酒場から出たグレックの視界を、桜花が埋めた。
 黒とも紺とも灰ともつかぬ、暗い空に舞う東の花。

 しかし、頬にふれた花弁は冷たく、それが雪だと知る。

 酔いが連れて来た、一瞬の幻だった。

 グレッグは無造作に頬をなでると、今日の寝屋へと急ぐ。

 定宿は持たない主義だった。
 忍者と言う職業柄か、ひとつところで寝るのは落ち着かないのだ。

 ましてやグレッグは、定まった主をもたない流れの忍者。
 その時々によって仕える主を変え、仕事を変える。
 主とのつきあいは、長くて半年。短ければ一日。
 めまぐるしく変化する環境についていけないようでは、流れの忍者はつとまらない。

 グレッグも、いつしか型にはまらぬ生き方が身に染み付いており、同じ場所で眠れないのはその反動だろう。

 ドゥーハンの街には、主のいない半壊した家屋がいくらでも転がっており、グレッグが寝屋にこまる事はなかった。迷宮に入る前にめぼしをつけておいた、比較的がっしりとした廃屋にもぐりこむ。元は大きな厩舎だったようだ。閃光の後もしばらく使われていたのか、飼い葉桶や、蹄鉄などが転がっていた。

 グレッグはゴロリと壁にもたれると、手甲をはずし、頭巾をとる。
 明り取りの小窓から入る冷たい風が、露になった髪をくすぐっていった。

 何気なく窓に目をやると、宵闇に舞う雪が見えた。
 それが再び雪ではなく桜花として映り、グレッグは瞳を細めた。

「・・・そういえば、あの日も桜が舞っていたな」

 小さく呟き、グレッグはうたかたの桜花を見つめ続ける。

 あの日も、今日のように決意を固めていた。
 十四年前、忍者として生きていくことを誓ったあの日も・・・・・・






 騎士の子が騎士を目指すように、侍の子が侍を目指すように、忍者の子だったグレッグは、自然と忍者を目指した。

 誰に強要されたわけでもない。
 流れの忍者だった母に手を引かれ、あちこちを旅しているうちに、自分もいずれ母のように・・・、そう思うようになったのだ。

 母は、特に息子に自分と同じ道を歩ませるつもりはなかった。
 自分の知識をさずけはしたが、それはあくまで、火のおこしかたや、飲み水の確保、薬草の見分け方といった「生きていく術」であり、忍者としての「戦う術」ではなかった。

 だが、息子は次第に自分の仕事に興味をしめし始めた。

「お前は、わたしの真似をするのが好きね」

 苦笑しながらそう言うと、利発そうな目をした息子は笑顔で答えた。

「母さんと、一緒がいい。いつでも、いつまでも」

 なんとも単純な理由で自分と同じ道を歩もうとする息子。
 それが、愛おしくもあり、不安でもあった。息子は知らないのだ。忍びの影を。

 母は戸惑いながらも、ねだられるままに息子に忍者としての基礎をしこんだ。

 息子は、厳しい忍者修行にも根をあげなかった。

 親の欲目を差し引いても、剣の上達、魔術の理解共に上々だったように思う。
 ただ、忍者として絶対必要な「心を殺す」という行為は、苦手なようだった。

 敵対すれば親でも殺せ、そう教えた夜、息子は一睡もしなかった。
 ごろりと大地にころがり、星をみながら、ぎゅっと唇をかみしめている。

「それが出来なければ、お前はわたしになれないわ」

 同じように隣に転がって、母は言った。
 視線を動かさず、息子は答える。

「・・・母さんは、俺も殺すの?」

「そうね」

 いつもと変わらぬ母の声が、息子の耳を打った。

「お前が敵となれば」

「・・・ふぅん」

「それが、お前の目指す忍者。わたしの生きている世界。大切なものを、捨て去る心の強さを持ちなさい。そして、捨て去るまでは守る心の強さを」

「・・・よく、わかんないや」

「わからないなら、それでもいい。その時は、お前は忍者ではなく、只の剣士となるのだから」

 ぷっと隣で息子がふくれるのがわかった。
 まだまだだな、と母は微笑み、そして、これでいいのかもしれないと思った。
 母は未だに忍者の「影」を息子にみせていなかった。




  時は流れ、天真爛漫な幼子も思慮深い少年へと成長した。

 吹き抜ける風が春の薫りをふくみはじめる中、やや大人びた表情になったグレッグが、変わらぬ姿の母と共に歩いている。

 二人はドゥーハンの東の外れにある街を目指していた。
 大通りの桜並木が有名な、東国の情緒あふれる街だ。
 立ち並ぶ建物もそのほとんどが東国風で、訪れる観光客の数も多い。

 だがしかし、二人の目的は観光ではなかった。

 母は何も言わなかったが、グレッグは、おそらく今度の母の仕事場がそこなのだろうと理解していた。

 今では、ぼんやりとだが、母の仕事がどういったものかもわかる。
 そして、心を殺さなければならないという母の教えも。
 それが出来ねば、とうていやり遂げることの出来ぬ仕事なのだ。
 しかし、それでも、母と同じでありたいという気持ちに、変わりはなかった。

「おいで、グレッグ」

 母の声に、グレッグはハッと顔をあげた。
 どうやら物思いに沈み込んでいたらしい。

 母はさっさと街に入る手続きをすませ、朱雀と名づけられた門の下で微笑んでいた。

「ごめん」

 物珍しそうに門を見上げながら、グレッグは母の傍に駆け寄った。

「わたしは出かけるから、宿についたらお前は街を見て回るといいわ」

「そう?」

 初めて訪れる街に興味はつきない。
 母の申し出はありがたかった。

 大きくもなく、小さくもないほどほどの宿に母は部屋をとった。
 桜のつぼみはまだかたく、観光客の姿は少ないため、宿をとるのも容易だったようだ。

 荷物をかたづけながらも、母は手早くグレッグに地図を広げて見せた。

 東西南北に大門があり、マスメ状に道が走っている。

「これが、エンジュの街。しばらく滞在するから、街の地図を頭にいれておきなさい」

 珍しいな、とグレッグは思った。

「大きな仕事なの?」

「そうね」

 何気ない問いに母は頷く。

「今度の仕事は何? 領主の私腹の調査? それともドゥーハンの情報を他国に売る?」

 今までの大きな仕事を思い出しながら、グレッグは挑戦的に母を見つめた。
 対して母は特に表情を動かす事もなく、さらりと答えた。

 人殺しよ、と。

 出かけるという母と別れ、グレッグは一人街をうろついた。
 物珍しさにわくわくと浮かれる心半分、母の言葉にぐるぐると思い悩む心半分という、なかなか複雑な心境で。

 これといった目的もなく東の大門、青竜門へと歩いていると、路地の影からコロリと手まりが転がってきた。
 綺麗な刺繍の小さな手まりは、中に鈴がしこまれているのか、チリンと小気味よく鳴った。

 まりを追って、少女の白い手が路地から現れる。

 ふわりと東国風の衣装がひるがえり、そのさまをグレッグは、蝶のようだな、と思った。

 転がる手まりを拾い上げてやると、大きな黒い瞳がじっとグレッグを見つめた。
 年の頃は四つか五つだろうか。長く伸ばした黒髪は背の中ほどでふっつりと切りそろえられており、愛らしい顔の横をまっすぐに流れている。丸い目や、小さな、しかしふくよかな唇が、なんだか小犬を連想させた。

「はい」

 手まりを渡すと、少女はぺこりと頭を下げた。

「綺麗なまりだね」

 嬉しそうに少女は微笑んだ。
 なんとも愛らしい表情だ。

「ははさまがくれた手まりなの」

 甘えるようなくすぐったい声がそう言った。

「へえ。優しい母様だね」

 ますます少女の笑みは深くなる。
 母に対する情愛が、優しくその表情を彩った。

 あまりにその様子が可愛らしくて、クスリとグレッグは笑う。

「俺も、母さんの事、好きなんだ」

「おんなじ」

 少女は子供特有の人懐っこさで、嬉しそうに両手を叩いた。
 少女はふわりとグレッグに近寄ると、視線を下から上へと走らせた。

 つられてグレッグも自分の身体を見下ろす。

 長旅に痛んだ衣服は、あちこちほころび、ほこりに汚れ、おせじにも綺麗とは言えなかった。

「服は同じじゃないな」

 グレッグの言葉に、少女は楽しそうに笑う。

「来て」

 少女はグレッグの手をとると、もと来た路地へと誘った。
 少女に手を引かれるままに、グレッグは細い路地を進む。

 いくらもいかないうちに、水音が聞こえた。
 かすかに苔むした石造りの共同の水場が姿を表す。

 龍を模した石像の口から、清らかな水が流れ落ち、心地よい音を響かせている。
 グレッグは急に喉の渇きを覚えた。

 少女は袖をまくりあげると、水場に置かれたひしゃくをとり、水を汲んだ。

「どうぞ」

 なみなみと水のはいったひしゃくを、零さないように注意しながらグレッグにわたす。

「ありがとう」

 思ってもいなかった親切にうれしくなり、グレッグはひしゃくをうけとった。
 ひしゃくの木の香りと、水のあまやかなにおいが心地いい。

 グレッグがゆっくりと水を飲むあいだ、少女は手布を水に浸し、グレッグの衣服の汚れをぬぐった。
 それだけで、随分と見栄えが変わる。

「これでおんなじ」

 少女はグレッグを満足そうに見上げた。

「・・・ありがとう」

 グレッグは二度目の礼を言いながら、あたたかい何かが心に広がっていくのを感じていた。
 一人街を彷徨っていたら、きっと薄暗い思考の海に溺れていたはずだ。

 ふいに現れた蝶がそれを救ってくれた。
 優しい羽をはばたかせ、溺れる少年をすくい上げたのだ。

 君の名前は・・・?

「キラ!」

 救い主の名を聞こうとした瞬間、路地の影から見知らぬ女性が姿を現した。
 いや、優しげな顔立ちはどことなく目の前の少女に似ている。
 それは、つまり。

「ははさま!」

 少女は嬉しそうに、女性の元へと駆けていった。

「まあ、まったく。いつまで遊んでいるの。早く帰っていらっしゃいってあれほど・・・」

 そこまで喋って女性はグレッグに気づいたのか、口をつぐんだ。
 グレッグはぺこりと女性に頭を下げる。

 女性も微笑んでグレッグに頭を下げると、少女の頭をぽんぽんと叩き、歩き出した。
 少女は女性にまとわり着くように歩きながら、グレッグの事を話しはじめる。

 グレッグは、幸せそうな母娘の姿が見えなくなるまで見送った。

「キラ、綺羅か・・・」

 女性が呼んだ少女の名前を、ゆっくりと口の中で転がす。
 それは、なかなか彼女に相応しい名前に思えた。

 その夜、用事をすませて戻った母は、グレッグが随分と穏やかな顔をしているのに気づいた。
 自分の放った言葉に傷ついていた様子だったのに。

 母はグレッグに近寄ると、ピンと額を弾いた。

「ご機嫌なようね、わたしの息子は」

「母さん」

 慕う瞳で見つめられ、やはりまだまだだと思う。

「街は、楽しかった?」

「うん。初めて見るものがたくさんで、面白かった」

 グレッグは変わった造りの建物や、街の通りの事を一生懸命母に話して聞かせた。
 母はその話を楽しくききながらも、息子にまとわりつく微かな「匂い」を感じて密かに眉を寄せた。

 それは、本当に微かな残り香であったが、まちがいなく「香」だった。この街の女達の装いにかかせぬものだ。

 そして、この香りは・・・

 母は、少しばかり運命の気まぐれというものを感じた。

 だが、そんな想いはおくびにも出さず、息子の話に相槌をうち、注意を与える。
 珍しく興奮した様子で息子は話を続けたが、ついぞ香の主の事がその口に上る事はなかった。

 つまりそれだけ大切にしたいのだろう。

 母は優しくグレッグの髪をなで、床につかせた。
 長旅に疲れた彼が眠りに落ちるのをまって、呟く。

「辛い想いをさせるかもしれないわね、グレッグ。・・・あなたは、その時、母さんを嫌うかしら」

 母は、強い忍者の精神で、心に浮かんだ憐憫を押し殺した。

 しかし、未来は、彼女でさえ予想のつかない結末を迎えるのだ。

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