレブは見逃さなかった。

「ぼくらが呼び出された事と関係が?」

 ラディックはゆっくりと、本当にゆっくりと振り返った。
 無表情を装った瞳の奥に揺れるのは、焦燥。
 迷宮の闇にそれは溶け、消えていく。

「そのご婦人が「死」の波動を感じて怯えているのなら、そうだ」

「死の、波動?」

 言葉を繰り返して、サラは思わず立ち上がった。

「そ、そうだわ。今ここに満ちている空気は、死の国を思わせる。どうして? 昨日来た時はこんな気配はしなかったのに・・・」

「死の波動・・・」

 グレッグは小さく呟き、宙を睨みつけた。
 つい先日まで自らを苦しめていたものが、重い空気となって両肩にのしかかっている。
 しかし、今のグレッグはよろめかなかった。死は、もはや彼を脅かす事は出来ない。

「答えが知りたければ、来い」

 ラディックは疲れた身体を翻し、迷宮の奥へと向かって歩き出した。
 カレブが軽やかに立ち上がり、リカルド達を見る。

「行くぞ」

 リカルドは、瞬きした。
 死の影が、そこかしこに満ちている。闇へと溶ける銀の髪。不思議と死の香りがカレブに馴染んでいるような・・・・・・・

 カレブは、行くぞ、と言った。
 何処へ? 迷宮の奥、王室管理室へだ。
 だが、彼女が、そこではない何処かへと向かっているようで、リカルドは不安になった。

 差し伸べた手が宙を泳ぐ。
 カレブは、先へと進んでいた。

「・・・・・・リカルド?」

 上から呼びかけられ、リカルドは立ち上がった。
 自分が不安そうな様子を見せれば、サラはますます怯えるだろう。
 怯えは、死を近づける。

「なんでもないさ」

 リカルドは人懐こい笑みでひとまずサラを安心させると、急いで先行した二人を追った。

 王室管理室の前で、ラディックはいったん振り返った。

「では、女王陛下とクイーンガード長の御前に案内する。くれぐれも失礼のないようにな」

 怯えと緊張でガチガチになったサラがギクシャクと頷く。

 ラディックは扉をノックすると名乗った。

「第十二騎士隊所属、ラディック=フォード! 任務を遂行し帰還致しました!」

「入れ」

 低いが良く通る声が、扉の向こうから聞こえた。
 ハッ! とうやうやしく答えたラディックが扉を開ける。

 ラディックのよこした合図と共に、カレブ達は王室管理室の中に入った。
 カレブの隣で、サラが安堵のため息をついた。
 ここには、死の香りはない。人のぬくもりがある。強く、優しい何かが満ちている。

 しかし、カレブはサラとは違う印象をもった。
 確かに、部屋はあたたかい。人の生活というものを感じる。この前来た時と同じに。
 だが、今日は違和感があった。何かが、調和しない。何かがこのぬくもりになじまない。

 カレブは密やかに顔をしかめると、そっと部屋の中を観察した。

 人形が居た。
 白いローブデコルテに身を包んだ大きな人形が。
 硝子の瞳で、静かにこちらを見ている。

 生でもない。死でもない。異質な存在。
 それが、部屋の調和を乱しているのだと悟る。
 優しさと愛に満ちたこの場所に、なじまないのだと。

 と、人形の口が動いた。

「任務ご苦労」

 魂のこもらない楽の音が響いた。
 それが、人形の発した声だと理解するのに数瞬の時が必要だった。
 カレブが、人形を凝視する。

 そのぶしつけな視線に気づいたのか、人形の隣にたっていた初老の男が、青いローブを翻した。バサリという大きな衣擦れの音に、ハッとカレブは我に返る。

「ラディックは下がり、通常の任務に戻れ」

 初老の男に敬礼をし、人形に深く頭をさげ、ラディックは退出した。
 初老の男は猛禽類を思わせる目で残った一行を見渡すと、手にしていた杖でカッと石床を叩いた。

「控えるが良い、下賎なる者よ。女王陛下の御前である!」


 女王陛下?
 この人形が?


 カレブはクスクスと笑い出した。

 ぎょっとしてリカルド達がカレブを見る。

 カレブは、腹をかかえて笑っていた。
 何故だか、おかしかった。腹立たしいまでに。

「お、おい、カレブ」

 男には聞こえないように、リカルドが呟き、カレブの手を掴む。

 しかし、カレブの笑いは止まらない。

 スッと男の猛禽の目が細くなった。
 マズイ、そう思ったリカルドは、慌てて叫んだ。

「す、すみません! こいつ、こういうのに慣れてなくて、いや、ほら、何しろ元はコソ泥だから・・・」

 言ってから、何のフォローにもなっていない事に気がついた。

「あの・・・、その・・・」

 グレッグは肩をすくめ、サラは呆れ顔だ。
 だったら、お前らがフォローしろと思ったが、今はそんな事を言っている場合ではない。

「長、その、こいつは」

 フォローの続きを言いかけて、リカルドは口をつぐんだ。

 初老の男、つまりクイーンガード長、レドゥア=アルムセイが笑みを浮かべていたからだ。

「この私の言葉を聞き流すとは、中々の気骨。・・・ふむ、それに・・・」

 面白い。

 続くその言葉は、発せられることはなかった。

 出来の悪い芝居じみた状況の中、人形・・・、女王は、ぴくりとも表情を変えなかった。