【ジョゼルマリーへようこそ】

 舞花は瞬きすることさえ忘れ、開け放った冷蔵庫の前にしゃがみこんでいた。たっぷり十分間、その姿勢のまま微動だにしない。

 キッチンへ茶を飲みに来た祖父の忠文は、人形のように鎮座する舞花を見て大層驚いた。

「……舞花。なにをしとるんだね」

 眼鏡を拭きながらつい、尋ねる。
 返ってきた答えは、十二の少女が発するにはあまりふさわしくないものだった。

「自分の心と対話してるの」

 ぱちり、と一度まばたき。

「ほう、対話とな」

 繊細な心を持つ孫娘は、時々詩的な物言いをする。

「そう。とっても大切なことなの」

「大切なことか」

「とっても、とっても大切なの」

 舞花の大きな目は、じっと冷蔵庫の中を見つめていた。いったい何を見ているのかと中を覗きこんだ忠文の瞳に映ったのは、なにやら可愛らしいリボンをまとった小さな包みだった。

「舞花、これは……」

「チョコレートよ、おじいちゃん」

 再び、まばたき。

 どうやら孫の悩みは深いらしいと察した忠文は、舞花の小さな肩に手を置いた。

「どれ、おじいちゃんにも話してごらん。解決の糸口がみつかるかもしれないよ」

 忠文は冷蔵庫の扉を閉めると、舞花をダイニングチェアに座らせた。

 それでも舞花はチョコレートが気になるのか、チラチラと冷蔵庫をふりかえる。

 忠文は、ゆっくりと日本茶を淹れ、茶菓子を用意すると舞花の前に置き、自分も湯飲みを手にした。

 忠文の視線にうながされた舞花は、いただきますと呟くと、楊枝で器用に芋羊羹を小さく割った。サイコロのようなカケラのひとつを優雅に口に運び、次いで茶を飲む。

「それで、あのチョコレイトがどうしたというんだね」

 忠文の古風な発音に、やっと舞花は微笑みを浮かべた。

「もうすぐバレンタインでしょう?」

 おお、と忠文は頷いて壁にかけられていたカレンダーを確認した。確かに、あと四日ほどでバレンタインデーだ。

 我が家では無縁の行事だったが、ついに来たか、と思う。

 舞花ももう十二。淡い初恋めいたものをしても不思議ではない。

「それで、バレンタインに関しての会議がクラスで開かれたの」

 うん? と忠文は眉を寄せる。初恋と会議がどうにも結びつかない。

「本命のチョコレートとは別に、クラスの女子全員がくじびきをして、クラスの男子全員にチョコレートを贈りましょうって」

 つまり。

「舞花は特に好きでもない坊主にチョコレイトをやらねばならぬ、と」

 こっくりと舞花は頷く。

「素敵な案だとは思うわ。チョコレートをもらった男子は、みんな幸せな気分になるでしょうし。それに、わたし、好きな人がいるわけではないから、良心がとがめたりはしないのだけれど……」

 舞花は再び冷蔵庫に視線をやった。

「……気に入らないの」

 大きな瞳に苛立ちが踊って見える。

「贈り物って、尊いものでしょう? ようく吟味して、これだと思うものを選ばなくてはならない。でも、桜ちゃんといっしょに買ったあのチョコレートは、亮太君に一番ぴったり合うとは思えないの。でも、お店にはあれ以上のチョコレートはなくって」

 すっくと立ち上がった舞花は、小さな手を握り締めると重々しく告げた。

「だから、わたし、あのチョコレートを割るべきか、割らざるべきか、自分の心と対話していたの」

 ……なんと浪漫ちっくな孫娘なのか。
 十二歳の少女の迫力に押されながら、忠文は声もなく頷いた。

 だが、たしかに、そうだ。

 贈り物とはこうやって相手の事をおもって選ばれるべきものだ。

 忠文は、自分が選んだ数々の贈り物を思い出して目を細めた。

「舞花。このあたりのお店はみんな回ったのかい」

「ええ。のこさずつぶさに回ったけれど、これだという完璧なチョコレートはなかったわ」

「そうか、そうか。だがな、舞花。ジョゼルマリーの店には行かなかっただろう?」

「ジョゼル、マリー?」

 舞花は、きょとんとして忠文を見つめた。
 初めて聞く店名だ。

「おじいちゃんの馴染みの店だよ。よくこの店で、死んだおばあちゃんに贈り物を買ったものさ」

「おばあちゃんに?」

 舞花は忠文の傍近くに寄ると、じっと忠文の目をのぞきこむ。その仕草はどこか亡き妻を思い出させて、がらにもなく忠文は赤くなった。

 ごまかすように、咳払いをひとつ。

「ああ、そうさ。ジョゼルマリーは不思議な店。ぴったりの贈り物が見つかる店。いつでもジョゼルマリーが微笑んどる。だから、舞花、ジョゼルマリーの店に行ってごらん」

「でも、おじいちゃん。わたしそのお店の場所を知らないわ」

「おじいちゃんも知らないんだよ」

「……おじいちゃん、わたし現実的なお話がしたいわ」

 舞花の声が低くなったので、忠文は声を上げて笑った。

「知らないけれど、行けるんだよ。ジョゼルマリーの店の話を聞いて、そこに行きたいと強く望んだ者は、かならずそこにたどりつける」

「……わたしでも?」

「舞花であればこそ」

「だったら、おじいちゃん。わたしは行くわ」

 それは高らかな宣言。
 舞花は忠文とおごそかに握手をすると、自室にもどって出かける準備を整えた。

 お気に入りの白いマフラーと、フリルの三段スカートは決意の現れに他ならない。

 舞花は忠文に見送られ、家を飛び出した。

 もちろん、件のチョコレートは叩き割ってから。

 舞花の息はだいぶあがっていた。
 いくつ横断歩道を渡っただろう。
 いくつ坂を上っただろう。
 だが、見慣れた街並みが続くばかりで、いっこうにジョゼルマリーの店にたどり着く様子はない。

 今度こそ、と期待をこめて曲がったT字路の先が行き止まりだった舞花は、とうとうかんしゃくを起こして叫んだ。

「ジョゼルマリーのお店なんてないわ!」

 にゃおん、と塀の上に座っていた猫が鳴き声を上げる。

 舞花は、その鳴き声が妙に気に入らなかった。まるで、なんだあの店を知らないのかい、と笑われたように感じられた。

「ねこさん。あなた知っているのなら、わたしをお店に連れて行って」

 猫は今度は、なーご、と鳴いた。

「心得ました、と受け取るわ」

 猫は塀から飛び降りると、尻尾をピンとたてて歩き始めた。舞花もマフラーをひるがえして猫に続く。

 どんどん猫について行くと、やがて見たことのない路地に出た。

 路地の両脇には、季節を無視した花が一杯に咲いたプランターが並んでいる。そして、その先には。

 小さな赤レンガの建物がひとつ。
 古びた緑の看板に、金色の文字でこうかいてある。ジョゼルマリーの店、と。

「着いたわ!」

 舞花は両手を叩いて喜んだ。
 そして、連れて来てくれた猫に敬意を現す。

「ありがとう、ねこさん。あなたはとても立派なねこだわ」

「それはどうもありがとう」

 猫ははっきりそう答えると、二本足で立ち上がった。そのまま、ゆっくりと縦に身体が伸び、みるみる妙齢の女性となる。

 顎で切りそろえられた癖のない金の髪。切れ長の青い瞳。笑みを浮かべた唇は珊瑚色。
 きりりとりりしく、美しく。それでいて悪戯な子供のような表情をした女性。

 肩のあたりがふくらんだエンジ色のエプロンドレスが、とても似合っている。

「ジョゼルマリーへようこそ。切望するお客様」

 女性は舞花に向かって、芝居がかった仕草で一礼した。

「まあ、すごいわ」

 頬を真っ赤にした舞花は、ほれぼれと女性を見つめた。

「わたし、ずっと信じていたわ。いつか、こんなことが起こるにちがいないって! 世界もまだまだ捨てたものではないわ」

「それはようございました。わたくしは、ジョゼルマリー。この店の主です。さあ、お入りください、お客様」

 ジョゼルマリーは右手で舞花の手を取り、左手で自身のスカートの裾をつまむと、足取り軽く店へと向かった。

 硝子の自動扉が軽やかに開くと、とたんに甘い香りが舞花とジョゼルマリーを包みこむ。

「うわあ、ココアの海を泳いでいるみたい」

 うっとりした舞花の声に、ジョゼルマリーは笑った。

「ココアの海ですか。なるほど。では海のしぶきが固まって、ここではチョコレートになるのですね」

 壁際にすえつけられた飾り棚には、美しいチョコレートが大切な宝石のようにならべられていた。

 カラフルなプリントを着こんだ板チョコ、ひとつひとつ形の違うミルクチョコレート、さわやかな果物のチョコレートがけ……。

「ジョゼルマリーの店は、チョコレート屋さんなの?」

「今日は、そうです!」

「今日は?」

「そう今日は」

 ジョゼルマリーは細い指先を得意げに持ち上げた。

「その時々のお客様が望むものを取り扱う。それがジョゼルマリーの店です。あなたのおじいさまがいらした時には、服屋で、香水屋で、花屋で、宝石屋でございました」

「……おじいちゃん、とってもわかりやすいわ」

 そう言いながらも、舞花は目を輝かせて店内を見回す。

 ジョゼルマリーは、店の中心まで行くと両手を広げた。

「さあ、お客様。並びましたるチョコレート。この中にきっとあなたのお望みのものがございます。このジョゼルマリーが選び出すお手伝いをいたしましょう」

 それには、とジョゼルマリーは言った。

「どのような方に贈るのか、お客様の思いをわたくしめに教えてくださいませ」

「贈る相手は、亮太君。クラスで一番かけっこが遅い男の子」

 舞花はゆっくりと言葉を選びながら答えた。

「運動は得意じゃないけれど、とても優しくて、笑顔がまあーるいの。本を読むのが好きで、わたしの知らない事をたくさん知っているわ」

 舞花の脳裏を、物静かな少年の姿がよぎっていく。それは意外なほどにはっきりと焼きついていた。

「亮太君は、静かで穏やかなものが好きなの。だから、贈るチョコレートも穏やかで、甘くて、とがった所がないものがいいわ」

 それから、と舞花は手を叩く。

「ひとしずくの驚きは絶対に必要なの。だって、本を読んでいるとたくさんの驚きに遭遇するでしょう? 亮太君に贈るチョコレートはそういうものでなくてはならないの」

 舞花の話に満足そうに頷いていたジョゼルマリーは、スカートの裾をひるがえしてくるりと回った。

「素晴らしい。素晴らしいお答えです。ならば今のご要望にお応えできるチョコレートをご覧にいれましょう。ですが、その前に」

 ジョゼルマリーはそっと両手を合わせた。次に手を開くと、そこにはクシャリと崩れた包みがあった。

 それは、舞花が叩き割ったチョコレートだった。

「これは、買い手に見捨てられた哀れな品。ですが、ジョゼルマリーが見事に生まれ変わらせます」

「本当?」

 舞花は両手をぎゅっと握り締め、背の高いジョゼルマリーを見上げた。

 見捨てられた、とジョゼルマリーが言った瞬間、ひどく胸が痛んだのだ。

「チョコレートには悪いことをしたわ。わたしが割りたかったのは、妥協をしたわたしの心根で、チョコ自身ではなかったの。決別の儀式をしただけなのよ」

「わかっています。なればこそ」

 ジョゼルマリーは包みを開いてチョコレートを粉々に砕くと、店の置くからひっぱりだしてきた銀のボウルにそれを入れた。

 陶器の壷から桃色の液体をひとさじすくいとり、同じくボールに入れる。

「お客様のご希望は、静かなる穏やかさ。染み入るように優しい甘さ。そして、ひとしずくの驚き!」

 ジョゼルマリーは、泡だて器でコンとボールのフチを叩いた。

「さあおいで、静けさ。さあこっちよ、穏やかさ。甘さを象るのは、そこのあなたよ」

 棚から、天使の形をしたチョコレート細工と、ココアをまぶしたトリュフチョコレート、そしてツヤツヤとしたチョコレートドロップが浮かび上がり、ボールの中に飛び込んだ。

 ジョゼルマリーの右手が踊り、ボールの中身をかき混ぜ始める。

「そして、ひとしずくの驚きは、贈り物にこめられる、お客様の思いそのもの!」

 ジョゼルマリーが、舞花に向かって手招きした。

 ジョゼルマリーの傍に行こうとした舞花は、ぎくりとして足を止める。

 舞花の身体が、ミルク色にきらきらと輝いていた!

 輝きはまるで天の川のように広がると、ボールの中に流れ込む。

 チョコレートと、静けさ、穏やかさ、甘さ、そして驚きが、だんだんひとつにまとまっていった。

「綺麗です。幸せを祈る気持ち。真摯な気持ち。感謝の気持ち。きっと相手の方に届くでしょう」

 ジョゼルマリーは混ぜ終わったチョコレートをしぼり出し袋にいれると、キュッとしぼった。波の型がついたそれを、くるりと丸くしぼり出していく。

 シンプルなそれは、しかし舞花の思いを抱きしめて、甘くひそやかに光り輝いていた。

「見事なできばえ!」

 ジョゼルマリーは手近にあったクリスタルのベルを取り上げると、チリンと一度鳴らした。

 すると、くしゃくしゃになっていた元のパッケージから、シワと折れ目が消えていく。
 ジョゼルマリーがもう一度ベルを鳴らすと、店の奥から、水色の薄紙と金色のリボンが飛んできた。

 新旧二つのパッケージは、くるくる回って、ぴょんぴょん弾んで、あっという間にチョコを飲み込むと、かわいらしく装って舞花の手に飛び込んだ。

「いかが?」

 自身の仕事に満足した顔で、ジョゼルマリーは顎を持ち上げた。

「満点だわ、ジョゼルマリー」

 これこそ、舞花が探し求めていた、しかし見つからなかったチョコレートだった。選び間違えたチョコレートが、理想のチョコレートに生まれ変わるなんて。抱きしめている事が信じられない。

「御代は、いくらかしら」

 優しい微笑を口の端に上らせたジョゼルマリーは、すっとかがむと舞花の頬に口付けた。

「御代はこれで充分。そのかわり、またいらしてください。こんどは、忠文様と御一緒に」

「約束するわ、ジョゼルマリー!」

 大きく頷いた舞花は、ジョゼルマリーの細い首に抱きついた。

 贈られることを待つばかりのチョコレートが、二人の間で楽しげにカタンと一度鳴った。

おわり

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