翌朝、グレッグが目覚めたときには、すでに母の姿はなかった。母の不在はよくある事なので、グレッグは気にする事もなく一人で朝食をとると、街へと出かけた。

 手には、羊皮紙と筆。母からエンジュの街の地図をもらいはしたが、自分で地図をつくりたくなったのだ。己の足で歩き、気づいた事をかきとめて街の様子を記していくのは、きっと有意義な事に違いない。

 作業に没頭しながら歩く間に、グレッグはいつしか昨日の路地へとやって来ていた。
 己の無意識のうちの行動に、苦笑する。どうやら昨日の出会いは余程印象的だったらしい。

 しかし、路地に昨日の少女の姿はなかった。
 この広い街で約束もないまま、名前しか知らない少女と出会う事は難しいだろう。

「そううまく会えるわけもない、か」

 呟いてグレッグは、きびすを返した。
 歩き出そうとした瞬間、泣き声と話し声が路地の向こうから聞こえてきた。

 そのまま立ち去る事も出来たが、なんとなく気になったグレッグは、そっと声の方に近づいた。相手方に悟られないように、様子をうかがう。

「キラがいけないんだぞ。女のくせに、蹴鞠がしたいなんて言うから!」

「大事な鞠なのに、どうするんだよ・・・」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 昨日の少女が、数人の少年に囲まれて、一生懸命頭を下げていた。
 大きな目には涙がいっぱい浮かんでいる。

 だが、少年たちは少女をせめる事をやめない。

「あやまったって駄目だ」

「そうだそうだ」

 ムッとしたグレッグは、わざと足音を立てて彼らに近づいた。

「キラ」

 振り向いた少年達は、見知らぬ年上の少年の出現に一瞬口をつぐんだ。

 グレッグはキラに近づくと、その黒髪に手を置いた。

「どうしたんだ」

 だが、キラが答えるよりも早く、少年達がまくしたてる。

「キラが大切な鞠を樹にひっかけたんだ」

「キラには蹴鞠は無理だって言ったのに、やりたいなんて駄々をこねるから」

「ほら、見ろよ。あんなの取れないじゃないか!」

 少年が勢いよく、すぐそばの桜の樹を指差した。
 なるほど、確かに高い枝に鞠がひっかかっている。

「泣かなくていい」

 グレッグはキラの髪をなでると、少年達に向き直った。

「あれが戻ればいいんだな」

「そ、そうだけど、でも」

「雑作もない」

 言うが早いか、グレッグは桜の樹に手をかけた。
 少年達があっという間もなく、グレッグは樹にのぼっていく。

 枝を折らないように注意して鞠をとると、そのままグレッグは飛び降りた。
 わざと少年達の目の前に着地する。

「ほら、鞠だ。これで文句ないだろう」

 少年達は、毒気の抜けた顔でグレッグを見つめた。
 グレッグに、ぐいと鞠を突き出され、我に返った一人が受け取る。

 少年達は顔を見合わせると、グレッグとキラを残し、気まずそうに立ち去って行った。

 グレッグはキラに向き直ると、まだ目に残っていた涙をぬぐってやった。

「ありがとう」

 キラは恥ずかしそうに微笑んだ。やっと浮かんだ愛らしい笑みに、グレッグはほっと安堵する。

「昨日といい、今日といい、キラは鞠遊びが好きなんだね」

「うん」

「それに、意外とお転婆さんらしい。あんな高いところまで鞠を蹴り上げるなんて」

 ぷくっとキラの頬が可愛くふくれた。
 グレッグはクスクスと笑う。もし、自分に妹がいれば、こんな感じなのかもしれない。

「鞠をとってくれて、ありがとう。ええと・・・」

 キラは、グレッグを見てもじもじとした。そう言えば、彼女に名乗っていなかった事に気づく。

「俺は、グレッグ」

 キラは首をかしげる。東方風の名前の多いこの街では、聞きなれない名前なのかもしれない。

「グレッグ」

 グレッグは、ゆっくりと発音した。
 キラは大きく頷くと、嬉しそうにグレッグの名前を呼ぶ。

「グレッグ!」

「うん、そうだ」

「グレッグは何をしていたの?」

「地図を作ろうと思って、街を歩いていたんだよ」

 キラは何かを一生懸命考えるような表情を浮かべた。
 小さな彼女には、グレッグの言葉の意味がよくわからないらしい。

「その・・・、散歩さ」

「お散歩。キラも好き」

 キラはためらいもなくグレッグの手を握った。

「いっしょに、行こう?」

「キラが街を案内してくれるの?」

 キラはこくんと頷くと、グレッグの手を引いて歩き出した。

 少女の歩調に合わせて街を歩くのはなかなか楽しかった。
 キラはいつも自分が遊んでいる場所や、景色のよいところにグレッグを案内し、あれやこれやと話してきかせた。

 どうやらキラは外で遊ぶのが好きらしく、よく母親に叱られるらしい。
 エンジュの街では、女子はおとなしく家にいて、琴の稽古や針仕事を習うのがよい事とされているようだ。

 でも、とグレッグは思う。

 キラは家の中でじっとしているよりも、こうして外で元気に遊んでいるほうがよく似合う、と。蝶は青い空の下でこそ、美しく羽ばたくのだ、と。

 やがて歩き疲れたのか、キラが足を引きずり出した。グレッグは苦笑してキラを背負う。

「うわあ」

 視線が高くなったキラは、グレッグの耳元で無邪気なはしゃぎ声を上げた。

「家まで送るよ。キラの家はどっち?」

「あっち」

 グレッグはキラに言われるままに、道を歩き出した。
 キラの家は、東の大門青竜の区画にあった。

 かなり大きな屋敷で、グレッグは軽く目を見張った。
 そして、やっと、キラが身にまとっている着物が上質のものであることや、ものごしに品がある事などに気づいた。

「キラ、君は貴族の・・・?」

「きぞく?」

 不思議そうにキラはグレッグに尋ね返す。

「ええと・・・」

 説明しようとしてグレッグは困った。どう言えば彼女に伝わるだろうか。

「キラの父様は、偉い人かな」

 こくん、とキラは頷いた。
 しかし、続くキラの言葉で、グレッグは勘違いをしていた事を悟る。

「ちちさまは、刀鍛冶で、おでしさんがたくさんいるの」

 なるほど、とグレッグは頷いた。

 言われてみれば、キラの屋敷の一角からは鋼を打つ音が響いてくるし、辺りの家々も一般市民の住まいだ。明るい活気のようなものが感じられる。

 第一、貴族の娘なら、キラもこうは気軽に外に出られないだろう。

「刀鍛冶か・・・」

 剣を扱うものとして、グレッグは自然に興味を抱いた。
 切れ味鋭いと言われる刀が生まれるところを見てみたい。

「グレッグ?」

 キラが不思議そうにグレッグの髪をひっぱった。
 グレッグはハッと我にかえった。

「ごめん。なんでもないよ」

 グレッグは屋敷の門をくぐると、キラを背から下ろした。

「さあ、おかえり。キラ」

「グレッグ、まっててね」

 キラはそう言うと、屋敷の中に消えていった。

 ややあって、キラは母親と共に再び姿を現した。

「あら、あなたは昨日の」

 キラの母親は、グレッグを見てにこりと微笑んだ。

 その笑顔を見てグレッグは、母さんも綺麗だけど、この人もすごく綺麗だな、と思った。

「グレッグといいます」

 グレッグは、キラの母親に頭を下げた。

「礼儀正しい方ね」

 ころころと楽しそうにキラの母は笑う。

「うちの泣き虫さんを助けてくださったとか。どうもありがとう」

「いえ。キラには、きのう、俺も助けてもらったから・・・」

 キラの母は一瞬怪訝そうな表情をうかべたが、気をとりなおして、グレッグに小さな包みをわたした。

「つまらないお菓子だけれど、おなかの足しにどうぞ」

「ありがとうございます」

 グレッグが頭を下げると、キラがぱちぱちと手を叩いた。

「ははさまの作ってくださるぼうろは、美味しい」

「くいしんぼさん」

 キラの母は、愛おしそうにキラの頭をつついた。
 その時、一際高く鋼を打つ音が響いた。

 グレッグはハッとしてそちらに目をやる。

「聞きなれないと耳障りかしら。うちは刀鍛冶の頭領の家だから」

「いえ。澄んだいい音だと思います。侍のあつかう刀の切れ味は有名ですから。こうやって造られるんですね」

「興味があって?」

 ここで首を横に振れば嘘になる。グレッグは素直に頷いた。

「なら、キラに案内させましょう。今はお弟子さん達の修行の時間だから、見学してもあの人も怒らないわ」

 思いもかけない言葉だった。

「いいんですか?」

「ええ。あの人が魂をこめて槌をふるっている時はだめだけれど」

「グレッグこっち」

 キラがぐいと、グレッグの手を引いた。

 キラの母に見送られ、二人は奥の鍛冶場へ向かう。
 鍛冶場には、熱気と、なにやらいいしれない独特の雰囲気とが、しずかに流れていた。

「ちちさま!」

 キラが、奥で指導していた父を呼ぶ。
 顔をあげた父は、キラを見て目を細めた。

「キラか。そちらは」

 傍へと駆け寄ったキラが、グレッグの事を話す。
 グレッグはキラの父に一礼をすると、邪魔にならないように片隅で、鋼が鍛え上げられる様を見物した。

 キラの父は温厚そうな顔をした男だったが、ひとたび指導に熱がはいると別人のように厳しい目になる。鋭い叱咤を飛ばす。

 グレッグの隣にやってきたキラは、静かにね、と唇に指をあてて見せた。
 グレッグは無言のまま頷いて、刀鍛冶達の作業に見入った。

 練習、とはいえ、それは一つの儀式に見えた。
 流れるように洗練された動作。規則正しい槌の音。鋼が打たれるたびに、きらりと宙に舞う火花。

 もしかしたら、キラの名前は夜空の星を形容する綺羅ではなく、この火花からつけられたのかもしれない。

 炎にさらされ、打たれるたびに、鋼は鍛えられていく。

「すごい」

 純粋にグレッグは感銘した。
 となりでは、キラがにこにこと微笑んでいる。

「ちちさまの刀はエンジュ一」

 やがてひとくぎりがついたのか、キラの父は汗をぬぐい、こちらへとやって来た。

「いかがかな?」

「・・・素晴らしいです。うまくは、言えないけれど」

 グレッグは一生懸命に答えた。

「刀は刀鍛冶によって魂で鍛えられ、携えた侍によって魂で使われる。ならば、そうして魂で感じてもらえれば、これほど嬉しい事はない」

「はい」

「鍛冶に興味がおありか? いや、そうではあるまい」

 キラの父は、グレッグを上から下まで見つめた。

「鍛冶よりも刀、刃に興味がおありと見受ける。ふうむ、侍をめざしておいでか・・・?」

「いえ、そういうわけでは」

 グレッグは言葉を濁した。
 グレッグが目指すのは侍ではなく、母と同じ忍びだ。

「刃を扱うことになれた方と思ったが」

 グレッグは答えられなかった。
 この場に自分はふさわしくないような気がして。

「私の目もくもったか。これでは、今鍛えつつある刀も神刀にはなれまいな」

 言葉のわりにキラの父は楽しそうに笑うと、二人を鍛冶場の外へ出した。

「行きなさい。これから、この場には鍛冶の神が降りる」

「はい。失礼します」

 立ち去る二人を見送って、キラの父は鍛冶場へと戻った。その目には、先ほどとは比べ物にならない鬼気迫る厳しさがあった。それは、己の魂を鋼にそそぎこむ者の情熱に満ちた顔だった。


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