【薔子】

 総一郎は、アトリエの隅にかけられた時計にチラリと目をやった。神経質そうな細い針が、十六時五分という時を、駆け抜けていく。

 ふう、と紫煙を細く吐き出すと、総一郎は半分以上残っていた煙草を、手近にあった灰皿に押し付けた。よじれた煙草が力なく灰皿の中に転がる。

「不味いな……」

 ぽつりと呟くと総一郎は咳き込み、喉に絡む煙草の残り香を追い払った。その様子からもわかるように、総一郎は愛煙家ではない。ただ、時折、心に苛立ちがわきあがると、無性に煙草をくゆらせたくなるのだ。

 近づいてくる足音が聞こえないかと耳を澄ましながら、総一郎はアトリエを見回した。美術の臨時教師という、少々心もとない立場にふさわしい小さなアトリエ。人が見れば雑然とした印象を受けるかもしれないが、主にとっては、すごしやすく心地よい空間だ。

 教鞭をとらない、つまり教師としての職がない折は、ここで数人の生徒に絵画を教えている。そうでもしなければ、とても食べていけないからだ。

 両親は、うだつの上がらない息子に最近すっかり諦めをつけ、あれこれ口うるさく言わなくなった。親不幸をしているな、とは思うが、これ以外の生き方を総一郎は知らない。

 いつか、と総一郎は思う。いつか、自分の絵が認められれば、きっと両親もわかってくれるだろう、と。

 と、総一郎の夢想を打ち破るように、小さな靴音が聞こえた。総一郎は姿勢を正し、入り口に注目する。

 ややあって、遠慮がちに扉が開いた。頬を赤らめ、おずおずとアトリエの中に入ってきたのは、総一郎のアトリエに通う女子高生、花里憧子だった。私立清林女学院にかよう生粋のお嬢様は、総一郎にとってありがたい生徒である。さぼる者が多い中、彼女は真面目にアトリエに通い、きちんと授業料を納付してくれるからだ。

 それゆえに今日のような休日に、特別にお願いがあると言われても無下に断るわけにはいかなかった。

「やあ」

 そっけない返事で憧子を迎えると、憧子は深々と頭を下げた。

「今日はせっかくのお休みのところを申し訳ありません」

「いや」

 そうは言いながらも、総一郎はこの時間に描くはずだった絵の事を思い返していた。

「で、お願いってなにかな」

「あの」

 憧子は一旦言葉を切ると、逡巡するように視線を宙に彷徨わせたが、意を決したように総一郎を見つめ、一息に言った。

「先生に、わたしを描いてもらいたいのです」

「……え?」

 総一郎は、しげしげと憧子を見つめた。

 憧子は美しい娘だった。たまご形の顔は抜けるように白く、顎のすぐ下で切りそろえられた漆黒の髪が、頬や鎖骨に深い影を投げかける。大きな瞳は、アトリエの僅かな光を受けて淡くきらめき、つややかな紅唇は、緊張のためかきゅっとかみ締められていた。日本人形のような愛らしさと、どこか、ぞくりとするような色香を小さな身体に同居させている。さらに、清林女学院の濃紺のセーラー服が、彼女に気高さと慎ましさを添えていた。これほど、この制服が似合う娘はいないのではないだろうか。

「あの……」

 低く呼びかけられて、総一郎は我に返った。これでは、見とれていたも同然だ。相手は、十も歳下の少女だというのに。

「何故、急に?」

「お金は、お支払いします」

 憧子は答えず、総一郎に封筒を差し出した。受け取った封筒は中々の厚みがあり、総一郎を驚かせる。

「おこづかい、ためたんです」

 憧子は、総一郎に何かを言われる前にあわてて言った。
  総一郎は唇をゆがめると、スケッチブックを広げ、B4の鉛筆を手に取った。

「どうぞ」

 総一郎がえんぴつで行儀悪く椅子に座るようにすすめると、憧子はほっとしたようにそちらへ向かった。

 そして、そのまま、しゅるりと音をたてて真白なスカーフを抜き取った。

「おい」

 総一郎の言葉が聞こえないかのように、憧子はつぎつぎと身につけたものを脱いでいく。あっけにとられる総一郎の前で、一糸まとわぬ姿になると、憧子はふりむき、微笑んだ。

「ありのままのわたしを、残してください」

 描いてください、ではなく、残してくださいという物言いが気になった。
  ひとまずスケッチブックに鉛筆を走らせながら、総一郎は問う。

「理由くらいは聞かせてほしいな」

「……それは」

 憧子は一瞬言いよどんだ。つま先に視線を落とし、ゆっくりと口を開く。

「わたし、この春の卒業と同時に結婚するんです」

 総一郎は、ちらりと憧子を見ると言った。

「続けて」

「――これは、わたしが五歳の時から決まっていた事で、そういうものなのだと受け止めていました」

 清林女学院に通う両家の子女ともなれば、こんな時代錯誤な事も平気でおこるのだな、と総一郎は無感動に納得した。

「でも、わたし、お友達の紹介でここに通うようになって、絵の素晴らしさをしって、夢に向かってまっすぐに進む先生を知って、何かが違うって思い始めた」

 ぴくりと総一郎の眉が持ち上がる。一体この少女は何を言いたいのだろう。

「このままでは、わたし、知らない間に決められた約束に拘束されて、人生のレールが敷かれてしまう。わたし、まだ何も選んでないのに……」

 不安そうに憧子の眉がよる。

「わたし、ここで勇気をもらいました。自分で何かを選び取る大切さを学びました。だから、わたし、立ち向かおうと思います」

「婚約を、破棄するの?」

 総一郎の問いに、憧子は首を横にふった。

「それは、出来ません……。わたしの結婚は、お父様の会社にとって、とても大切なことだから。でも、だからといって、立ち向かう勇気を忘れたくはない。たとえ古い約束に拘束されたとしても、そこから進む強さを身につけたい。その決意を抱いたわたしを、証として、絵に残したいんです」

 ただの、おとなしいだけの少女だと思っていた。その彼女が大人の目をして、自分を見つめている。総一郎の心の中で、何かがむくりとおきあがった。

「わたし、先生の絵が好きです。セピアの色にまとめられた、悲しいのにどこか優しい絵が好き。だから、先生に描いてほしい。あの、楠の絵のように。先生はモチーフの本質が見抜ける人だから」

 総一郎は、ハッと息を飲む。憧子の言う楠の絵は、アトリエの片隅に飾られたA4サイズの小さなクロッキーだ。総一郎の一番の気に入りの絵であった。常緑の楠の生きる喜びと、生きる苦しみを描けた作品だと思っている。

 誰に話したわけでもないその事を、憧子は感じ取っていてくれたようだ。

 にわかに、総一郎の目が真剣味を帯びた。

「あの……」

「黙って。モデルは動いちゃいけない」

 憧子が口を閉ざし、沈黙がアトリエを支配する。総一郎は無心に鉛筆を走らせた。

「……出来たよ」

 一時間後、総一郎は満足そうに鉛筆を置いた。

 立ち上がり、憧子に服を着せ掛けながら、スケッチを見せる。

「これ」

 憧子は美しい目を見開き、スケッチを凝視した。

 そこには、一輪の白薔薇が描かれていた。

「憧子の憧と薔薇の薔をかけたんだ。タイトルは、薔子。凛とした白薔薇は君を現すのに、一番ふさわしく思う」

 じわり、と憧子の目に涙が浮かぶ。涙は、白薔薇の花弁を滑る朝露のように憧子の頬を流れ落ちた。

「これからも、できたら通ってほしい。僕に、もっと君を見せてほしい」

「……はい」

 憧子は、真剣な瞳をする総一郎を見つめ、薔薇がほころぶように微笑んだ。

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