リカルドが、揺らめく青い炎を目だと認識した時には、それは既に動いていた。
 ぐっと上体を前へ倒し、滑るように床を移動してくる。

 一瞬で距離が詰まった。
 ふわりと禍々しい剣が持ち上げられる。

 リカルドはその唐突な動きに対応できなかった。
 呆然として振り上げられた剣を見つめる。

 残像を残して振り下ろされたそれは、リカルドの首を切断するかに思えた。
 だが。

 ガキィン!!

 パッと鮮やかに散った火花が、リカルドを現実に引き戻した。

 カレブがリカルドの前に走りこみ、剣を受け止めている。
 交差した短剣と剣がギシギシときしんだ。

「ぼさっとするなぁっ!」

 カレブは叫びながら、小柄な黒い影を蹴り飛ばした。
 その反動を利用して、自らも後ろに飛び退る。

 カレブに蹴り飛ばされた黒い影は、身体をくの字におりまげ吹き飛んだが、空中でバランスを取り戻すと、ふわりと軽やかに地に足をつけた。まるで体重を感じさせない。

「初見の魔物を見て戸惑うなんてな。新参者みたいなマネをしでかしちまったぜ」

 嫌な汗を拭いながら、リカルドは剣と盾を構えた。
 チラリと、背後のドゥーハン兵達を振り返る。

「おい、あんた達、ドゥーハンの兵だろ? ここは俺達が引き受ける。一旦、上層へ逃れたほうがいい」

 黒い影との距離を測りながら、リカルドは叫んだ。

「助太刀は感謝する。だが、退けはしない!」

 侍とおぼしきエルフの男が叫んだ。

「われらには、不死者掃討という使命が・・・!」

 その叫びに反応してか、黒い影が宙に飛び上がる。
 カレブが咄嗟にその動きを止めようと短剣を振るうが、先ほどのお返しとばかりに蹴りを放たれ、床に倒れこんでしまう。

「カレブ君!」

 怯えていたサラがハッとして、カレブに駆け寄った。

「大丈夫!?」

「出てくるな、下がっていろ」

「すぐ、治療を」

 カレブは勢いをつけて立ち上がると、ドゥーハン兵のただ中に降り立った影に向かっていった。

「いいから、下がれ! 守ってやる余裕なんてないぞ!」

 笑みが消えたその厳しい表情から、サラは今の言葉が真実だと知る。

「わ、わかった」

 ドキドキと心臓が高鳴った。
 よもやカレブの口からこのような台詞が飛び出すとは、思ってもいなかったのだ。
 爆炎のヴァーゴと戦った時にさえ、あれほどの余裕と自信を見せていたカレブだったのに。

 自分たちは今、とんでもない敵と相対しているのではなかろうか。
 ぎゅうっと心臓を握りつぶすような緊張が、サラを支配した。

 カレブが駆けつけると同時に、惨劇が終わる。
 ドゥーハン兵の首筋から、三日月のような孤を描いて鮮血が噴き出した。
 瞳から光が失せ、急速に命の気配が消えていく。

 アラベラとおぼしき女僧侶が悲鳴を上げた。

「デニス!」

 美しい声で名前を呼ばれても、倒れた兵士が答える事は二度とない。
 無事にこの場を切り抜けて、蘇生をほどこさない限りは。

 黒い影は、滴り落ちる血もそのままに、無造作に剣をかまえた。

「むうっ・・・」

 エルフの侍兵は、アラベラをかばうように立つと、刀を握りなおした。
 不死者を滅ぼす魔法の輝きが宿ってはいるが、黒い影の前ではなんとも頼りなく思えてしまう。

「タイガ、やめて!」

 アラベラが止めるのも聞かずに、タイガと呼ばれた侍兵は黒い影に斬りかかった。
 耳障りな音と共に鋼がぶつかり、両者は力をこめあう。

 その隙にカレブは音もなく、黒い影の背後に回りこんだ。
 短剣を振り上げ、一気に振り下ろす。

 短剣は、影が身にまとう黒いマントを引き裂くと、肩口に深々と突き刺さった。
 カレブはそれをグイとひねると、一気に引き抜く。
 血が流れ出ることはなかったが、ぐらりと黒い影はよろめいた。

「邪魔だてするな! これは我らの使命だ!」

 タイガが憤慨した声をあげる。
 負けじとカレブも言い返した。

「ここで散るのがあんた達の使命か。オティーリエ女王はそんな使命を与えるのか!?」

 叫びながらもカレブは短剣を振るう。少しでも相手に攻撃の隙を与えないために。
 黒い影は、最早タイガは眼中にないとばかりに、背後のカレブを振り返った。
 どうやら、カレブを当面の敵と認識したらしい。

 黒い影の動きに用心深く目をやりながら、グレッグがカレブの方へソロソロと近づく。
 リカルドもそれに続きながら、タイガに声をかけた。

「俺達はあんた達を援護するように、女王陛下から命令を受けた。ここを俺達に任せて退いても、あんた達が任務を失敗した事にはならないぜ」

 だが、なおもタイガは納得しない。

「しかし!」

「単純な計算だ! ぼく達は元気であんた達は傷ついてる。人数だってこっちの方が多い。どちらが生き残れる確率が高いか、わかるな?」

 黒い影の剣をかわしながら、カレブが叫んだ。
 額に浮いた汗が、きらりと光って宙に舞う。

「せめて、一太刀・・・!」

 タイガは前方で無残に転がるデニスの遺体に目をやった。
 それは、黒い影に踏みしだかれ、いびつにゆがんでいる。

「タイガ、駄目!」

 タイガの構えた刀が、ギラリと光った。

 見る間に刀の輝きが、清く澄んだものへと変化していく。
 侍達は手にした刀に己の魂を込め、「心」でもって敵を斬るのだ。
 それゆえに、侍の戦いは魂の戦いと言われている。

 気合い一閃、タイガは刀を振りぬいた。
 同じ間合いでリカルドが長剣を振れば、それは虚しく宙を凪ぐにとどまっただろう。
 しかし、タイガの刀は一挙にその長さが何倍にもなったかのごとくするすると伸び、黒い影を斬り裂いた。

 対峙するカレブを傷つけない、研ぎ澄まされた一撃だった。
 裂かれた黒いマントがの切れ端が、ヒラヒラと黒い蝶のように舞った。
 大きな傷が、ざっくりと身体に走っている。黒い影の肩が、揺れだした。

「や、やったのか」

 そう言いながらも、リカルドはかまえた剣をおろそうとはしなかった。
 本能で感じ取っていたのかもしれない。これはさらなる悪夢の序曲に過ぎぬ、と。

 そして、それは正しかった。

 笑っていたのだ。黒い影は。

「くっ」

 タイガが唇をかみ締め、うめいた。
 渾身の一撃が、なんの痛手もあたえなかったのだ。ゆるやかに、絶望が心身を包み込んでいく。

 黒い影は、カレブの短剣をさばきながら、空いた方の片腕を勢いよく振り上げた。
 その動きと同時に、風が巻き起こる。

 濃密な死の匂いに、サラは強烈な吐き気を覚えた。
 この場にいるすべての者が死者であるような・・・、そんな感覚に囚われてしまう。

「え・・・?」

 サラが呆然とつぶやくのも無理はなかった。
 死の風が吹き抜けると同時に、倒れたゾンビや、息絶えたデニスがムクリと起き上がったからだ。

 サラは、思わず、そばにいたミシェルにしがみついた。
 ミシェルは何も言わず、サラの肩を優しくたたく。

 だが、サラ以上に衝撃を受けたのは、タイガとアラベラの二人だった。

「デ、デニス・・・?」

 デニスは握り締めたままだった剣を、ユラリと持ち上げた。
 明確な殺意のもと、一気に間合いを詰める。

「デニス!」

 タイガが叫んで、その剣を止めた。
 デニスは表情を変えることなく、限界まで力をこめる。

「退け! 早く!!」

 タイガは、とうとう脳裏に撤退の二文字を思い浮かべた。
 一挙に数倍になった敵と戦える力が残っていない事は、明白であったから。

「・・・了解、した」

 低くつぶやき、うなずく。

「だが、せめてデニスだけは・・・!」

 タイガは一瞬、刀にこめた力をゆるめた。そのまま手首をかえし、デニスをよろめかせる。
 そして、グッと刀を突き出した。

 タイガの刀は、狙いたがわずすでに鼓動を止めていたデニスの心臓を貫いた。
 刀にこもっていた魔力が、そこからデニスの身体を灼く。

「・・・魂よ、安らかであれ」

 タイガが刀を引き抜くと、デニスはゆっくりと前のめりに倒れた。
 間髪いれず、その身体が炎に包まれる。

 ミシェルが放った、ザクレタの魔法だった。

「これで、彼が辱められる事はないわ」

 優しい声に、ほっとアラベラは気を緩めた。
 倒れそうになる彼女を、タイガが支える。

 二人は気づかなかった。燃え尽きるデニスの遺体を見つめるミシェルの目に、ほんのわずかではあったが羨望の光が踊っていたことに。

「後は、任せる。名も知らぬ冒険者よ」

 タイガはスッと頭を下げると、アラベラの手を引いて走り出した。

 黒い影は声も無く笑いながら、その様を見つめている。

「・・・死神」

 サラがつぶやいた。

「あれは、死神よ。わたし達に滅びを導くのだわ」

「死神ね」

 カレブは口元に皮肉な笑みを浮かべた。
 確かに、この黒い影をそう呼びたくなる気持ちはわかる。

 屍に偽りの命をあたえ、生者に死をもたらす存在。

 納得はしながらも、心が不思議と痛かった。
 笑みを消したカレブの隣に、リカルドが立つ。

「さあて、本番だ」

 リカルドの言葉どおり、戦いはこれから始まるのだ。