酒場から出たグレックの視界を、桜花が埋めた。 黒とも紺とも灰ともつかぬ、暗い空に舞う東の花。 しかし、頬にふれた花弁は冷たく、それが雪だと知る。 酔いが連れて来た、一瞬の幻だった。 グレッグは無造作に頬をなでると、今日の寝屋へと急ぐ。 定宿は持たない主義だった。 ましてやグレッグは、定まった主をもたない流れの忍者。 グレッグも、いつしか型にはまらぬ生き方が身に染み付いており、同じ場所で眠れないのはその反動だろう。 ドゥーハンの街には、主のいない半壊した家屋がいくらでも転がっており、グレッグが寝屋にこまる事はなかった。迷宮に入る前にめぼしをつけておいた、比較的がっしりとした廃屋にもぐりこむ。元は大きな厩舎だったようだ。閃光の後もしばらく使われていたのか、飼い葉桶や、蹄鉄などが転がっていた。 グレッグはゴロリと壁にもたれると、手甲をはずし、頭巾をとる。 何気なく窓に目をやると、宵闇に舞う雪が見えた。 「・・・そういえば、あの日も桜が舞っていたな」 小さく呟き、グレッグはうたかたの桜花を見つめ続ける。 あの日も、今日のように決意を固めていた。 |
騎士の子が騎士を目指すように、侍の子が侍を目指すように、忍者の子だったグレッグは、自然と忍者を目指した。
誰に強要されたわけでもない。 母は、特に息子に自分と同じ道を歩ませるつもりはなかった。 だが、息子は次第に自分の仕事に興味をしめし始めた。 「お前は、わたしの真似をするのが好きね」 苦笑しながらそう言うと、利発そうな目をした息子は笑顔で答えた。 「母さんと、一緒がいい。いつでも、いつまでも」 なんとも単純な理由で自分と同じ道を歩もうとする息子。 母は戸惑いながらも、ねだられるままに息子に忍者としての基礎をしこんだ。 息子は、厳しい忍者修行にも根をあげなかった。 親の欲目を差し引いても、剣の上達、魔術の理解共に上々だったように思う。 敵対すれば親でも殺せ、そう教えた夜、息子は一睡もしなかった。 「それが出来なければ、お前はわたしになれないわ」 同じように隣に転がって、母は言った。 「・・・母さんは、俺も殺すの?」 「そうね」 いつもと変わらぬ母の声が、息子の耳を打った。 「お前が敵となれば」 「・・・ふぅん」 「それが、お前の目指す忍者。わたしの生きている世界。大切なものを、捨て去る心の強さを持ちなさい。そして、捨て去るまでは守る心の強さを」 「・・・よく、わかんないや」 「わからないなら、それでもいい。その時は、お前は忍者ではなく、只の剣士となるのだから」 ぷっと隣で息子がふくれるのがわかった。 |
時は流れ、天真爛漫な幼子も思慮深い少年へと成長した。
吹き抜ける風が春の薫りをふくみはじめる中、やや大人びた表情になったグレッグが、変わらぬ姿の母と共に歩いている。 二人はドゥーハンの東の外れにある街を目指していた。 だがしかし、二人の目的は観光ではなかった。 母は何も言わなかったが、グレッグは、おそらく今度の母の仕事場がそこなのだろうと理解していた。 「おいで、グレッグ」 母の声に、グレッグはハッと顔をあげた。 母はさっさと街に入る手続きをすませ、朱雀と名づけられた門の下で微笑んでいた。 「ごめん」 物珍しそうに門を見上げながら、グレッグは母の傍に駆け寄った。 「わたしは出かけるから、宿についたらお前は街を見て回るといいわ」 「そう?」 初めて訪れる街に興味はつきない。 大きくもなく、小さくもないほどほどの宿に母は部屋をとった。 荷物をかたづけながらも、母は手早くグレッグに地図を広げて見せた。 東西南北に大門があり、マスメ状に道が走っている。 「これが、エンジュの街。しばらく滞在するから、街の地図を頭にいれておきなさい」 珍しいな、とグレッグは思った。 「大きな仕事なの?」 「そうね」 何気ない問いに母は頷く。 「今度の仕事は何? 領主の私腹の調査? それともドゥーハンの情報を他国に売る?」 今までの大きな仕事を思い出しながら、グレッグは挑戦的に母を見つめた。 人殺しよ、と。 出かけるという母と別れ、グレッグは一人街をうろついた。 これといった目的もなく東の大門、青竜門へと歩いていると、路地の影からコロリと手まりが転がってきた。 まりを追って、少女の白い手が路地から現れる。 ふわりと東国風の衣装がひるがえり、そのさまをグレッグは、蝶のようだな、と思った。 転がる手まりを拾い上げてやると、大きな黒い瞳がじっとグレッグを見つめた。 「はい」 手まりを渡すと、少女はぺこりと頭を下げた。 「綺麗なまりだね」 嬉しそうに少女は微笑んだ。 「ははさまがくれた手まりなの」 甘えるようなくすぐったい声がそう言った。 「へえ。優しい母様だね」 ますます少女の笑みは深くなる。 あまりにその様子が可愛らしくて、クスリとグレッグは笑う。 「俺も、母さんの事、好きなんだ」 「おんなじ」 少女は子供特有の人懐っこさで、嬉しそうに両手を叩いた。 つられてグレッグも自分の身体を見下ろす。 長旅に痛んだ衣服は、あちこちほころび、ほこりに汚れ、おせじにも綺麗とは言えなかった。 「服は同じじゃないな」 グレッグの言葉に、少女は楽しそうに笑う。 「来て」 少女はグレッグの手をとると、もと来た路地へと誘った。 いくらもいかないうちに、水音が聞こえた。 龍を模した石像の口から、清らかな水が流れ落ち、心地よい音を響かせている。 少女は袖をまくりあげると、水場に置かれたひしゃくをとり、水を汲んだ。 「どうぞ」 なみなみと水のはいったひしゃくを、零さないように注意しながらグレッグにわたす。 「ありがとう」 思ってもいなかった親切にうれしくなり、グレッグはひしゃくをうけとった。 グレッグがゆっくりと水を飲むあいだ、少女は手布を水に浸し、グレッグの衣服の汚れをぬぐった。 「これでおんなじ」 少女はグレッグを満足そうに見上げた。 「・・・ありがとう」 グレッグは二度目の礼を言いながら、あたたかい何かが心に広がっていくのを感じていた。 ふいに現れた蝶がそれを救ってくれた。 君の名前は・・・? 「キラ!」 救い主の名を聞こうとした瞬間、路地の影から見知らぬ女性が姿を現した。 「ははさま!」 少女は嬉しそうに、女性の元へと駆けていった。 「まあ、まったく。いつまで遊んでいるの。早く帰っていらっしゃいってあれほど・・・」 そこまで喋って女性はグレッグに気づいたのか、口をつぐんだ。 女性も微笑んでグレッグに頭を下げると、少女の頭をぽんぽんと叩き、歩き出した。 グレッグは、幸せそうな母娘の姿が見えなくなるまで見送った。 「キラ、綺羅か・・・」 女性が呼んだ少女の名前を、ゆっくりと口の中で転がす。 その夜、用事をすませて戻った母は、グレッグが随分と穏やかな顔をしているのに気づいた。 母はグレッグに近寄ると、ピンと額を弾いた。 「ご機嫌なようね、わたしの息子は」 「母さん」 慕う瞳で見つめられ、やはりまだまだだと思う。 「街は、楽しかった?」 「うん。初めて見るものがたくさんで、面白かった」 グレッグは変わった造りの建物や、街の通りの事を一生懸命母に話して聞かせた。 それは、本当に微かな残り香であったが、まちがいなく「香」だった。この街の女達の装いにかかせぬものだ。 そして、この香りは・・・ 母は、少しばかり運命の気まぐれというものを感じた。 だが、そんな想いはおくびにも出さず、息子の話に相槌をうち、注意を与える。 つまりそれだけ大切にしたいのだろう。 母は優しくグレッグの髪をなで、床につかせた。 「辛い想いをさせるかもしれないわね、グレッグ。・・・あなたは、その時、母さんを嫌うかしら」 母は、強い忍者の精神で、心に浮かんだ憐憫を押し殺した。 しかし、未来は、彼女でさえ予想のつかない結末を迎えるのだ。 |