リカルドの身体からゆっくりと力が抜けたのを確認して、グレースはリカルドから離れた。握り締めたままのリカルドの拳は細かに震えていたが、それ以上カザを殴るつもりはないようだ。

 グレースは、倒れたままのカザに近づき、頬の傷に手をかざした。

「姫君」

 グレースの意図を察したカザが、恐縮した声を上げる。

 グレースの手のひらからやわらかな輝きが滲み出し、カザの両頬の傷を癒していった。

 傷が完全に癒え、グレースが離れると、カザは立ち上がり、うやうやしくグレースに頭を垂れた。

 一拍の間をおいて顔を上げたカザの野イチゴ色の瞳に映ったのは、翻ったグレースの白い手だった。

 小気味の良い音をたて、カザの頬が叩かれる。

 呆気に取られるカザを尻目に、きびすを返したグレースは同じようにリカルドの頬も叩いた。

 叩かれた男二人は、予想外のグレースの行動に言葉もない。

 グレースは美しい柳眉を吊り上げると、まずはリカルドを睨みつけた。

「リカルド」

 怖い声で名を呼ばれ、リカルドは姿勢を正した。

「不和は迷宮の探索や戦闘に影響を及ぼす、そう言ったのはあなたですね?」

「・・・ああ、言った」

 視線を落とし、苦々しくリカルドが呟く。射るように真っ直ぐなグレースの目を見返すことが出来ない。


「そのあなたが、理由も聞かずに仲間をなぐるとはどういう事ですか。あなたの行動は、カレンにのみ重きを置いた偏ったものです。あなたがいつも口にする信頼とは、そういった類のものなのですか」

 間違ったことをしたという自覚がある者に、打ち込まれた正論という名の矢は少々痛かった。薄闇の中をさまよった者の目を射る朝日の輝きがまぶしすぎるのと同じに。

 次にグレースはカザに向き直った。

「カザ、あなたは先のリカルドの言葉を受けて、心配の必要はないと答えましたね」

「はっ・・・」

 歯切れの悪い司教にかまう事無く、グレースは続ける。

「わたしは、あなたがカレンに害をなしたとは思いません。ですが、あなたの言葉はそう誤解されてもしかたのない含みがあります。あなたの心の内の全てを、今すぐに平らかにしろとは言いません。ですが、自らの行動を正しく仲間に伝える事も必要なのではありませんか?」

「申し訳ありません」

 再び頭を下げる司教を見て、グレースはやっと表情をゆるめた。

「指揮官が不在ゆえに、出すぎた真似をしました」

「お見事、白百合の姫」

 ミシェルが軽く手を叩く。

「さすがは、遠く王家の血を引く御方ね」

「月と地上ほどに遠い血です。そう名乗るのがはばかられるほどに」

 グレースはミシェルの台詞をさらりと受流した。

「今は、カレンです。傷を負った彼女を一人にはできないわ。道案内をお願いします、ミシェル、カザ」 

「こちらです」

 す、とカザが先に立って歩き出した。
 とりつくしまもないといったその様子に、リカルドが口をとがらせる。

「可愛くないヤツ」

 ぼそりと呟いたリカルドに、しかしミシェルが近づいて耳打ちした。

「ね、見て。戦士さん」

 リカルドは、ミシェルが指差す所に注目する。ミシェルが見て、と言ったのは、ずんずんと歩いていくカザの細長い耳だった。ナイフのようにしゅっととがったその耳の先端が、ほんのりと赤い。まるで、雲に夕焼けの一片がさしこんだかのようだ。

「彼ね、すごーく恥ずかしがっているのよ。可愛いでしょう?」

「ミシェルさんにかかったら、きっとグレーターデーモンでも可愛いんだろうなァ」

 なんとかいつもの調子を取り戻したリカルドに向かって、ミシェルは唇に人差し指を当てると、小首をかしげてお決まりのポーズをとってみせた。


 

 

 落ちる。落ちる。落ちていく。髪が、袖口が、肩から流れ出る朱の血が、翻る。
 空気の層を突き破って落下していくカレンは、しかし恐くはなかった。ぐんぐんと迫ってくる滝壷に、何故か恐怖を感じなかった。

 カザの即死の魔法によって、既にワイバーンは息絶えている。
 カレンは、己の肩に未だ食い込んでいた鋭い牙を抜くと、ワイバーンの身体を蹴って自ら滝壷に身を投げ出した。

 自由になったとたん、風がよりそってきた。風は、恐くない。むしろ、愛おしい。滝壷がせまってくる。清らかな青い水が見える。恐くない。そこには、彼女がいるはずだから。

 カレンの目には、はっきりと差し伸べられる細い両の腕が見えた。
 カレンはその腕に飛び込んだ。


 

 

 凍りついた青い瞳。泉に映せば尚一層にその青さが引き立つ。銀の輝きを放つ髪も、泉に映れば漣のように風に揺れる。

 こうして客観的に眺めれば、否が応でもあの男との血のつながりとやらを実感せざるをえなかった。口元がゆっくりと歪む。優しく微笑めば随分と愛らしいだろうに、浮かんだ笑みは自虐的で挑発的だった。

 初めて出会った「父」を思い出したのだ。

 育ての親によって引き合わされた実父は、自分と同じ銀の髪と青い瞳を持っていた。記憶の中の母は、金色の髪に青緑の瞳をしていたので、この色彩は父から譲り受けたことになる。吐き気がするくらいそっくりで、背筋がぞくりと寒くなった。引き継いだのは色彩だけで、顔立ちが似ていなかったのが唯一の救いだった。

 逢いたかったと抱き締められたが、何を今更という憎しみしか湧いてこなかった。

 実父はマディエ=アンソンという男爵で、銀の貴公子と称される美丈夫だった。国政に参加する資格を持つ貴族院の一員で、小剣の名手として知られている。若かりし頃はそれなりに浮名を流しもしたが、失った恋の一つが彼に火遊びをやめさせたのだという。

 そのなくした恋の忘れ形見が、成長した娘として突如目の前に現れた。
 彼は歓喜し、娘を男爵家に迎え入れた。こちらの予定通りとも知らず。

 彼は知っていただろうか。

 抱き締めた娘が、己を憎んでいる事を。

 彼は知っていただろうか。

 わたしもお逢いしたかったです、と答えた娘が、冷たく笑っていた事を。

 彼は知っていただろうか。

 腕の中で震える娘が、ほとばしる殺意を懸命にこらえていた事を。

「知るはずもなし、か」

 泉のほとりに咲いていた菫を折り取りながら呟く。

 何一つ気づかなかった哀れな「父」は、「辺境の寺院」で育った娘に貴婦人としての教養をつけさせるため、侍女見習として王室に上げた。

 それこそが、こちらの狙いだった。

 あの男は断じて父などではない。単なる女王への足がかりだ。その目的も果たした今、これ以上あの男を生かしておく理由は見つからないような気がした。

 母の悲しみをあの男の胸に刻んでやれば、さぞ小気味良い事だろう。

「お花、つんでいるの?」

 思考にそぐわない可愛らしい台詞が聞こえ、思わず手にしていた菫を取り落としそうになった。

 水面に、こちらを覗き込むエルフ娘の姿が映っていた。
 初めて出会ったときは赤いベールのついた僧服を身につけていた彼女だったが、今は自分と同じ濃紺の侍女の制服を身につけている。

「侍女頭様」

 見上げる形で振り向くと、ドゥーハンの女王の侍女頭、ソフィア僧侶は微笑んだ。

「カレン=アンソン、花摘みですか?」

「菫が、美しかったものですから」

 手にしていた菫を見せると、ソフィアは頷いた。

「本当! キレイね。冬の空に輝く星のよう。いえ、それともあなたの瞳のようと言うべきかしら」

「・・・・・・ありがとうございます」

 眩暈を感じながらも、カレンはなんとか礼を言う事に成功した。よくもまあ、こんな赤面ものの台詞を恥ずかしげもなく言えるものだ。

「相変わらずだな、ソフィは。見ろ、そこの娘が呆れているではないか」

 再び思いもかけぬところから声がして、カレンは緊張した。
 木陰から、するりとエルフの男が現れる。細身ではあったが、華奢という印象とは程遠く、無駄な肉のついていない身体は均整の取れた筋肉に覆われていた。鋭い瞳や身のこなしが、どことなく森に住まう狼を思わせる。

 紅い瞳は一瞬だけカレンの姿を映したが、すぐにソフィアへと向けられた。

「あら、あらあらあら、クルゥ、あなただって今、きっとカレンを驚かせてよ? 絶対だわ。だから、わたし、おあいこだと思うの」

「何を基準にして、あいこなんだ」

「わたしがカレンを呆れさせたのと、あなたがカレンを驚かせたのが」

「だから、それがどうしてあいこになるんだ」

 互いに愛称を呼び合いながら続くとりとめのない会話を聞きながら、カレンは男が何者であるかを知った。

 疾風のクルガン。火竜さえも一撃で倒すと噂される忍者だ。そして、ソフィアと同じクイーンガードの一人でもある。

 カレンは油断ならないな、と己を戒めた。

 この二人のエルフは、気配を感じさせなかった。こうもあっさりと懐に入られるとは、さすがは女王自慢のクイーンガードといったところだろうか。女王を護る盾にして剣。カレンの最大の「敵」だ。

「ああ、もうわかった。あいこでもなんでもいいから、さっさと終わらせろ。今、陛下の元には長しかいないんだぞ」

 ソフィアとクルガンの舌戦は、どうやらソフィアに軍配が上がったらしい。
 クルガンのむっすりとした不機嫌そうな顔が面白かったのか、ソフィアはクルガンの袖に掴まると、顔を寄せて楽しそうに笑った。

 クルガンの顔がわずかに紅くなる。赤面とまでいかなかったところは、さすがは忍者と褒めるべきなのだろうか。

「ソフィ!」

 しかし、クルガンは不覚をとったいうような表情でソフィアの名を叫んだ。ソフィアも潮時だと思ったのだろう。身体を離すと、カレンに向き直った。

「カレン、紹介するわ。この人は、クルガン。陛下のガードの一人よ。この間の挨拶の時は、任務で城を離れていたから、会うのは初めてでしょう?」

 今更紹介されるまでもなかったが、カレンは、スカートの裾をつまむと腰をかがめて挨拶をしてみせた。

「初めまして。カレンと申します」

 クルガンは、表情ひとつ動かさず、ただ頷いてのみみせる。

「クルゥ、こちらは、マディエ男爵のご令嬢のカレンさん。辺境の寺院で育たれたので、王都には明るくないの。今度、案内して差し上げてね。カレンさんは陛下付きの侍女として行儀見習をされているから、顔を合わせる機会も多いと思うの」

「マディエ男爵にご令嬢がいらしたとは、初耳だな」

 感情の消えた瞳が、カレンを見据える。

「妾腹でしたので」

 カレンも表情を変えず、淡い微笑を浮かべたまま、さらりと答えてやった。

「辺境の寺院とは? 辺境と言ってもいろいろあるが」

「西の果ての・・・、ハリスの国境付近の小寺院です。ミンストという名前なのですが、ご存じないでしょうね。司祭のグレイン様が、責任者でいらっしゃいます」

「ミンストね」

 覚えておこうとクルガンは、呟いた。

「寺院で育たれたとのことだが、ではあなたは僧侶か」

「いえ。わたしは僧ではありません。寺院は、学ぶ場所でした。わたしは司祭様方から学問をさずかり、神官戦士のみなさんからは剣術を学びました」

「剣術を」

 クルガンの表情は変わらなかったが、僅かに瞳に宿る輝きが鋭さを増した。穏やかな小鳥の鳴き声や、風が優しく梢をくすぐる音が、ひどく場違いな気がする。

 カレンはこの状況を楽しんでいた。腹のさぐりあいは嫌いではない。向こうがこちらの出自をさぐるのなら、こちらは相手の頭の回転の速さをさぐってやればいいだけだ。

 カレンは、つ、と視線を地面に落とすと言葉を続けた。

「今思えば、寺院にわたしを預けた母の遺言だったのかもしれません。わたしも最近父に出会って知ったのですが、父は小剣の名手だそうですね。わたしも、小剣の扱いを学んだのです」

「確かに、マディエ男爵は小剣の名手でいらっしゃる。それにその銀の髪、凍える青の瞳は、男爵と同じ」

「ありがとうございます」

「もっとも、あのお方の青は、澄んだ泉の青だがな」

 よく見ている。カレンは、顔をふせたまま口元を歪めて笑った。

「クルゥ」

 黙ってにこにこと話を聞いていたソフィアが、一瞬の沈黙の隙間に声を滑り込ませた。
「ねえ、ねえねえねえ、もしかしてだけど、あなた。まさか、カレンと交流を深めるどころか、カレンを尋問していて?」

 言いながら、ソフィアの細い指がクルガンの尻に伸びる。ソフィアは、そのままクルガンの尻をつねりあげた。

「こら、やめろ、ソフィ!」

 クルガンは、あわててソフィアの手を払いのける。もちろん、ごく優しい手つきでではあったが。

「俺は、陛下のガードだ。陛下の傍近くに寄る者は、まず何人たりとも疑ってかかるさ」

「ご賢明です」

 カレンがことさら丁寧に頭を下げると、クルガンはむっつりと押し黙った。

「まあ、まあまあまあ、なんて意地悪な人なんでしょう。ごめんなさいね、カレン。わたしが、きつーく言い聞かせておきますから」

 カレンは顔を上げると、青い瞳から一滴の涙を零して見せた。はっとソフィアが息を飲む。

「クルガン様がお疑いになるのも、いたしかたございません。わたし自身も、今自分に起こっている事が信じられないのですから」

「カレン?」

 ソフィアが、おずおずとカレンの肩に手を乗せた。カレンの細い華奢な肩は、小刻みに震えていた。

「わたしは、知らなかった。自分が男爵の娘だなんて。ただの、身寄りのない娘が寺院の慈悲にすがって生きているのだと思っていた。なのに、十五になったとたん亡くなった母の身の上を聞かされて、いないものだと思っていた父に引き合わされて・・・」

 再びこぼれ落ちる涙。

「母は、父に仕える侍女だったそうです。身分違いの恋をして、父を愛して、その愛ゆえに自ら身を引いて・・・」

 カレンは涙にうるんだ目で、ソフィアを、次いでクルガンを見つめると微笑を浮かべた。

「父に抱き締められたことも、今ここにこうしている事も、わたしにはまるで一夜の夢のようです。ここにいてはいけない、そんな気さえしてしまう」

 カレンの告白に、ソフィアは顔を曇らせた。気分を損ねたというわけではない。ソフィアの美しい顔には、不安と心細さに怯える少女を気遣う優しさと善良さがあった。

「寺院が恋しいのかしら」

 ソフィアの繊細な白磁の手が、カレンの銀の髪をなでる。そうですね、とカレンは頷いた。

「あの寺院は、わたしの故郷ですから」

「わかるわ、その気持ち」

 やわらかな笑みを浮かべて、ソフィアはカレンの瞳をのぞきこんだ。春の空のような瞳が、凍りついた瞳を優しく見つめる。

「わたしもね、「森からの客人」としてここに来たばかりの頃は、そりゃあ不安で悲しかったもの。癇癪をおこして、まだ姫でいらした陛下を、この泉に突き落としたりもしたわ」

 なんだか凄い台詞を聞いたような気がするが、カレンはなんとか沈黙を守った。

「知らない場所や、知らないものは怖いわよね。それは自然な感情だわ。恥じなくていいし、泣かなくてもいいの。「知らない」を少しずつなくしていけばいいだけなのよ」

「はい、侍女頭様」

 カレンは頬を染めて、頷いた。はたから見れば、それは麗しい光景だっただろう。

 クルガンは無言のままカレンに近づくと、頬に残っていた涙を拭った。クルガンの突然の行動に、ソフィアが嬉しそうに微笑む。

 しかし、次にクルガンの口から発せられた言葉は、なかなかに辛辣なものだった。

「俺は、ガードだからな。この涙も疑う」

 クルガンは、カレンの手をとるとそれを自分の顔の近くまで持ち上げた。カレンの手には、摘んだ菫が握られたままだった。

 くん、と菫のにおいを一嗅ぎして、クルガンは続ける。

「もしかしたら陛下に献上されるかもしれないこの菫に、毒があるのではないかと疑う」

「クルゥ!」

「信じることはお前がやるだろう。だから、疑うのは俺の役目だ」

 結局クルガンは、最後までカレンに笑顔をみせることなく立ち去った。
 遠ざかる背中に向かって、ソフィアは子供のように舌を突き出してみせる。

「ごめんなさいね。仕事に熱心なだけだと思ってもらえるとありがたいのだけれど」

「ええ。真面目なお方ですね」

「石頭なの」

 なかなか面白いものだと、こっそりカレンは心の中で呟いた。疾風のクルガンを石頭の一言で切り捨てる者はソフィアくらいしかいないだろう。

「なにも心配しなくていいのよ。あなたの出自は、クイーンガード長も確認されて問題ないとおっしゃったのだから」

「はい」

 そう、問題ないのだ。そうなるように仕向けたのだから当然だ。辺境の寺院ミンストは実在する。そして、そこの住人達には育て親によって念入りに偽の記憶がうえつけられていた。カレンがそこで育ったという痕跡も残してある。育て親の魔力は強大で、クイーンガード長といえど、ほどこされた魔術の尾をつかむことは難しいだろう。

「カレン」

 魔法の詠唱を耳にして、カレンは一瞬緊張した。だが、その詠唱がただの癒しの魔法だと知り、訝しげに眉を寄せる。

 ソフィアが、カレンの手を握り締めて、癒しの魔法を詠唱していた。

「侍女頭様、わたし、どこにも怪我は・・・」

 だが、言葉をみなまで言ういとまもなく、ソフィアの魔法は完成し、カレンの身体を温かく、優しく、豊かに包み込んだ。

 まじまじと己を見詰めるカレンに、ソフィアは片目をつむって見せた。

「確かに、身体はどこも傷ついていないわね。でも、心はどうかしら。癒しの魔法に心を癒す力がないのは知っているけれど、でも、癒しの魔法は優しい魔法よ。その優しさとぬくもりを感じて、愛しむことはできるでしょう?」

 そろそろ休憩時間も終りね、とソフィアは伸びをした。

「では、また後で会いましょうね、カレン=アンソン」

「あ」

 ふわりとスカートの裾をひるがえして、ソフィアは駆けていく。
 ソフィアの姿が完全に視界から消えるのを待って、カレンは長息した。

「無駄に魔力を消費して・・・、馬鹿な女」

 手にしていた菫を放り投げ、それを踏み潰す。可憐な愛らしい花は、すぐに泥にまみれ、無残な姿へと変じた。

「せいぜい、信じているがいい。この点に関しては、あの男のほうが正しかったと、死の間際に思えばいいさ」

 高慢に鼻を鳴らすカレンは気づいていなかった。冷たく凝っていた心が、ほんの少し、ごくわずかにだが、あたたかなぬくもりを得た事に。


 

 

 渦巻き泡立つ水と共に、カレンは彼女に抱き締められた。透明な水と、白い泡だけが満ちる世界は美しくて、とても彼女にふさわしい。嬉しくて、幸せで、でも苦しくて、複雑な思いに胸を揺さぶられながら、彼女の名を呼ぼうとする。

 だが、滝壷に飲まれたときには確かに覚えていた彼女の名前が出てこない。つい先ほどまで身近に感じていた過去が、あっという間に水に溶けていく。

 カレンのもどかしさをなだめるように、抱き締めていた腕がカレンの背をなでた。

”あせらなくて、いいのよ。あなたの魂は傷ついているのだから”

 確かに目の前にいるはずの彼女が見えない。抱き締めてくれる腕を感じるだけだ。

”でも、いつかきっと、思い出して。わたし、待っているから。決して負けずに、待っているから”

 彼女の手が触れると、ワイバーンに噛み破られた肩の傷が瞬時に癒えた。

”今は、これだけしか癒せない。あなたの魂まで癒せない。あなたの魂を癒してくれる人は、あそこにいるわ”

 すっと、白い指が持ち上げられた。見上げると、そこは淡い光の踊る水面だった。

”行きなさい、カレン”

 衝撃とともに、身体が浮き上がる。彼女をつれていこうと手をのばすが、カレンの指は水をつかむばかりであった。幾千もの泡をまとって、カレンは水面に向かって上昇した。

「落ち着いて、戦士さん! ここは癒しの魔法がとけた泉だから、心配しなくてもいいのよ」

「けどっ、時間が経ちすぎてる。いくら癒しの泉でも、こんなに息が続くはずない!」

「ダメです、リカルド。ああ、そんな鎧をつけたまま飛び込もうだなんて、無茶苦茶です」

 滝壷の縁で、今にも飛び込もうとするリカルドを、ミシェルとグレースが必死に押しとどめていた。

「だったら、脱げばいいんだろ!」

 リカルドが鎧の止め具に手をやったとたん、ごぼごぼと水音がして、水面に銀色の髪が現れた。

「カレン!」

 カレンは激しく咳き込み、何度か大きな呼吸をすると、くるりと振り返って三人を見つめた。


「ごめん、ドジふんだ」

「こっ、この馬鹿!」

 心配のあまり顔を青ざめさせていたリカルドは、全身の力をぬいて、くたくたと滝壷の縁にしゃがみこんだ。

「早くこっちにこい!」

 リカルドが差し伸べた腕に向かって、カレンは泳ぐ。三人に助けられながら滝壷からあがり、リカルドの胸へと倒れこんだ。

「冷めてえ!」

「・・・・・・ただいま」

 髪の先や袖口から水を滴らせ、リカルドまで濡らしながら、カレンは呟く。

「頼むから、これ以上俺の寿命を縮めてくれるなよ」

「うん。もう、傷は痛まないから」

 リカルドは、カレンの肩の傷が綺麗に消えているのを見て、背後で焚き火の守をしていたカザをふりかえった。

「フン」

 カザはそっぽを向くと、チロチロと燃える炎の中に、二つに折った枝をほうりこんだ。