水の香りがした。緊張した心を解きほぐすかのような優しい香りだ。雪につつまれたドゥーハンでは久しく感じる事のなかった、緑と土のまじったせせらぎの香り。

 耳を打つ心地よい音に頭をめぐらせれば、通路の脇を清水が滑るように流れている。
 流れにそって苔や羊歯が群生し、それはまるで濃い緑の敷物のようだ。所々にすっくと生える若木達が、軽やかに葉を揺らしていた。

 立っている場所が石畳の通路でなく、やわらかな土であれば、ここが迷宮だということを忘れていただろう。

「ここは」

 先頭にたっていたカレンは、思わず背後を振り返った。

「ここは、わたし達の故郷」

 笑みを消したミシェルが、かすかに憂いを帯びた表情で答えた。

「そして、エルフの罪の証」

「罪・・・?」

「あるいは、裏切りの」

 重ねられるのは不吉な言葉ばかりだ。
 エルフ達がどんな罪をおかし、何を裏切ったと言うのだろう。

「わたし達を迎え入れてくれた優しい森をこんな場所に引きずり込んでいながら、でもここに来ると、故郷にもどったという安らぎを覚える。・・・あさましいものね」

 ひらりと散った木の葉がミシェルの肩にふれ、迷宮の奥へと舞っていった。

「故郷・・・、つまりここは、調の森ですか?」

「そうです、姫君」

 グレースの問いに答えたのはカザだった。

「正確には、調の森の一部と迷宮が重なった場所と申し上げるべきでしょうか」

 その言葉に、リカルドとカレンも頷く。
 ここは、森というには無機質で、迷宮というには美しかったからだ。

「うわあ」

 螺旋になった通路の端に歩み寄り、下を見たカレンは目を見張った。
 流れ落ちる滝がこまかな飛沫をあげながら、虹をきらめかせている。

 急いで振り返って、リカルドとグレースを招きよせた。
 二人ともそれぞれに滝を見下ろし、感嘆の声をあげる。

「綺麗だなぁ。見てみろよ、カレン。あの滝壷の一番深い青いところ、お前の瞳みたいじゃないか?」

「ば、馬鹿っ、恥ずかしいこと言わないでよっ」

 リカルドの尻を蹴り上げるカレンに苦笑するかのように、飛沫の音が軽やかに響いた。

「そういえば、ジーンが教えてくれたわ。エルフ達の住まう森には美しい滝があって、それの流れ落ちる音がまるで楽の調のようだから調の森というのだと」

「へえ!」

 グレースの言葉に、カレンはリカルドへの第二撃をとりやめ、耳をそばだてた。

「聞こえるかしら、水の乙女達の演奏が」

 やってきたミシェルが微笑んだ。そこに、さきほどまでのかげりを帯びた表情はない。「罪」と「裏切り」の答えは、彼女の笑顔の向こう側だ。

「・・・うん、聞こえる」

「優美で清らかな音色ですね」

「わたし達も、大好きなの。ね、カザ」

 急に話をふられて、カザは驚いたようだ。
 戸惑ったように頷きながら、それでも瞳をわずかになごませる。

「ああ、好きだ。・・・好き、だった」

 忘れられるものか。共に過ごした年月を。彼女がいた水際を。幸せだった全てを。

「さて、行くか」

 トントンと剣の鞘で肩を叩きながらリカルドが言う。

 迷宮らしからぬ光景に思わず足を止めたが、ゆっくりしている時間はないのだ。
 下層への階段を探し、召喚の門たる血の渦があれば消滅させねばならない。定期的に異界から魔神を呼び出し続ける門を放置するわけにはいかないだろう。

 そして、捕らわれているという女王を捜す事も忘れてはならない。

 成すべきこと、解き明かさねばならぬ謎共に多いのだ。

「うん、行こう。でも、ここは案内人がいるから、少しは楽かな」

 短剣に手をやりながら、カレンがミシェルを見る。

「ええ、任せていただいて結構よ。道中楽しいお話も聞かせてあげるわ」

「え?」

「例えばあの滝壷にわたしが、カザを沈めた話とか」

「・・・ミシェルさん?」

 愛らしい口元に指を当て、ミシェルは首をかしげる。

「樹登りして、カザだけが降りられなくなった話とか」

「ミ、ミシェルッ!」

 顔を真っ赤にしたカザが怒鳴り声を上げた。

「他には、カザが薔薇をつもうとしてトゲで怪我して泣いた話とか」

「ミシェルッッ!」

 カザは慌てて、背後からミシェルの口をふさぐ。
 大人びた様子が消えて、歳相応の若者らしさが顔をのぞかせた。

 ミシェルは楽しそうに笑いながら、カザの手をどける。

「だって、あなたの泣き顔、かわいいんですもの」

「・・・最強の幼馴染だな」

 気の毒に、とリカルドがカザの肩をもんだ。
 カザは、否定できない自分に深々とためいきをついた。
 もちろん、カレンとグレースは笑い出さないように必死だった。

「と、とにかく、行こう。話は、おいおい聞くからさ」

 苦労して口の端をゆがめるだけにとどめながら、カレンは一行をうながした。

 滝の水音を背にしながら、五層の探索はすすんだ。四層のように構造が複雑な階層というわけではなかったが、似たような通路と部屋が続くため、ふとした拍子に自分がどこにいるかがわからなくなる。

 ミシェルが言うには、調の森が持っていた迷いの森としての一面が、この五層にも反映されているらしい。

 調の森は、下生えが道をふさぎ、枝が髪を引き、藪が視界を隠し、訪れるものを拒むのだという。必ずたどりつくのだという強固な意志をもった者のみが、森の奥まで行く事ができるのだ。

 行く者の足をつまずかせるかのように、するすると伸びてきた細い木の根が、ミシェルとカザに気づいたかのように動きを止めたのを見て、カレンはこの二人がいなければ、探索は数段困難を極めただろうと悟った。

 感謝しなければならない。調の森のエルフが二人も仲間にいてくれることを。

 だが、そんな森の木々とは異なり、何の遠慮もなく襲ってくるのが魔物達だった。

 不死者達は変わらぬ強さを見せつけ、異界の魔術師や僧侶が強力な魔術を浴びせてくる。中でもカレン達をてこずらせたのは、ヒュージスパイダーや、ジャイアントスピナーといった毒蜘蛛達だった。

 よほど五層の環境が彼らが生きるにふさわしいのか、その毒々しい色合いの身体を大きく成長させている。蜘蛛達は群れをなし、木陰や天井から、鋭いあぎとをきらめかせて現れた。

 動きを奪う粘着質な糸と、瞬時に体力を奪う毒霧を吐く蜘蛛達をいちいち剣では相手にしていられない。かといって、ミシェルやカザの魔法にばかり頼るわけにはいかない。魔力をいかに残すかが迷宮深部まで行く鍵になるからだ。

 カレンは、自ら積極的に動いた。防御をリカルドとグレースに預け、ミシェルとカザに補助を頼み、雷の魔法を操って毒蜘蛛達を灼き払った。だが、無傷というわけにはいかなかった。鋭く練られたとはいえ、カレンの操る雷は初等魔術であったからだ。数匹は雷から逃れ、カレン達に牙をむいた。

「数が多いな!」

 飛びかかる蜘蛛を剣で叩き落しながら、リカルドが叫ぶ。

「もしかしたら、巣に踏み込んじゃったのかも」

 生き残りの蜘蛛を掃討するために、魔法から直接攻撃に切り換えたカレンが応えた。

「不幸でしたね」

 にこり、とグレースが涼やかな笑みをうかべて剣を薙いだ。
 カレンもニヤリと笑って、糸を吐こうとしていた蜘蛛に手投げナイフを放つ。

「どっちが? とは聞かないでおくよ」

 そうして蜘蛛達と戦ううちに、カレン達はたどり着いた。
 美しい滝を背にした蜘蛛達の巣、その奥に渦まく紅の召喚の門に。

「なるほど、ユージン卿は賢いお方らしい」

 手にしたメイスを油断なく構えながら、カザが呟く。

「蜘蛛どもの巣の奥に門を開くとはな。天然の門兵というわけだ」

「グレース」

「わかっています」

 祝福の剣を握り締め、グレースは門を見据えた。この門はグレースにしか消せない。正確には、グレースの携えたユージンの剣でしか。

「よし、俺が道を作る」

 言うが早いか、野獣のように雄たけびを上げながら、リカルドが蜘蛛の群れに突きかかった。何の策もないその行動に軽く肩をすくめ、カレンが続く。

 二つの銀色のきらめきに、蜘蛛達の体は切り刻まれた。散らばった足と体液が、グレースの進む道となる。ミシェルが素早く眠りの魔法を詠唱し、蜘蛛達の次の攻撃を退けた。カザが小さく魔法の言葉を呟き、祝福の言霊をよぶ。言霊は優しくグレースを包み込んだ。

「お行きなさい、姫君」

「はい!」

 リカルドとカレンが作った道を、グレースは駆けた。

 血の渦の中心に横たわる首のない娘の死体は、銀糸の刺繍のローブを着ている。それはつまり、二層の門の贄となった娘より、彼女の位が高いということだ。当然、門から召喚される魔神の強さも、オークキングの比ではないのだろう。

「あなたの罪は、わたしの罪だから」

 グレースは最後の一歩を跳躍した。ユージンの罪に向かって、剣を振り上げる。

 しかし、それが振り下ろされる前に、ばさり、と不吉な羽音がした。黒い影が、召喚の門から飛び上がる。

 グレースは咄嗟に盾をかかげ、影の攻撃を防いだ。一瞬でも防御が遅れていたら、鞭の様な尾によって、グレースのあばらは叩き折られていただろう。

 攻撃を受け止めたグレースは空中でバランスを崩し、床に転がった。

「グレース!」

 カレンが素早くかけより、グレースを助け起こす。

「大丈夫、カザが護りの魔法をかけてくれたから」

 美しい顔は転がった拍子に埃で汚れてしまっていたが、幸いどこにも怪我はないようだ。

「やばいな・・・」

 カレンがそう呟く間にも、ワイバーンが急降下してくる。カレンは、グレースをかかえて、その場から飛び退った。

 蜘蛛の群れとワイバーン。一度に相手にするには、骨が折れる。
 だが、乗り切らねばならない。ここで骸をさらすわけにはいかないのだ。

「グレースは、もう一度門を。敵はわたしがなんとかする!」

 手投げナイフでワイバーンを牽制し、カレンは叫んだ。

「リカルド、しゃがんで!」

 有無を言わさぬ口調に、リカルドは腰をかがめた。もちろん、蜘蛛から目ははなさない。カレンは、リカルドの肩を台にすると宙へと飛んだ。真っ向からワイバーンに短剣を振るう。

 ワイバーンは虚をつかれたようだ。まさか、相手が空中戦を挑んでくるとは考えていなかったのだろう。

「フン、お前とのやりあい方は、”わかっている”」

 真一文字に走った短剣が、ワイバーンの目を切り裂いた。苦悶の絶叫がほとばしる。

「クルガン、今!」

 カレンは呼んだ。今この瞬間に、己の背後から攻撃をしかけるはずの仲間の名を。
 だが、その呼びかけに応える者はいなかった。

 思わず振り返り、確認する。青い目に映ったのは、凍りついたように己を見上げるリカルドだった。

「カレン!」

 ミシェルの警告は遅かった。カレンが我に返ったときには、手負いのワイバーンがキバの並んだ巨大な口を開けていた。重力に捕らわれたカレンに、それをかわす事はできなかった。

「くっ、あッ・・・」

 己の体重が全て肩にかかった。ギリギリとくいこむ牙がもたらす激痛に意識が遠のく。
 視力をなくしたワイバーンは、カレンをくわえたまま狂ったように羽ばたき、その場を飛び立った。

「ちくしょう!」

 リカルドは叫び、ワイバーンとカレンを追おうとした。

「姫君を危険にさらす気か!」

 カザがリカルドを一喝する。

「お前がその場を離れたら、姫君は蜘蛛に引き裂かれる」

 ぐぐっとリカルドの剣をもつ手に力がこもった。

「翼竜は私ににまかせればいい」

 言うが早いか、カザは身を翻しワイバーンを追った。

「くそっ、グレース、門を頼む!」

 リカルドに頷き、グレースは門に向かって剣を一閃した。今度こそ、祝福の剣は召喚の門を消滅せしめた。

「二人とも、下がって!」

 ミシェルの呼びかけに、リカルドとグレースは従った。蜘蛛達の追撃を避けながら、ミシェルの傍まで下がる。二人が己の魔法の射程外に出た瞬間、ミシェルは炎の魔法を解き放った。朱金の業火が残った蜘蛛と遺体を焼く。

「二人を助けなければ」

「よし、行こう」

 炎の向こうで次々と蜘蛛が息絶えるのを確認して、三人は駆け出した。

 カレンをくわえたワイバーンは、壁や天井に激突しながらも、部屋を抜け通路へと飛び出していた。

 カレンの血が落ち葉のように通路に散る。

 カザの口の端が持ち上がった。死を導く魔力の波動がカザの手に宿る。

「我らの森を、これ以上汚すな!」

 まっすぐに飛んだ死の波動が、ワイバーンの心臓を貫いた。
 ワイバーンは一瞬動きを止めると大きく翼をはためかせ、きりもみ状に螺旋の中心へと落ちていった。カレンをその牙にかけたまま。

 響き渡る水音。そして、静寂。

「カレン!!」

 一瞬の静けさを破ったのは、リカルドの叫び声だった。

 通路の端にカザの姿を見つけ、リカルドは足を止める。

「カザ、カレンは」

 嫌な予感がしていた。ここには、ワイバーンも、カレンの姿もない。
 立っているのは歳若いエルフの司教だけだ。

 カザは無言で、指し示した。

 リカルドは、息を飲んで通路の端へと駆け寄る。手すりを握って身をのりだし、カザの示した場所に目をやった。

 そこには、滝壷があった。

「カレン・・・?」

「翼竜は倒したぞ」

「カレン、は?」

 リカルドの呟きにこたえるかのように、滝壷の底からふわりと紅い物が浮かび上がってきた。

「血・・・?」

「あの娘は落ちた。息絶えた翼竜と共に」

 あの傷で、この高さから落ちたのであれば助からない。

 リカルドは咄嗟にカザの頬を殴り飛ばした。倒れたカザの胸倉を掴み上げ、反対の頬にも拳をふるう。それは、温厚なリカルドらしからぬ行為だった。

 やってきたグレースが悲鳴をあげ、ミシェルが息をのむ。

「やめて、リカルド、やめてください!」

 グレースに腕をつかまれ、抱きとめらて、やっとリカルドはカザを殴るのをやめた。
 カザは無言で口の端の血を拭い、リカルドを睨みつける。

 険悪で、重苦しい空気が、ゆっくりと辺りに広がった。