異世界ロマンティックラブコメディ







LOVE1 王子さまの花嫁

 ゆかりは、呆然と、ただ呆然と地下鉄に揺られていた。
 これが、JR線であれば、窓の向こうにありふれたとはいえ、なんらかの景色が流れて、多少の気晴らしにはなったのであろうが、悲しいかなこれは地下鉄。窓は、暗い闇をたたえた黒い鏡となって、呆然としたゆかりの姿を映すばかりである。


  ――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。

 本当なら今頃、ボーイフレンドの瑞貴と映画を観ているはずだった。

 テストだバイトだと折り合いがつかず、久しぶりのデートとなったこの日、ゆかりはわくわくと胸を躍らせて待ち合わせの場所へ行ったのだが、そこでゆかりを待っていたのは、瑞貴だけではなかった。

 少し緊張した表情ながらもうつむくことなく、まっすぐとした瞳で瑞貴の隣に立つ人がいた。
 とまどうゆかりに、わずかに微笑みさえしたその人は。瑞貴の新しい”彼女”だった。

 わけがわからず立ち尽くすゆかりに、瑞貴は頭を下げた。
 瑞貴くん? というゆかりの呼びかけに顔を上げた瑞貴は、ゆかりの知らない顔をしていた。

 ゆかりと冗談を言い合った唇が、未来を語った唇が、好きだと言った唇が、その全てを打ち砕く言葉を重ねていく。

 細かな内容は覚えていない。ごめんという苦しそうな声だけが心にきざみつけられていた。ごめん、君よりもっと好きな人ができた、と。

 つまり、ふられたのだ、ゆかりは。

 まさかこんな事になるとは思わなかった。

 瑞貴とは高校のころからの付き合いで、今は別々の専門学校に通っているが、それでも二人の関係は巧くいっていたはずなのに。

 こんな裏切りを受けるなんて、思いもしなかった。

 ましてや、瑞貴が紹介してくれた彼女は、どことなくゆかりに似ていた。
 ふわふわとうずまく栗色の髪も。少し甘い声も。着ている服の感じも。
 それが、なによりゆかりを打ちのめした。

 せめて何もかも正反対の人ならよかったのに、とゆかりは思った。

 そうすれば、瑞貴の好みが変わったのだとまだ心をなぐさめる事ができた。
 自分とよく似た人を好きになられたら、立つ瀬がない。何もかも彼女の方が上だと宣告されたも同然だ。

「……ひどいよ、瑞貴くん」

 ゆかりのふっくらとした唇から、悲しい言葉がこぼれた。
 しかし、どれだけ瑞貴を責めても、これは夢だと言い聞かせても、一人で地下鉄に揺られているという事実に変わりはない。

 ゆかりはプルプルと愛らしいしぐさで頭をふると、陥りそうになっていた思考の落とし穴から脱出した。

「次で降りなきゃ」

 黒い窓に蛍光色の線を引いて視界から消えていくホームを見送り、ゆかりはつぶやいた。

 ゆかりの最寄り駅は、地下鉄の楠神宮から七つ目の駅だ。今通り過ぎたのが、六つ目の駅。

 はあ、と切ないため息をついて、ゆかりは次の駅を待った。
 五分ほどして、地下鉄は停車する。耳慣れた音と共に、ゆっくりと扉が開いた。

 白い光のあふれるホームに、しょんぼりとゆかりは降りた。

 アナウンスもなく、地下鉄が滑るように発車する。
 ゆかりは、気づかなかった。自分以外に、誰もこのホームに降りなかったことに。

 足取り重く階段を昇り、改札口付近まで来て、やっとゆかりは異変に気づいた。
 そこは無人だった。休日の昼下がりを楽しむ人の姿はない。にぎやかに喋る少女たちも、固まって歩く若者も、楽しそうな親子連れも……、それどころか、いなくてはならないはずの駅員の姿すらない。

「え……?」

 おっとりとした性格のゆかりも、さすがに不審を感じて歩みを止めた。
 シンとした静けさがゆっくりと腕を伸ばして、ゆかりを捕まえようとする。
 都心の無人駅がこれほどに恐ろしいものだということを、ゆかりは初めて知った。

 嫌だ、怖い!

「み、瑞貴くん!」

 ゆかりは、もっともたよりとする人の名を叫んだ。叫んでから、思い出した。
 彼はもはや、自分のものではなかったのだと。

 じわりとゆかりの目に涙がにじんだその時。

「おめでとうございます!」

 場違いなほど、明るい声が響いた。

 ゆかりは、びくりと肩を震わせて、あたりを見回した。

 誰もいない。

「あ、あ、あ、ちょっと待ってくださいねー!」

 パチンと指を鳴らす音がゆかりのすぐ傍でした。
 ふわりと優しい風がふき、突然一人の青年が姿を現した。まるで、風に運ばれてきたかのような唐突さだった。

 灰色の、なんとも表現しがたいずるりとした衣服を身に着けた青年は、一歩、ゆかりに近づこうとして、右足を踏み出した。

 その途端、 グキッと派手な音がして、青年が転ぶ。

「うわわわわわっ!?」

 青年はとっさにゆかりに手を伸ばした。

「きゃ、きゃあっ!」

 しかし、ゆかりは無常にその手を払った。当然だ。こんな怪しい男に手を貸す乙女はいない。

 かくして、青年は、後頭部を床に打ち付けることとなった。

 ゆかりは思わず走って逃げたのだが、何の物音もしないので、不安になった。
 おそるおそる戻ってみると、青年は白目をむいて倒れていた。

「あ、あの。だい、じょうぶですか?」

 さすがに心配になり、青年をゆすり起こす。
 青年は、うーんとうめき声をあげると、目を開いた。案外タフなようだ。

「はっ。な、なんとあなたが、看護を!? ああ、なんてお優しい。さすが、アーネスト様の花嫁候補!」

 意味不明のセリフを吐きながら、青年は飛び起きた。

 長い砂色の髪と瞳は、青年が日本人ではないことを如実に物語っていたが、しかし、彼の口からこぼれるのは、流暢な日本語であった。

 次から次へと巻き起こる出来事に、ゆかりは目を白黒させるばかりだ。

「驚かせてしまいましたか。すみません。以降は気をつけますので、どうかご容赦を」

 言いながら、青年はゆかりの小さな手をとった。

「私は、ギィと申します。しがない魔法使いです。この度、国の大占い師様の命を受け、この地にやってまいりました」

 夢だ。ゆかりはそう思った。青年が語ることは、ゆかりの理解の範疇をこえていたから無理もない。

「わが国の王子アーネスト様は、文武に優れ、容姿にも恵まれたお方ですが、その、なにぶん真面目すぎるきらいがございまして、いまだお好きな女性がいらっしゃいません。このままでは王家の直系の血が絶えると国中が心配していたのですが、大占い師様の水晶に喜ばしいきざしがあらわれました」

 ギィと名乗った青年は、砂色の瞳にうっとりとした表情を浮かべると、なおも続けた。

「アーネスト様と結ばれる運命の姫は、なんと時も空間も飛び越えた先にいらっしゃったのです。大占い師様はおっしゃいました。時の果て、空間の果てに、我らと言語を同じくする民族がいると。その民族の中にこそ、アーネスト様の運命の姫がいらっしゃると。さあ、そこでです」

 パン! とギィが手を打ち合わせ、ゆかりは再びびくりと肩を震わせた。

「我ら魔法使いの出番です! 時と空間を飛び越えるのは我ら魔法使いが得意とするところ。運命の姫をお迎えにあがる栄誉ある使命を賜ったのです。そして、そして今日! あなた様がいらっしゃいました。かの地と、われらの地をつなぐこの駅へ。それこそが、運命の姫のあかし!」

「あの、あの……」

 ささやかなゆかりの声は、あざやかに無視された。

「さあ、行きましょう、アーネスト様にお会いしてください。そして、運命を感じちゃってください。あなたは王子さまの花嫁です!」

 ギィはゆかりの手をとって、ぐいぐいとホームにひっぱっていく。
 もはや、ゆかりはされるがままだ。

 ギィは左の袖口から呼び鈴のようなものを取り出すと、高らかにそれを振り鳴らした。

 しばらくすると、七色に輝く古風な汽車がやってきた。リアルなホームに、ありえない汽車。実に馬鹿馬鹿しい光景だ。

 竪琴の音色とともに、扉が開き、鼻歌を歌いながらギィが乗り込む。
 ギィは、ゆかりを窓際の席に座らせると、逃がさないぞとばかりにその隣に腰掛けた。

「ああ、これで我が家も栄えることができます。明日のパンの心配も必要ありません!」

「……あなたって、貧乏なの?」

 ゆかりは、これを夢だと信じた。そして、いっそ、夢なら楽しもうと思った。
 そう思えるほどに、もはや心は麻痺していた。

 図星をさされたとばかりに、ギィが苦笑を浮かべる。

「はい、情けないことですが、我が家は万年金欠です。ですが、運命の姫をお連れすることが出来れば、私は王宮の魔法使い。ババーンと俸給があがるのです!」

 夢のようだけど、やけに現実的だ。
 笑顔が止まらないギィとは対照的に、ひややかな顔でゆかりはつぶやいた。

「王子さまの花嫁って、例え、彼に「男」の彼女が出来て振られたような女のコでもなれるのかしら」

「あっはっはっは。……え?」

 その時のギィの顔を、ゆかりは一生忘れないと思った。そして、それは現実となった。

 七色の汽車は行く。日本から、どことも知らぬ異空の国へ、王子さまの花嫁と、少しまぬけな魔法使いをのせて。