その日から、グレッグとキラは友達になった。約束をして、毎日路地で会った。
 グレッグはキラに案内されながら少しずつ地図を作りすすめた。キラの案内のおかげで、青竜区には随分詳しくなった。地図には、子供しか知らぬような様々な抜け道や、小さな発見が次々に書き込まれていった。

 また二人は街を歩くだけでなく、一緒に遊びもした。

 キラは見かけによらず本当にお転婆で、釣りもすれば、泥遊びもした。コボルドの子供を拾ってきて、グレッグを仰天させた事もあった。

 グレッグは、体験したひとつひとつを、夜、母に語って聞かせる。それがここのところの日課だった。

「お前は随分その子を気に入っているようね」

「うん、そうだね。妹がいたら、あんな感じかなと思って」

 くすりと母は笑う。

「お兄さんぶったお前の姿が目に浮かぶようだわ」

 グレッグは顔を赤くすると、ぷいと横を向いた。

「どれ、地図を見せてごらんなさい」

「いいけど・・・」

 少し拗ねた表情のまま、グレッグは手作りの地図を母に渡す。

「・・・よく作ってあるわ」

 母は随分と熱心にグレッグの地図を見ていた。
 なぜか、その顔がグレッグの心に残った。

 翌日、母はいつものとおり不在だった。
 いつまでこの街にいるのかな、とグレッグは思う。
 そして、出来るだけ長くここにいたいと思っている自分に気づき、苦笑した。
 これほど、母の「仕事場」にいたいと思ったのは初めてだった。

 それは、やはり。

「キラ」

 グレッグは、約束の場所に現れたキラに手を振って見せた。
 いつもならそれに答えてキラが駆け寄ってくるのだが、今日はどこかしら元気がないようだ。とぼとぼとこちらに歩いてくる。

「どうしたの? キラ」

「ちちさまが、怪我をしたの」

「それは、心配だね」

 グレッグはなぐさめるように、キラの肩を叩いた。

「酷い怪我なの?」

「足を、少しきっただけ。元気」

「ああ、よかった」

 ほっとグレッグは安堵した。

「おでしさんたちが言ってた。刀を盗みに来たどろぼうに、斬られたんだって」

「刀を!?」

 こくりとキラが頷く。

「ちちさまが以前からつくってらした、小刀がなくなったの・・・」

「キラの家に忍び入るなんて、よほど腕のたつ奴だな。あそこには、なまなかな事では侵入できない・・・」

 グレッグは、キラの家のつくりを思い出しながら呟いた。
 その言葉に、とうとう我慢できなくなったのか、キラの大きな瞳から涙が零れる。

「キラのせい。ちちさまが斬られたのも、刀が盗まれたのも。キラのせいなの・・・」

 くすりとグレッグは笑う。

「どうして。そんな事ないよ」

「キラのつくった抜け道を、どろぼうが使ったんだわ。グレッグも、知ってるでしょ?」

 確かに、知っていた。高い生垣の片隅につくられた小さな抜け道。
 この間キラに教えてもらって、冗談半分で地図にもかきこんだ。

「知ってるけど、大人にあそこは通れないよ。俺達みたいな子供か、大人でも小柄な女性とか・・・」

 己の言葉に、ゾクリと背筋が寒くなった。
 自分は今、恐ろしいことを口にしたのではないか。

 だが、グレッグは頭をふって、浮かびかけたその危険な考えを追い払った。

「父様は、怪我でねてらっしゃるのかい?」

「ううん。今日もお仕事。もう一度、小刀を鍛えるんだっておっしゃってた」

「じゃあ、父様の邪魔をしないように、遊びに行こう。キラ」

 わざと元気な声を出す。
 キラのためでもあるし、己自身のためでもあった。

 遠慮勝ちに頷くキラの手を引いて、グレッグは走り出した。
 まるで、何かから逃げ出すように。

 二人はいつものようにエンジュの街で遊んだが、どこか、心ここにあらずだった。

 夕方、キラと別れ宿に戻ると、珍しく母が先に戻っていた。

「母さん」

「お帰り、グレッグ」

 グレッグは、じっと母を見つめた。

「なに?」

「母さん、今度の仕事ってなんなの」

「人殺しよ」

 むっつりとグレッグは椅子に座る。

「それは、前に聞いた。誰を殺すの」

「きいて、どうするの」

 問いには、問いで答える。
 母のいつものやり口だ。

「わからない。でも、知らなきゃいけないような気がする」

「たぶん、あなたの想像どおりよ」

 顔色一つ変えずに、母はこたえた。
 グレッグは、全身の血が逆流するのを自覚した。

「それって、キラの・・・」

 声が震えている。自分の鼓動がうるさいほどだ。

「昨日、俺の地図見たよね。夕べはあの抜け道を通って、キラの屋敷に行ったのか!?」

「だったら、どうだと言うの」

 あくまで静かな母の声は、グレッグをさらに苛立たせた。

「なんで、キラの父さんなんだよ! どうしてあの人を殺さなきゃならないんだ!? なんで、俺の、友達の・・・!」

 ふ、と母は笑う。

「逆でしょう? グレッグ。わたしの仕事相手の娘と、お前が勝手に友達になっただけのこと」

 グレッグはよろめき、腰掛けた椅子からすべり落ちそうになった。
 気分が悪い。こみ上げる吐き気をがまんして、グレッグは母をにらみつけた。

「知ってたら、どうして・・・!」

「どうして、止めてくれなかったのか、と?」

 母は、容赦なくグレッグが飲み込んだ台詞を続けた。

「なるほど、あなたは、知らない娘の父が殺されるのならかまいはしないわけね」

 母の声が、遠くで聞こえる。
 耳鳴りが思考力を奪っていく。

「俺は・・・、俺は・・・」

 言葉が出てこないのが、悔しかった。
 反論できなければ、母の言葉を認める事になる。

「知りたいのなら教えましょう。これを聞いて、どうするかは、お前の自由。ただし、わたしの邪魔をするのなら、遠慮なく斬る」

 グレッグはゆっくり顔をあげると、感情の失せた目で母を見つめた。

「エンジュの一の刀鍛冶、イツキの刀を市場に出る前に略奪し、さらに彼を暗殺するのが今回の仕事」

 ”ちちさまの小刀が盗まれたの”

 キラの悲しそうな声がこだまする。
 キラのあの悲しみは、大好きな母がもたらしたのだ。

「それに、どんな意味が」

 打ちひしがれたグレッグの声が、母の耳を打った。
 しかし、彼女は表情を変えない。何故なら、彼女は忍びだから。
 たとえ哀れと思っても、その感情を殺してしまえる忍者であったから。

「意味ね・・・」

 母は、息子の麻痺した心に染み入るように、ゆっくりと語った。

「彼の死は、彼の刀の価値を高めるのよ」

 グレッグは、目を見開いて母を凝視した。
 少年の心には、それは納得しがたい理由だったのだ。

 母は小さくため息をついた。

「イツキが仕上げた刀は数あれど、名刀と呼ばれるのはその中の数振り。特にこの冬に鍛えられた刀は見事だったそうよ。いずれ、刀の歴史に名を刻むことになるかもしれないと噂されているわ」

「その刀を持っているのが、母さんの主ってわけ・・・?」

「賢いわね、お前は」

 くすりと母は笑う。

「キラの父さんが死ねば、それ以上の刀が造られる事はない。母さんの主の持つ刀が、最高傑作になるってわけだ!」

 ドン、とグレッグは力任せに机をなぐりつけた。

「そうね。そして、もう一つ。刀に魅入られた男が、その妄執のままに、妖刀を生み出すのを防ぐ事ができる」

 グレッグはぴたりと動きを止めた。

「よう、とう・・・?」

 ゆっくりと母の言葉をなぞる。
 小さな呟きは、不吉な響きをともなって、空気にとけていった。

「イツキは魂をかたむけすぎた。より強く、より鋭く。強すぎる想いは妄執となる。妄執は、刀に神気ではなく、妖気をもたらす」

「馬鹿、な」

 グレッグは信じられなかった。
 優しく笑ったあの男が、可愛らしいキラの”父様”が、妄執に支配されているなどと。

「問いには答えた。これが、全てよ」

 母は、何事もなかったかのようにグレッグに背を向けると、静かに部屋から出て行った。
 取り残されたグレッグは、呆然として頭を抱え込む。

 母と、キラと、キラの父と・・・、そして刀を鍛える火花とが、めまぐるしく脳裏を駆け巡った。

「確かめ、ないと・・・」

 グレッグは呟き、立ち上がる。

「母さんの言ったことを、確かめないと・・・」

 心を決めると、瞳に力が戻ってきた。
 母の言葉を確かなものにしなければ、前に進む事も、後ろに戻る事も出来ない。
 自分の未来を決するために、今は動かなければ。

 グレッグは、普段着を脱ぎ捨てると、宵闇に溶ける忍び装束を身につけた。深く呼吸をして気配を消し、滑らかな動作で歩き出す。

 母の忍びの仕事に衝撃を受け、それに立ち向かう為に、結局忍びの技を使う皮肉に口元を歪めながら。






 キラの屋敷には、槌が鋼を打つ音が響いていた。
 暗い闇を切り裂くかのように、高い音が一定の拍子で鳴り響く。

 昨夜の母の侵入のせいか、屋敷の周囲を弟子達が見回っているようだ。
 グレッグは、彼らの隙をぬって、闇から闇へと身を移し、ゆっくりと時間をかけて鍛冶場へと近づいていった。

 明り取りの窓から、そっと中の様子をうかがったグレッグは、一瞬我が目を疑った。

 鬼・・・!!

 すさまじい形相をした鬼が槌を振るっている。
 空気が渦巻きながら、打ち据えられる鋼に凝縮されていくのがわかった。
 その場にある全てが鋼に吸い取られていく。

 鬼の魂、執念、呼気、振動、影、光、空気、全てが・・・!

 窓の隙間から部屋の中に吸い込まれそうになり、グレッグはよろめく脚に力をこめた。
 刀に取り込まれるかのような錯覚が身体を支配し、グレッグはそのままそこから逃げ出した。

 鬼は、キラの父の顔をしていた。
 エンジュ一の刀鍛冶、イツキの顔を・・・・・・。

 宿へと逃げ戻ったグレッグは、そのまま寝台にもぐりこんだ。
 全てが夢であればいい。母の言葉も。この目に焼きついた鬼の顔も。

 しかし眠りはなかなかグレッグには訪れず、重苦しい時の海を泳ぐ事となった。
 やっとグレッグがまどろみ始めたのは、朝日が昇ってからだった。
 その朝、固かった桜のつぼみが、ようやっとほころび出そうとしていた。






 衝撃が心身を打ちのめしていたせいか、イツキの妖気に当てられたせいかはわからなかったが、疲れ果てたグレッグが目を覚ましたのは、その日の深夜になってからだった。

 暗闇の中立ち上がったグレッグは、喉がひどく渇いている事に気づき、寝台の横の棚におかれていた水差しをとると、そのまま直接水を飲んだ。

 キラがくんでくれた水は甘かったが、水差しに淀んでいた水はひどく苦かった。
 喉にはりつく舌をひきはがしてくれた事だけが、唯一の救いだ。

 部屋に人の気配はなかった。母は出かけているという事だ。
 闇に慣れた目が、ふと窓際の机に止まった。

 ほころびかけた桜の枝をさした花瓶を文鎮がわりに、一枚の紙が置かれている。

 ハッとしたグレッグは、机に駆け寄り紙を取り上げた。

 月明かりに、母のほっそりとした字が浮かび上がる。


 ”仕事を終えてきます。出立の準備をしておきなさい”


「母さん・・・!」

 グレッグは紙を握りつぶすと、駆け出した。

 母を止める事は不可能だ。己にその技量はない。それなら、せめて。せめて全てを見届けなければならない。

 エンジュの街を駆けながら、グレッグはキラと過ごした楽しい日々を懐かしんだ。二度とは戻らぬ早春の日々。キラの笑顔に、どれだけ心癒されてきた事か。

 だが、もう会えはしない。

 自分は、キラの仇の息子となるのだ。

 伝う涙もそのままに、グレッグは駆け続けた。

 キラの屋敷の間近に来て、グレッグはやっと速度をゆるめた。
 屋敷の周りには、微かな異臭が漂っていた。

「眠り草・・・」

 グレッグは呟き、頭巾の口覆いを引き上げた。
 どうやら母は、騒ぎを起こさぬように眠り草の粉末を焚いたらしい。

 どこか安堵する自分がいる。

 これならキラは、安らかな眠りの中、これから起こる悲劇を見ずにすむだろう。
 避けられぬ悲しみなら、少しでもその悲しみが浅いものであってほしい。

 グレッグは眠りをもたらす空気を深く吸い込まぬように気をつけて、屋敷へと侵入した。辺りに人の気配はない。母の目論見どおり、眠り草が効果を発揮しているようだ。

 しかし、深い妖気が鍛冶場から漂っていた。
 昨日の比ではない、奈落の暗闇を予感させる妖気!

 グレッグは、ともすれば震え上がりそうになる足を叱咤して、鍛冶場へと駆けた。
 もはや、気配を隠す必要はなかった。

 勢いよく扉を開けると、そこに、母がいた。

「母さん!」

 グレッグは、最悪の場合、母が仕事を終わらせているかもしれないと思っていた。
 息絶えたイツキを冷たく見下ろす母がここにいても、なんら不思議はないだろう。

 しかし、現実は違った。

 母は細い眉をわずかによせて、打ち下ろされた小刀を己の短刀で受け止めていた。すでに何度か刃を交えたのか、母の身体には数箇所の切り傷があり、血の紅が滲んでいた。

 グレッグは動揺した。母が傷を負うなど想像だにしていなかったのだ。今まで彼女が傷ついたところなど、見た事がない。

「母さん!」

 グレッグは再び母を呼んだが、母は反応しなかった。巧みな剣さばきで、次々に繰り出される刃を弾いていく。

 しかし、母に斬りつける刃は鋭く、疾かった。

 かわしきれなかった一太刀が、母の腕に新たな傷をつくる。

 グレッグは目を見張った。母の血を吸った小刀が、紅色に輝いたかと思うと、その刀身を伸ばしたのだ。

「は、は、は!」

 小刀を手にしていた男が、大きな笑い声をあげた。

「見よ、この神刀を! 刀を扱う技量をもたぬ私でもこのように戦う事ができる。そして、戦えば戦うほど、この刀は成長するのだ!」

 ほれぼれと血にそまった刀身を見つめるその男は、イツキだった。
 思慮深いあの瞳はどこに失せてしまったのか。そこにあるのは、ただの狂気だ。

「違う、ちがう、ちがう!! それは神刀なんかじゃない!」

 たまらなくなってグレッグは叫んだ。

「なにを言う!」

 イツキは母に背を向け、グレッグに向き直った。熟練の忍びを相手にするには、それは愚かな行動だった。母は当然その隙を見逃しはしなかった。イツキの太刀の間合いに入らぬ場所から、口早に魔法を詠唱する。

 解放の言葉と共に、母の手のひらから緋色の火球が飛び出した。回転しながら飛来した火球は、轟音をあげてイツキの背に炸裂する・・・かに見えた。

 イツキは常人とは思えぬ素早さで振り返ると、刀で火球を受け止めた。刀は大きく振動しながら火球の勢いを殺していく。

「小賢しいわ、鼠め!」

 母は間髪要れずに、イツキに斬りこんだ。放った一手が駄目になったからといって動揺するようでは忍びではない。

 だが、イツキはむしろ母と斬りあう事こそを望んでいたようだ。嬉しそうに顔を歪めると、侍もかくやと思われる動きで刀をふるう。

 動くことも出来ないグレッグをよそに、永遠とも思われる時間、二人は刃を振るい続けた。

 母の身体から血が流れる。少しずつではあったが、それは確実に母の体力を奪っていく。対してイツキは少しの疲れも見せない。目の輝きが恐ろしいほどだ。

 厳しい修行にたえてきたグレッグの目には、母の劣勢がはっきりと映っていた。
 信じられない事ではあったが、漆黒の瞳は真実のみを映す。

 母の足がずるりと滑った。

 床に落ちた己の血に足をとられたのだ。

「か・・・」

 イツキが刀を振り上げるのが、やけにゆっくりと映った。

「母さん!」

 グレッグは飛び出した。母を助けたい。心にはその一念しかなかった。
 走りながら短刀を引き抜き、そのままま上段へと振り上げる。

 綺羅と火花を飛ばして、グレッグの短刀はイツキの刀を受け止めた。
 しかし、そこに込められる想像以上の力に、グレッグは膝をついた。

 ギリギリと刀が下がってくる。

「グレッグ!」

 母が背後で叫んだ。

「下がりなさい、お前のかなう相手では!」

 ふっと短刀にかかる重みが消えた。支点を失い、グレッグの身体がよろめく。

「グレッグ!」

 銀の輝きが視界の隅を走った。

「小僧、お前の血でこの刀を完成させようぞ!」

 迫る刀に目を見開いたとたん、グイと腕をつかんで引っ張られた。
 肉を貫く鈍い音がして、紅の花が咲く。

「・・・・・・かあ、さん?」

 母の背から、刀が生えていた。
 切っ先から、ポタリポタリと血の玉がしたたり落ちる。

「心を、殺しなさい。それが、忍び」

 母の血を存分にすった刃は、再びその刀身をのばす。
 もはや大刀と呼んでも差し支えはないだろう。

「燃える、紅蓮で、妄執を・・・」

 イツキが刀を引き抜く。
 母の身体がゆっくりと倒れた。次の瞬間、母の身体は灰と化して消えうせる。またたきする間もなく、母はこの世からいなくなった。刀にやどった妖気が、母の全てを吸い尽くしたのだ。

 グレッグは、心がゆっくりと熱を失っていくのを感じた。否、違う。何も、感じない。感情が動かない。鏡面のような静けさが、心を支配する。

 イツキが刀をふりあげるのがわかった。
 グレッグは顔もあげずに、その斬撃をかわす。目で追わなくても、その動きを読み取ることが出来た。わずかな空気の振動が、グレッグにイツキの太刀筋を教える。

 連続的に振るわれる滅びの刃。狂気の一閃。その網目の僅かな隙間に、グレッグは短刀を叩き込んだ。

 ごぼりと血の泡がこぼれる。

 グレッグの短刀は、イツキの喉に深く、深く埋まっていた。

 驚きの表情に支配されたまま、イツキは倒れた。妖気と血に塗れた刀を握り締めたまま。

 グレッグは、肩で大きく息をして、倒れたイツキを見つめた。
 冷静に、その命が絶えた事を確認する。

 母を失った悲しみも、キラの父を手にかけた悔恨も、その心にはなかった。

 グレッグは、しばらくその場にたたずんでいたが、やがて、カタリと木戸の揺れる音に顔を上げた。

 小さな白い手が木戸を引いていた。開かれたそこから、風が入り込み、淀んでいた血の匂いを遠くへ追いやる。

「ちちさま・・・?」

 風と共に鍛冶場に入ってきたのは、キラだった。

 眠り草の利き目が切れたのか、言い知れない何かに引き寄せられたのか、ともかく、彼女は己の命運を決する場へと足を踏み入れてしまった。

 夜風に、キラのまっすぐな黒髪がサラサラと揺れる。
 キラは、倒れた父を目にするより先に、佇むグレッグに気がついた。

「グレッグ」

 愛らしい声に、グレッグはキラの方を向いた。

「キラ」

 キラは、この少年が好きだった。優しい彼を慕っていた。だから、彼がこの場にいる不思議を感じるよりもさきに、嬉しさに顔をほころばせた。

「キラ・・・、俺は、忍者なんだ」

 静かにグレッグは言葉を紡ぐ。

「姿を、見られるわけには、いかないんだ」

「え?」

 悲しい言葉だとキラは思った。駆け寄ろうとした瞬間、グレッグがゆっくりと腕を持ち上げる。薄い唇は、魔法の言葉を呟いていた。

 キラは、立ちすくんだ。何がおころうとしているのか、幼い彼女にはわからない。

「クレタ」

 紅蓮の火球が宙を舞う。グレッグのはなったクレタの魔法は、狙いたがわず鍛冶場の炉に炸裂した。途端に、火球は巨大な火柱となって、燃え上がった。

 キラの悲鳴をききながら、グレッグは鍛冶場から外に飛び出した。
 そのまま辺りに、油をまきちらす。

 やがて、炎がその場を支配した。

 鍛冶場、屋敷、イツキの遺体、妖刀、そして幼いキラも・・・・・・、全てを飲み込み、紅蓮は猛り狂う。炎は、屋敷のぐるりを囲む桜の樹にも飛び火した。

 ハラハラと舞う火の粉は、まるで宙を舞う桜の花びらのようだった。
 
 うたかたの桜花。

 グレッグは、見ることのかなわなかった桜に思いをはせ、そして、忍びとして生きる事を心に誓った。

 大切なものを失い、大好きだった少女に死をもたらした。

 ならば、己は心を殺す忍びとして生きていくしかないではないか。

 紅い桜花を目で追いながら、グレッグは呟いた。

「さよなら」





「キラ。私は母と君の死と共に、忍びとしての生き方を手に入れた。だが、死の恐怖はその生き方を奪った」

 宵闇に舞う雪の桜花を見つめ、今のグレッグが呟く。

「死によって忍びとなり、死によって忍びではなくなる。なんと皮肉で滑稽な事か。だが、キラ・・・。こんな日々は明日で終わりだ。私は恐怖に立ち向かおう。そして、再び忍びに戻ろう。闇に散るうたかたの桜花に誓って」

 くすりとグレッグは笑う。

「キラ。君は怒るかも知れないが、あの茶色の少年を見ていると、君を思い出すんだよ。なぜか君と彼が似ているような気がする」

 グレッグの言葉に答える愛らしい声はしない。それは、十四年前にグレッグの元から失われてしまった。

「再び忍びに戻れたら、君に会いに行こう。君が眠る、あの街へ」

 グレッグは知らない。

 青竜区で起こった火事を消す為に駆けつけたエンジュの貴族に、幼い少女が助けられた事を。

 衝撃のあまり言葉をなくした彼女が、その貴族の義妹として養われた事を。

 キラの名を忘れ、ヒナの名を得た彼女が、父の妖刀を手にした義兄を追って、遠くない未来に己と同じ迷宮に挑む事を。

 だが、それは別の物語り。

 今はただ、忍びとして生きる事を決意した男が、うたかたの桜花を見つめ続けるばかりであった。



TOPへ     前へ