異世界ロマンティックラブコメディ







LOVE11 姫君の日常

 金魚の泳ぐ窓の向こうで、紺色の制服と帽子をきっちりと着込んだオットセイ車掌が手ビレをふる。

 異世界の姫君こと、王子さまの花嫁候補ゆかりは、慣れ親しんだホームから手を振り返した。

 蒸気のかわりに、シャボン玉を吐き出して虹色の汽車は去っていく。

 ゆかりは、くるりときびすを返すと、改札口へ向かった。

 階段を昇りきると、喧騒がゆかりを包み込む。駅の構内アナウンス、行きかう人々の喋り声、エレベーターや改札機の機械音。

 まったくもって、いつもどおりの風景だった。喋るオットセイだの、ドレス姿の姫君だの、魔法使いだのは一人もいない。

 振り返ってホームを見ても、そこに異世界の名残はなかった。

 あんなに鮮やかだった常若の都の風景が、現実の世界に帰って来たとたん、幻めいて思える。

 改札口を出て空を仰げば、広がるのは抜けるような夏の青空。まばゆい太陽の輝きが、ゆかりの目をやく。

「夢、だったのかなあ……」

 薄紫の空と、光り輝く目玉焼きを思い出しながらゆかりは呟いた。

 しかし、そよと吹き抜けた風が、ゆかりの鼻に甘い香りを届けた。

 ハッとして髪に手をやると、そこには確かな感触があった。

 そっと髪からそれを引き抜く。

 魔法使いがくれた虹色の花が、ゆかりに淡い光を投げかける。
 その輝きは、ゆかりが確かに常若の都に居たという証だった。

 ゆかりは目立ちすぎるそれを鞄にしまうと、自宅に向かって歩き始めた。

 さて、外泊の理由をどうしようかと考えながら。

「……ただいまぁ」

 おそるおそる玄関の扉を開けると、いい匂いが漂ってきた。

 香ばしく、そしてこくのあるこの香りは、母お得意のハヤシライスのルゥの香りだ。
 父の大好物で、日曜日の昼食にたびたび登場する。

「ゆかりちゃん、かえったのー?」

 キッチンから母の声が飛んできた。

「はーい! ただいま帰りましたー!」

 ゆかりは大急ぎでサンダルを脱ぐと、洗面所できちんと手を洗い、うがいをしてからキッチンへ向かった。

 チェックのスカーフで長い髪をまとめた母が、おたまを手にしたまま振り返る。

「おかえりなさい」

「ただいま、おかあさん」

「はい、さっそく味見」

 母は手際よく小皿にハヤシのルゥを入れるとゆかりに手渡した。料理好きの母のことだ、おそらく夕べから仕込んでいたにちがいない。

 甘さと酸味のバランスが程よく、牛肉とたまねぎの旨味が染み出たルゥは美味しかった。

「すっごく美味しい。きっとお父さんも大喜びだと思うな」

 ゆかりは、素直な感想を口にする。

「そう、じゃあこれでご機嫌が直るかな」

 くすりと、母はいたずらっぽく笑った。
 ゆかりは、恐る恐るたずねる。

「お父さん、機嫌悪いの?」

「そりゃあもう。瑞貴君とのデートだってだけでご機嫌ななめだったのに、ゆかりちゃんたら、急に外泊するんですもの」

「ご、ごめんなさい!」

 ゆかりは慌てて言い訳した。

「その、デートのあとにばったり安藤さんと会っちゃって。すっごく観たかった映画のレイトショーに誘われたの」

「あら、あなた瑞貴くんとも映画だったんでしょう?」

「そうだけど。安藤さんと約束してた子が急にダメになって、チケットがもったいないって言うから。わたしも観たい映画だったし」

 次々と滑り出る嘘に、ゆかりは密かに感心した。人間、切羽詰ればなんとか切り抜けられるものだ。

「ホラーよ、ホラー。瑞貴くんはホラーはダメだから、このチャンス逃したくなかったんだもん」

 はいはい、と母は笑う。

「まあ、ゆかりちゃんのことだから、めったな事はないと信用しているけれどね」

 ゆかりはこの時、自らの素行の良さに感謝した。

 同時に、信用してくれている母に申し訳ない気持ちになる。

 だが、真実は話せなかった。
 とても信じてもらえないだろう。

 異世界の王子さまの花嫁候補にされてました! なんて。

「で、楽しかった?」

「うん。調子にのってポップコーン食べ過ぎちゃった。太っちゃうかも……」

「なんだ、騒がしいな」

 廊下へ続く扉が開いて、父がひょっこり顔を出した。

「お父さん、ただいま!」

 ゆかりは、父になにかを言われる前に先手を打った。

「昨日は突然でごめんなさい。もうしないから、許してね」

 心から詫びて頭を下げる。

 娘を溺愛している父は、こうなると弱い。
 ひとつ咳払いすると、頷いた。

「ああ、わかった。もういいから、頭をあげなさい」

「ありがとう、お父さん大好き」

 でれっと父の目じりが下がる。

「お前、瑞貴くんにも同じ台詞を言ってるだろ」

 照れ隠しの父の一言が、鋭くゆかりの胸を射抜いた。

 瑞貴には、二度と好きだとは言えないのだ。

 これまで瑞貴と過ごした日々が脳裏を過ぎる。

 高校に入学して、間もなく付き合い始めた瑞貴。出席番号順に並んだ席がたまたま隣で、仲良くなって、気がついたらいつも二人でいた。告白をしあったことはないけれど、お互いに一番好きな人は、相手だと信じていたのに。

 クラスが変わっても一緒にいる努力をした。二人でいれば勉強だってはかどった。いつだって甘いお菓子を食べているような、そんな幸せな気持ちでいられたのに。

 まさか、まさか、自分にそっくりな男に瑞貴をとられるなんて、夢にも思っていなかった。
 瑞貴が自分から離れてしまう運命だなんて、想定していなかった。

「おい、ゆかり?」

 父の気遣わし気な声に、ゆかりは顔を上げた。

「どうした、何かあったのか。まさか瑞貴くんに」

「やだ、ちがうわよ、お父さん。ちょっと、おなかがすいただけ!」

 今日は人生で一番たくさん嘘をつく日かもしれない。

「じゃ、お昼にしましょうか」

「この匂いはハヤシだな」

 父がほくほくと、テーブルにつく。
 ゆかりがそれに続こうとした時、鞄の中から賑やかな音がした。瑞貴専用の着信メロディが鳴り響く。

 ――まさか。瑞貴くん……!?

 ゆかりは鞄の中から、もどかしく携帯電話を取り出した。

 もしかしたら、瑞貴が思い直してくれたのかもしれない。

 冗談だよ、と言ってくれるのかもしれない。

 淡い期待と共に液晶画面に目をやると、そこにはこうあった。

 オウジ着信、と。

 ……オウジ……、おうじ……、王、子?

 淡い期待も切なさも、全てが吹き飛ぶ三文字に、ゆかりは、ヘナヘナとその場に崩れ落ちた。


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