宿に戻ったクルガンは、手足についた潮を洗い流すと眠りに着いた。長旅と夜の散歩で疲れた身体は、あっという間に深い睡眠へと落ちて行く。夢さえ見なかった。ただ波にゆられているような心地よい感覚が、全身を包んでいた。浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ、やわらかな眠り。それは、どこかしら舞にも似ていた。 しかし、その心地よさは、突然響いた金属音によってかき消された。 宵闇を切り裂く鋭い音が、クルガンの耳に突き刺さり、眠りの世界がはじけ飛ぶ。 「なっ、なに!?」 クルガンは混乱したまま、寝台から飛び起きた。 「オハヨ、お姫様」 突然、おどけた声と共に、鈍く光る冷たいモノが突きつけられる。 「クルゥ、動くんじゃない!」 エルマーの叫びと共に、意識が覚醒する。 瑠璃色の闇に滲む淡い月光が、室内の家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。そのほのかな光の中に立つ、人影。何故に鍵をかけたはずの室内に家族以外の第三者がいるのか。それが何を意味しているのか、クルガンは咄嗟には理解できなかった。 寝台から飛び降りようとするクルガンを、先ほどのおどけた声が制止する。 「動くとお父さんに叱られるよ?」 鼻先に突きつけられていた光が揺れた。それは、剣呑なことに使い込まれた短剣だった。握っているのは、子供のような小さな人影。クルガンよりもなお小柄だ。寝台の脇にのんびりと腰掛け、足をぶらぶらさせている。 クルガンはゾッとした。こんな間近に寄られながら、飛び起き、短剣を突きつけられるまで何も気配を感じなかったとは。口の中が一気に干上がっていく。乾いた唇の感触が不快だった。 寝台に腰掛けながら上半身だけをひねって短剣を突きつけていたその人物は、クルガンと目が合うと、存外感じのいい笑みを浮かべた。 知性と余裕にみちたその笑みは、幼い子供のものではい。身体のつくりこそ小柄であったが、彼はどうやらクルガンより歳上の少年らしい。よく見れば、たばねた栗毛の間からちょこんと顔を出す耳の先が、わずかにとがっていた。 小柄な身体、とがった耳、そして、人好きのする表情。それらは、お喋り小人と呼ばれるホビット族の特徴と一致している。 「生まれながらの盗人風情が! クルゥの血が一滴でも流れてみろ、即座に死の国の門をくぐる事になるぞ!」 父の叫びによって、クルガンは少年がホビットだと確信した。「生まれながらの盗人」とは、エルフがホビットを揶揄する言葉だ。宝石や金塊に執着し、好奇心が強く、また手先の器用なホビット族は、本能的に、あるいは必然的に、盗賊となることが多いゆえに。 ホビットの少年は、上を向いた小さな鼻をフンと鳴らすと肩をすくめた。 「罪人たる流浪の民に、盗人よばわりされるいわれはないね。まあ、間違っちゃあいないんだけどさ!」 「・・・クルゥ、すぐに助ける」 エルマーは低く呟くと、視線をホビットの少年から、己の前に立ちふさがる影に戻した。体躯のいい人間の男だった。無骨な手には剣が握られ、その剣をエルマーが短剣で受け止めている。エルマーは、背後にマージェリーを守っていた。マージェリーはかすかに震えているようだったが、瞳から力は失われていない。マージェリーはクルガンと目があうと、わずかに微笑み頷いた。 エルマーの短剣が翻り、男の剣と激突する。クルガンの眠りを呼び覚ました鋭い音が再び響いた。 「なに、が、起こっているの・・・?」 クルガンは、呆然とつぶやいた。 「退魔の音色が流れなかった。オイラ達はその時を待っていた」 ホビットの少年の呟きに、ぴくりとクルガンは反応した。 確かに今宵、魔よけの輪舞曲が奏でられることはなかった。何故ならここは荒野ではなく人の集う街であったからだ。疲れと僅かな油断と祭の賑わいが、曲を奏でる心を奪ったのだろうか。 「さすが楽と舞の流浪の民だね。あの退魔は強烈だった。ちっとも近づけないだもんなぁ。でも、祭の前夜にチャンスはくるって頭の読みは当たったね」 凝視するクルガンにニヤリと笑ってホビットの少年は続けた。 「そんなに睨まないでよ。前の街からずうっと追いかけて、やっとこんな近くで会えたんだからさぁ」 前の街からということは、二月近くの間こんな物騒な連中が接近を図っていたということになる。背筋に氷塊を差し込まれたような寒気を感じ、クルガンは僅かに後ろへと下がった。 「あらら、怯えちゃった? まあ仕方ないか。オイラ達盗賊だもんなあ、怯えるなって方が無理か」 「とう、ぞく!? あ、あんた達がそこまでして欲しがるモノなんて、何も持ってない! 踊りの衣装と、楽器達と・・・、ここにあるのは、それだけだ!」 「そんなことないね。凄いお宝をお姫サマ達は持っている」 「え・・・?」 すっとホビットの少年の瞳が細くなった。 「あんた達自身さ」 その意味を問い詰めようとした途端、マージェリーの悲鳴が上がる。 「エルマー!」 はっとして顔をあげれば、エルマーの短剣がたたきおとされていた。 エルマーと剣を交えていた男は、落ちた短剣を遠くに蹴り飛ばすと、勝利の笑みを浮かべる。こうなっては、エルマーに勝機はない。 男が剣を持ち上げた。ゆっくり、ゆっくりと。 「目を閉じてな、お姫サマ」 なぜか優しい口調でホビットの少年が呟いたが、クルガンは瞳を閉じることが出来なかった。澄んだ灰色の瞳は、残酷に真実のみを映し出す。 月光に照らされた血潮が吹き上がった。暗く、赤い、エルマーの血。 「父、さ・・・」 「エルマァァァッ!」 妻と子の叫びは、最早彼には届かない。 エルマーの命が絶えたことを悟ったのか、立てかけてあった竪琴の弦が音をたててはじけ飛ぶ。 「ああっ」 エルマーを切り捨てた男が、マージェリーの首を掴んで持ち上げた。 「やめろぉ!」 クルガンは叫んで、寝台から飛び降りた。 「あ、コラ!」 ホビットの少年の制止を振り切り、床に落ちていたエルマーの短剣を拾う。 「母さんを放せぇぇッ!」 舞で鍛えられた脚は、クルガンを軽々と宙へ舞い上がらせた。 男は獣のような叫び声をあげ、マージェリーを投げ捨てた。 マージェリーは寝台に倒れこむと、喉元を押え大きく咳き込む。 「このっ・・・!」 男は血をしたたらせたままクルガンに向き直った。怒りで目を吊り上げ、エルマーの血に濡れた剣を振り上げる。 しかし、男がそれをふるうよりも早くホビットの少年が動いた。 タン! と音をたてて、ホビットの少年が投げたナイフが壁に突き刺さる。ナイフは男の頬を深くえぐっていた。 「商品に手を出すのは、ご法度だぜ。それ以上やる気なら、オイラは二本目を投げなきゃいけなくなる」 「わ、わかったよ、ダニエル」 男は、急に怯えたような卑屈な笑みを浮かべると両手をあげた。大きな男が、小さなホビットに怯えるというのもおかしな話だったが、先ほどのナイフの腕を見ればそれも頷ける。 ダニエルと呼ばれたホビットの少年は、わかればいいのさと頷くと、男にとびかかろうとしていたクルガンの鳩尾に拳を叩き込んだ。 強い衝撃に、一瞬で視界が暗黒に染まる。闇に意識が溶ける寸前に、クルガンは、マージェリーの叫び声を聞いたような気がした。 次にクルガンが目を覚ましたのは、ゆらゆらと揺れる薄暗い部屋だった。 頭をめぐらせると、室内には母の他に、仲間の踊り子達がいた。どの顔も暗く沈んでいる。父や、他の男達、それに老人達の姿は見えない。 マージェリーの青緑の瞳から零れた透明な雫が、クルガンの頬ではじけ、唇に落ちた。母の涙は、港で感じた波しぶきと同じ味がした。 「母さん?」 「クルゥ・・・」 マージェリーは唇をわなめかせると、クルガンを力のかぎり抱き締めた。 「か、母さん、父さんはっ!?」 マージェリーは何も答えなかった。ただ、わずかにクルガンの身体を抱き締める腕に力が入った。 無言の抱擁が、なにより雄弁な返答だった。 「父さ・・・ん」 クルガンは、マージェリーの胸に顔をうずめたまま泣き叫んだ。 「ぼくのせいだ。ぼくが、はしゃいで、父さん達を疲れさせたからっ。うかれて、破邪の舞を踊らなかったからっ」 クルガンの慟哭が伝染したのか、周りにいた踊り子達もすすり泣きを始める。 それを嘲笑うかのように、大きな音をたてて、たった一つだけある扉が開いた。 入ってきたのは、クルガン達を捕らえた盗賊達と、きらびやかな衣装をまとった商人風の中年男だった。 「ほう、これはなかなかの佳人揃いだ」 商人風の男が、でっぷりとたるんだ顎の肉をふるわせていやらしく言った。 「舞の上手を心得た流浪の民だ。良い娼姫になるだろうよ」 眼光鋭い黒髪の盗賊が腕組みをして、商人風の男に言う。 「頭の目は確かだからね」 商人風の男は頷くと、クルガン達の方に歩み寄った。 「ふむ、ふむ、ふむ、と。じゃあ、全員うちで買い取らせてもらいましょう」 「か、う?」 クルガンは、呆然と呟いた。この男達はいったい何を言っているのだろう。 マージェリーはクルガンを放すと、毅然と立ち上がった。 「わ、わたし達は誇り高き流浪の民! 人間達の慰みものになるのであれば、死を選びます!」 だが、マージェリーの叫びに、盗賊の頭は冷笑を浮かべた。 「死を選ぶと言うのであれば、かまわない。だが、な」 頭が指を鳴らすと、すっと盗賊たちが動いた。 「はなせっ!」 「クルゥ!」 盗賊たちは、マージェリーからクルガンを奪うと、その細い喉に短剣を押し付けた。 「その時は、この子も命を失う。誇りと子供の命、好きに天秤にかけるがいい」 マージェリーは青ざめた。もう、エルマーはいない。クルガンを守る事ができるのは、己だけなのだ。だが、クルガンを助けるということは、エルマーを裏切ることに直結する。 「エルマー、エルマー、わたし、わたしは・・・っ」 マージェリーは、がくりと膝をついた。 再び、踊り子達が泣き始める。 「話はまとまりましたかね。それじゃあ、兄さん達、頼みますよ」 商人風の男がそう言うと、盗賊達が桶を運んできた。桶の中では炭が真っ赤に燃えており、そこに、金属の棒が突き刺してあった。 盗賊が棒を引き出すと、棒の先端には、平たい金属の板のようなものがついており、炭の熱によって赤くなっていた。どうやら焼印らしい。 盗賊は踊り子の一人に近づくと、彼女の肩に、無造作に焼印を押し当てた。 筆舌しがたい絶叫と、肉の焼ける匂いが広がる。 踊り子の数だけそれが繰り返され、最後にマージェリーの肩にも、押し当てられた。 マージェリーは唇をかみ締め、絶叫をこらえた。唇がかみ破られ、血が流れても、決して叫び声は上げなかった。 苦しむ仲間や母を見ながら、押さえつけられたクルガンは何も出来なかった。 痛みと屈辱と絶望に震える踊り子達を、盗賊達が連れて行く。商人風の男の満足げな笑い声が耳障りだった。 幽鬼のような姿になったマージェリーがふらりと振り返る。 「クルゥ、どうか、生きて。いつかお前が、森へ帰れますように」 「母さん・・・」 しかし、親子の永久の別れはあっけなく終わった。盗賊が無情にも母を連れ去ったからだ。 足音が、遠く、遠くなる。 マージェリー達の気配が消えると、クルガンは解放された。 盗賊たちも一人、二人と立ち去っていく。 穏やかで、知的な風貌の黒髪の少年だ。きちんとした衣服をまとえば、どこぞの文官見習いだといっても通用するかもしれない。 二人は互いに無言だったが、やがて、クルガンがふらりと立ち上がった。 「どこに行く? ここは船上だ。周りは一面海だぞ」 「踊るんだ」 「なに?」 「もうすぐ、夜が明ける。祭の朝がくる。みんな待ってる。父さんが竪琴をひいて、母さんと一緒に海の舞を舞うんだ」 クルガンは腕を持ち上げると、舞の形をつくった。 「聞こえるよ、父さんの竪琴が。母さんの銀鈴が。漣が舞を誘う」 少年の前で、クルガンは舞い始める。今日この日に、踊るはずだった海の舞を。 「シドニー、シッド! 朝飯二人分もってきたぜ」 扉が開き、盆を抱えたダニエルが顔を出した。 「あ」 だが、ダニエルは言葉を失った。 流浪の民の幼い舞姫が、表情をなくしたまま舞っていたからだ。 仲間とはぐれた小鳥が、海風を感じ、女神とめぐり合う海の舞。 だが、うすぐらい船底の船室で、クルガンの舞うその場所だけが、まるで光を放つかのように神々しい。 それが、舞姫クルゥの最後の舞となった。 |
喉の渇きを覚え、傍に置いてあった水袋を手にとった。一口飲み下し、もう一口はそのまま少女に与える。唇を重ねたとたん、皮の匂いの染み付いた水が、甘やかな水に変わった。零れるのは熱いため息。 そろそろ眠くなったかと尋ねると、しかし少女は、続きは? と言った。 最早夜もふけきった。そろそろ眠ってもらわねばまずいのだが・・・・・・。 困ったものだと思いながらも、唇は過去を辿った。 |
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