ドゥーハンの地下迷宮第三層には、地図が存在しない。 その事を、何故? と問えば、苦笑と共にこう答えが返って来るだろう。 意味がないから、存在しないのだ、と。 「入るたびに形がかわる・・・?」 「そう。だから地図を作っても無駄ってわけさ」 迷宮の不思議を語るリカルドに、カレブは怪訝な表情を浮かべた。 だが、かつての自分もそうだったと思い出した。 リカルドは、カレブの手をとり、グレースとミシェルに手招きをすると、降りてきたばかりの階段を駆け上った。 「ちょっと、ねえ、リカルド」 抗議するカレブに、リカルドは片目を瞑って見せると、再び階段を降りる。 「あ・・・!?」 カレブの口から、小さく驚きの声がもれた。 風景が、変わっていた。 先ほど階段を降りた時には、目の前に真っ直ぐな通路が伸びていたはずだ。 「こういう事さ」 キョロキョロと辺りを見回すカレブに、リカルドは言った。 カレブは嘆息すると、なるほど、と頷いた。 「この現象は、階段を降りた時だけ? 歩いている途中で形が変化するという事は?」 「それは、今のところないな。どうやら層と層をつなぐ階段の昇降が鍵となるらしい」 「他の冒険者が階段を降りたりしたら?」 カレブの鋭い質問に、利発だな、とリカルドは笑った。 「よく気づいた」 「ちゃかさないでよ」 唇をとがらせたカレブに、リカルドは肩をすくめてみせる。 「いやさ、俺はそこまで気がまわらなくてね。前のパーティで、形が変わる事をきいて、こんな風にそれを見せられて。ああそうかって、歩き出そうとしたら、口うるさい魔術師にさんざんなじられたのさ」 クスクスとミシェルが遠慮なく笑った。 「まあ、確かにそれは少々うかつだわ」 「あんたらしいよ」 「うるさい。それで、だ。実験してみたんだよ。パーティを二つに分けてな」 ミシェルの青緑の瞳が、興味深そうな光に彩られた。 「二層に上がる組と、残る組に分かれて試してみた。俺は残る組だったんだが、連中が階段を上っても、形は変わらなかったな」 「形が変わるという現象は、階段を昇降した者に働く、というわけね」 「そうだ。そしてこれは大事な事だ。もしパーティが分かれて階段を上ってしまったら、三層では会えなくなる可能性がある」 カレブは考えながら頷いた。 「それは、つまり、上がった組がもう一度階段を降りても、元いた三層につながるとは限らないという事か」 「何度か試してみたんだが、うまく三層で落ち合えたのは、十回のうち一回あるかなしかだった」 「とりあえず、皆一緒なら安心して歩けるようだね」 全員一緒でさえあれば、空間までもが敵になる訳ではないらしいと、カレブは安心した。敵が襲い掛かってくる魔物だけというのなら、対処はできる。それに、仲間と離ればなれになるようなヘマを踏むつもりもなかった。 「さて、それじゃ下層への階段を探すとするか」 この階層の経験者であるリカルドが先にたって歩き出し、それにカレブが続いた。 カレブは歩きながら、どこから見ても人工のものと思われる壁や床に、しげしげと視線を走らせた。 「閃光の影響なのよ」 そんな彼女に、ミシェルが話しかける。 「王宮を直撃した光球は、その膨大な力で時空ををゆがめてしまった」 「だから、ここに地下墓地が引きずり込まれていたりするのでしょう?」 「そうよ。ここもその影響によるもの。閃光の時失われた場所が、夢とうつつの狭間でつながる」 一体どれほどの力なのか。 カレブのその疑問に答えるかのように、ミシェルは続けた。 「この街がこうやってかろうじて存在しているのは、クイーンガード長の護りの魔力によるもの、と言われているわね」 「クイーンガード長の・・・」 スッとミシェルの手がのび、カレブの口元をつついた。 「どうしたのかしら? 嬉しそうよ?」 「え?」 カレブは慌てて口元に手を当てた。 ふ、とミシェルは謎めいた笑みを浮かべると、口を閉ざした。 「・・・あの」 その一瞬の沈黙に、グレースの緊張した声が滑り込んだ。 立ち止まった全員に見つめられ、グレースはわずかにうつむく。 「話をしても、かまいませんか」 カレブは、辺りに魔物の気配がない事を確かめると、頷いた。 「うん、いいよ。階段を探す前に少し休憩するとしよう」 壁にもたれ、視線はグレースから外す。 第二層で召喚の門を消し去り、泣き崩れたグレースは、事情を説明するまで少し時間がほしいと言った。 かき乱れた心のままでは、話をする心境にはなれなかったのだ。 グレースは顔をふせると、まるでなにかのまじないのように、腰の剣にふれた。 「わたしは、人を捜しています」 そのことは知っていた。初めてグレースと出会った時に、グレース自身からそう聞いている。あの時彼女はそこで口をつぐんだが、今回は続きが語られた。 「わたしの婚約者・・・、ユージン=ギュスターム公を」 リカルドは、顎を何度もなでながら頷いた。 白百合の美姫の二つ名を持つ深窓の令嬢が、全てをなげうって迷宮にもぐる理由は、それ以外に考えつかなかったからだ。 わからないのは、なぜ、王位継承権をもつ公爵が、迷宮にいるのか、という事だった。 だが、実際はどうだ。 家を失い、職を失ったものへの保障は? 飢餓や疫病の対策は? 各都市の再建は? なのに女王はそれらを省みようともしない。 とうとうこんな噂まで流れ始める始末だ。 女王は、迷宮深部に眠る、いかな望みも叶えるという魔神の秘宝を求めているのだ、と。 確かにそのような代物があるのなら、一瞬で国は復興するのかもしれない。
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なんとか修理を施した屋敷は、身を凍えさせる冷気が漂っていた。 時はとうに真夜中で、辺りに人の気配はない。それがいっそう寒さを際立たせているようだ。 寝付くことができなかったグレースは、寝台からそっと抜け出すと、しぼっていたランプの明かりを大きくした。 ゆらめく光が、石壁にグレースの影を躍らせる。 影はゆっくりと両手を組み合わせると、頭をたれた。 何の祈りを捧げたのか。国の未来。人々の平安。つらつらと思い浮かぶまま、とにかく光明を願い、祈り続けた。 祈りの最中、意識の片隅に婚約者のことが浮きあがる。 どうか、とグレースは祈る。 どうか、今度の謁見は、実りあるものでありますように、と。 グレースが祈りを終えて頭をあげた瞬間、コトリと小さな音をたてて、扉が開いた。 わだかまった闇の中から、よく見知った男が、見知らぬ表情を浮かべ、現れる。 「ま、あ・・・、ジーン」 今しがた脳裏に描いたばかりの婚約者の登場に、グレースは小さく驚きの声をもらした。 「どうなさったの? 今ごろ聖都では」 だが、ユージンは答えない。 疑問が風に舞う木の葉のように、くるくると駆け巡る。 「傍に。私の白百合」 命令する事になれた声が、冷たい空気に溶た。 夜着にガウンを羽織っただけの姿だという事も忘れ、グレースは差し伸べられた腕にひきよせられるように、ユージンの間近へと歩み寄る。 とたん、強くかき抱かれ、グレースは戸惑った。 「ジーン・・・?」 グレースの細い指が、ユージンの頬をなでた。 「美しくなった。出逢った時は、いとけない少女であったのに」 グレースの戸惑いはますます深まった。 「陛下は、すこやかであらせられましたか」 「ああ、おかわりにならぬ」 つづけようとした言葉は、口づけで封じられた。 「聖都で、なにか・・・?」 ユージンはかすかに笑みを浮かべると、首をふってグレースの言葉を否定した。 「ただ、姫に会いたくなったのだ。あたたかいあなたの腕で、身を休めたくなった」 頬を薔薇色に染めるグレースに、ユージンは朗らかに笑った。 「今宵はこうして、あなたと共に時を過ごしたいのだよ」 愛する男にそう言われて、首を横に振れる女がどれだけいるだろう。 流れる曲とてなく、見る人とてないのが悔やまれるような、そんな優美な踊りだった。衣擦れの音と、二人の押さえた息遣いが、静けさの中に響く。 国の大事の折にいけない、とは思いつつも、グレースの心は深い喜びを感じた。閃光以来ユージンとこうした時間を持つ機会がなかったからだ。 ユージンは、国の復興のため尽力していた。己の領地内はもちろんの事、直属の騎士隊を派遣して辺境の村々に援助をほどこし、街再建の為の職人を集め・・・。そうやってまとめた再建案を携え、聖都と領地を行き来する日々。 だが、女王に彼の心は届かなかった。 閃光前までは、「ジーン坊や」「リーエ姉上」と互いに親しみあい、助け合っていた二人であったのに。 笑みを浮かべながらも、その瞳が哀しくて、グレースはユージンの手を強く握った。 無音の舞踏は二人の息が切れるまで続いた。どちらからともなく、クスクスと笑いあい、倒れるように椅子に座り込む。 テーブルの上で手を重ね、互いの瞳に互いの姿を映しながら、他愛のないお喋りが始まった。 初めて出逢った時のこと、二人でリスの家を探した事、避暑に訪れた山荘での日々、共に剣の修行に励んだ事、思い出はつきない。 「ジーン」 愛おしくユージンの名を口にして、グレースは微笑んだ。 「あなたと共に生きていけることを、わたしは神に感謝しています。これからも、こうやって・・・、思い出を積み重ねていきましょう」 重ねたユージンの手が、一瞬ぴくりと動いた。 「ジーン?」 微笑んでいるユージンの瞳が、何故か哀しい。 「私は、未来の礎となろう・・・。あなたが住まう未来を護ろう」 呟かれた言葉の真の意味が、この時はわからなかった。ただ、言葉どおりに受け止めて、感動しただけだ。騎士の中の騎士が婚約者である事を誇りに思い、また、こみあげる愛おしさに突き動かされ、ユージンを抱き締めた。 ユージンは無言で白百合を抱き締め返し、唇を重ねた。 |
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「翌朝起きたとき、あの人は消えていました。代わりにあったのは、この剣」 グレースの腰にある祝福の剣は、ユージンが騎士の称号を得た時に、オティーリエよりつかわされたものだった。 その大切な剣が置かれていたことに、グレースは不審を感じた。 北の領地へと帰ったユージンは、グレースの家に使者を出し、婚約破棄を申し出たのだ。 「婚約、破棄・・・? そんな話は初耳だ!」 リカルドが、信じられないとばかりに叫ぶ。 「そうでしょうね。何かの間違いと、父は必死に隠そうとしていましたから」 だが、誰よりも信じられなかったのは、グレース本人であろう。さらに、その混乱に拍車をかけるように、ユージンは姿をくらました。ギュスターム家に保管を依頼された書物を手に。 「白騎士隊の精鋭も、ジーンと共に姿を消しました。そして、わたしは思い至ったのです。彼が、何をしようとしているかを・・・」 「それは、つまり、反乱かしら」 容赦のない真実を、ミシェルが口にする。 「そう、です・・・」 「ユージン卿は、女王陛下を見限ったという事ね。国の未来をまかせるに足りぬ人だと」 「ミシェルさん」 思わずカレブが袖をひいて止めるほどに、ミシェルの言葉は苛烈だった。 「でも、どうやって反乱を? そんな話、噂にものぼっちゃいないぜ」 グレースを気遣いながらも、リカルドは問わずにいられなかった。 「ジーンと共にある手勢では、とても王家の兵と渡り合う事はできません。数を減らしたとはいえ、王家の兵は優秀です。そして、その事も彼はよく知っているでしょう」 グレースの手が小刻みに震えていた。続く言葉は、彼女にとって辛いものなのだろう。 「彼は、その不足を補うために、あの書物を手にしたのです」 「あの書物・・・?」 憂いを秘めた目が、そっと伏せられた。 「召喚の書。北の地に現れた翼竜を呼び寄せた魔本です。クイーンガードによって翼竜が退治された後、その本はギュスターム家に管理を依頼されていました」 カレブとリカルドは言葉をなくした。 「なるほど。それで、あなたがここにいるのね、白百合の姫。ユージン卿が異界とつながりを持ちやすい迷宮にいると踏んで」 冷静なミシェルの言葉に、グレースは頷く。 「わたしは、あの人を愛しているといいながら、その心の闇に気づかなかった・・・! あの人の苦しみと悲しみを、爪の先ほども理解していなかった! あの最後の夜に、わたしがもっとしっかりしていたら・・・!」 迷宮を彷徨いながら、それでも心のどこかで、嘘であればいいと思っていた。 「あの人が開いた門だからこそ、あの人の剣で門は消えたのです・・・」 納得したとリカルドは頷いた。苦く辛い、納得ではあったが。 「グレース」 カレブに呼びかけられ、グレースは顔を上げた。 カレブはグレースに近寄るとその手を両手で包み込んだ。 「では、これはあなたの依頼だ」 「え・・・?」 銀の髪の盗賊が微笑んでいた。 「止めよう、ユージン卿の反乱を。そして正しく陛下の御世を護ろう」 「カレブ・・・?」 ふふっとカレブは笑う。 「柄じゃないのは、わかってる。でも、どうせこれからもこの迷宮を彷徨う事になるんだ。絶対会える。絶対止められる。あなたがあきらめない限りは」 グレースはまじまじとカレブを見つめた。 「あ、あきらめません。わたしは、ジーンをうしなって生きてはいけない」 「引き受けた。リカルド、ミシェルさん、かまわないよね?」 もちろんリカルドに異論があるはずはなく、ミシェルも反対はしなかった。 「ありがとう・・・」 再び涙を浮かべる白百合の肩をカレブが叩く。 「行こう。しなくちゃいけない事が増えた。その為にも、進まなくちゃ」 それぞれを絡め取る運命の糸は複雑にもつれ、一つになろうとしていた。 |