その朝、ドゥーハンを包んでいた雪は、久々に小降りとなった。
人々は、白い闇の閉塞感からひととき解放され、安堵にほっと胸をなでおろしている事だろう。 クイーンガード長、レドゥア=アルムセイは、窓からドゥーハンの街を見下ろし、そう思った。 ややあって、人々は屋根の雪をおろしはじめた。 この数ヶ月の間、降雪量が少なくなるたびに聖都で見られる光景だった。 「日常、か」 ふ、とレドゥアは皮肉に笑った。 「主なくとも、人は生きていけるのだな。だが、ガードは・・・、私は、守るべき主をなくしては、生きてはいけぬ」 なんと弱気な台詞なのか。 「動揺しているらしい、この私が」 レドゥアのかたわらに、女王の姿はない。 つかんでいた窓枠が、ミシリ、と嫌な音をたててきしんだ。 「一体何者の仕業なのか。我が魔術の網を潜りぬけ、あれを連れ去るなどと・・・!」 レドゥアのこの言葉を聞いた者は、驚きのあまり声をなくすに違いない。 女王がさらわれたというのだ。 レドゥアは大きく息を吐き出し、激情をおさめると、ついと視線を動かして床に散った灰を見つめた。 バサリと投げ出された服の間から零れた灰。よくよく見ると、人が倒れたような形をしている。 それは、女王の身の回りの世話をしていた女官の、変わり果てた姿だった。 女王を連れ去った何者かは、女官に一切の悲鳴を上げさせず、一瞬でその生命を奪い取ったのだ。いや、生も、精も一滴残らず吸い尽くしたと言った方が正しいかもしれない。全てを失った肉体は灰へと変じ、打ち捨てられている。 とうてい人間にできる芸当ではなかった。 レドゥアは灰を手に取ると、皮の小袋へおさめる。 レドゥアはそのまま足音高く女王の部屋から立ち去ると、通路に控えさせていた魔術師達に命令を下した。 「国境東端への門を開けよ」 「はっ」 うやうやしく答えながらも、魔術師達は顔を見合わせた。 しかし、レドゥアは魔術師達の思惑をよそに、命を続ける。 「そして、呼び戻せ、疾き風を」 「風・・・、あのお方をですか」 恐るおそる、歳若の魔術師が尋ねた。 「いつから、わが魔術師達は、言葉を解さぬ愚か者に成り果てたのか」 魔術師達は雷に打たれかのごとく、身体を硬直させた。 「魔術師は門を開けた後、陛下をさらった者の調査に当たる。敵を知らねば事は始まらぬ。騎士には冒険者の管理強化と、街の警備をさせる。僧兵は現在の任務の続行を。となれば、捜索には忍者兵を当てるのが理想的だ。あやつらほど、俊敏に、秘密裏に事を運べるものはおらぬ」 レドゥアはカッと杖で石床を叩いた。 「お前達も知っての通り、迷宮探索に当たっていた忍者兵は、あの死神によって半壊している・・・。減ったものは補給すればよい。現在、もっとも忍者兵がいる場所はどこか。答えよ!」 「と、東端です。忍者部隊の頭のおられる」 質問をした魔術師が、震える声で答えた。 「そういう事だ」 レドゥアは最早言うべき事はないとばかりに、ローブをひるがえしその場を後にした。 「・・・最早、我が手にオティーリエの髪はないのだ。「あれ」を造る事は二度と・・・」 聞く者を震撼させる暗い呟きは、しかし誰に聞かれる事もなく、冷たい空気に溶け消えていった。 |
東方風の衣装に身を包んだエルフの男が、枯れた細い枝を地面に突き刺す。 無造作な仕草に見えたが、力の込め方に注意が払われていたらしく、枝は折れる事もなく凍てついた地面に埋め込まれた。 やがてそれは、風雪にさらされ、白い氷の花を咲かせるだろう。 エルフは、落日色の瞳をわずかに細めた。 頭をあげると、エルフの部下である人間の男達も、それぞれの腕を止めていた。 「ご苦労」 エルフが短い言葉で労をねぎらうと、部下達は静かに頭を下げた。 彼らは、ドゥーハンの忍者部隊。 非情の忍者部隊の頭であるはずのエルフは、転がる骸を放って置くことができなかったのだ。それは、かつて傍にいた娘の影響かもしれなかった。 エルフの男は小さく息を吐き出すと、軽く片手をふり、部下達に指示を与えた。 「適当な空家で休憩を取れ。見張りは交代でたて、不死者対策を忘れるな。明朝、再び霧越えをする」 「ハッ」 次々と散っていく部下達を追いかけるように、舞う雪が勢いを増した。 「・・・泣くな、ソフィ」 空を仰ぎ、言葉を紡ぐ。 「陛下のいる地上に平安を。お前のいるその空に、陽光を。俺が必ず取り戻す。だから、泣くな・・・」 ほの暗い空に、娘の姿が浮かんで消えた。 「怒っているのか? 陛下の傍におらず、こんな辺境でぐずぐずしている俺を」 まるで肯定のように、一片の雪が、エルフの端整な顔の上を滑っていった。 「・・・しかたないだろう」 エルフは薄い唇を歪めて笑いを形作る。 「これは、傍にいながら、陛下を危険にさらし、お前を失った罰なのだから」 屈辱の一言を呟き、エルフは拳を握り締めた。 娘の幻を空に描きながら、エルフは己の心を強く占める、娘と背中あわせのような存在の一人の少女の姿を、脳裏から追いやった。少女を思い出す事は禁忌だった。ひとたび思い出せば、心の命ずるままに叫び続けずにはいられないだろうから。 エルフはためいきをひとつつくと、視線を空から地上に戻した。 「眠りよ、やすらかであれ」 かつて、娘が死者に呟いた言葉そのままに。 そして、エルフは一人、離れた空家にこもり、凍える夜を過ごすのだった。 翌朝、エルフが霧に挑む準備を整えていると、部下の一人が慌てた様子でやって来た。 「王宮魔術師が何故ここに」 魔術師はエルフに対して膝を折ると、自らの使命を果たす。 「伝令致します」 一旦言葉を切った魔術師に、エルフは頷き、続きを促した。 「聖都にて、オティーリエ陛下が拉致されました。至急帰還し、捜索に当たれとの、クイーンガード長のご命令です。帰還の為の転移の門はすでに開いております。お急ぎを・・・」 「なん、だと・・・?」 一瞬、エルフは己の耳を疑った。 自分が聖都を離れている間に、護るべき主がさらわれたというのだ。 「馬鹿な!」 エルフは、力任せに壁に拳をたたきつけた。 「陛下がさらわれただと!? 長は、長はなにをしていたのだ!」 「敵がそれだけ狡猾だということです!」 予想された叫びだったのか、よどみなく魔術師は答えた。 「傍にありながら陛下を護れぬ者にガードはつとまらぬ。長はそう言い、俺を辺境へ飛ばした。その俺を呼び戻さねばならぬほど、事態は深刻か」 魔術師はゆっくりと頷いた。 エルフは、部下に向き直る。 「全員帰還の用意。一刻たりとも無駄にするな」 「はっ」 部下が立ち去るのを待ち、エルフは魔術師のそばに膝をつく。 「教えろ、お前の知る限りの詳細を」 魔術師はうなずき、なるべく情報を整理しながらエルフに事件のあらましを話し出す。 この日。 聖都に疾風が帰還した。 |