カザとミシェルが立ち去り、やっと静けさが戻った部屋で、グレースは緊張をといた。途端に、身体が重くなる。まるで、姿のない何者かに腕を取られ、ぬるい泥の海引きずり込まれたかのようだ。ずっしりとした疲労感が、隅々にまで広がっていくのがわかった。

 そっと零したはずのため息が意外と大きく響いたのか、顔をあげるとリカルドが心配そうにこちらを見つめている。

「大丈夫か、グレース。部屋に戻って休んだ方がいい」

 確かに部屋に帰って着がえをしたかった。今のいままでこの銀の髪の少女のことが気がかりで、それどころではなかったが、ひとまずの危機が去った今は、わずらわしい甲冑をぬいで、身を休めてしまいたい。

 だが、グレースは立ち去らず、繊細な白磁の指で、額にはりついたカレブの髪を払い、毛布をきせかけた。

「グレース?」

 そんなグレースを訝しく思ったのか、リカルドが名を呼ぶ。

「カレブなら、俺がみてるからここはいいよ。手が必要なら、その時に呼ぶさ」

「ええ」

 だが、グレースはそれでも立ち去らなかった。
 銀色の髪をなでる指先が、なにか物言いたけだ。

「今日のことなら、なにもあんたが気にすることはないぜ。あんたは、充分にやってくれた」

 心優しい戦士は、どうやら己の行動を勘違いしたらしいとグレースは悟った。

「ありがとう」

 しばしの逡巡のあと、心を決める。やはり、この戦士には話しておいたほうがいいだろう。それに、自分ひとりで抱えるには、少々重い秘め事だ。

「リカルド、お話が」

「うん?」

 グレースの真剣な表情に、リカルドは姿勢を正した。グレースはリカルドの生真面目な様子に苦笑して、座るようにすすめる。

 リカルドは部屋の隅においてあった、背もたれのない椅子を寝台の脇に運ぶと、それに腰をおろした。

 眠るハーフエルフの少女に視線を落として、グレースは口を開く。

「わたしは今、迷っています。この人を、カレブと呼べばいいのか、それとも、カレンと呼べばいいのか・・・・・・」

 僅かに、リカルドの目が細くなった。

「カレン・・・? そういえば、あのエルフもそんな名でカレブを呼んだな」

 思い出した途端、胸の奥に火が灯った。暗く、熱い、おき火のようにくすぶる炎が。

「彼の名は、クルガン」

 たしか、ミシェルがそう呼びかけていた記憶がある。場合が場合だっただけに、そこまで意識が回らなかったが、ミシェルとあのエルフは知り合いなのだろうか。

 ふと、リカルドは顔をあげた。

 彼の頭の中で、いくつかの事柄が結びついたのだ。

 忍者兵を率いていたエルフ。僅かな間でガーゴイルを倒したその実力。そして、ミシェルが呼んだ名前、クルガン。いや、あの時、彼女はエルフをこう呼んだ。疾風のクルガン、と。

 無視を決め込むには、その二つ名はあまりに有名すぎた。

「疾風の、クルガンだと・・・? じゃあ、あいつは」

「はい。彼は、第十七代女王のクイーンガードです」

 様々な疑問が脳裏を駆け巡る。しかし、それらが言霊となって発せられることはなかった。リカルドは、空しく口を開閉させると、小さなうめき声のみをこぼし、額に手を当てる。

 さらに、数瞬の時間をおいて、やっとリカルドはひとまずの疑問を口にのぼらせた。

「何故、クイーンガードが一介の冒険者を殺そうとするんだ」

 グレースはゆっくりと首を振った。蜂蜜色の髪がさらりとゆれて、リカルドの言葉を否定する。

「クルガンは、冒険者を殺そうとしたのではないでしょう。彼女を彼女と知って、それゆえに刃を向けたように思われます」

 フッとリカルドは笑った。

「カレブは、スリをしていたコソ泥だぜ? そんな奴とクイーンガードのどこに接点があるんだ。あんな、明らかな殺意を抱く、ような・・・・」

 言いながら、リカルドは気づいてしまった。今、まさに己が、グレースと同意の台詞を口にした事に。

 そう。「クルガン」は「カレブ」を殺そうとしたのだ。

 リカルドを床に叩きつけもしたが、それはリカルドがクルガンを止めようとしたからだろう。クルガンの落日の瞳は、ずっとカレブだけを見ていた。

 ・・・・・・不快だった。

 クルガンとカレブの間に、自分の知らない何かがある事が。
 それを認めたくなくて、必死に納得のいく答えを探してしまう自分が。

 感情のままに浮かんだ嫌な表情をグレースに見られたくなくて、リカルドは顔を伏せた。

「リカルド、あなたは、クイーンガードとはどういう存在か、ご存知ですか?」

 グレースの質問は、幾分唐突な気がしたが、リカルドは律儀に答えた。

「・・・クイーンガードは、女王の盾にして剣。命を賭して女王を守り、女王の命によってのみ動く最高の武人達だ。誰しもが高い能力を持っていて・・・、そうだな、小さい子供の憧れだな」

「ある意味でそれは正しいでしょうね。でも、それは、クイーンガードの一面にすぎません」

「一面?」

 まだ顔をあげないリカルドに、グレースはええ、と答えた。

「王者とは、孤独なもの。時には冷徹に感情を殺し、政務を執り行わなければなりません。人である前に、王であらねばならないのです。王が王であることをやめ、人に戻れば、国は衰退します」

 優美な顔が気高い輝きに縁取られる。それは、冒険者でもなく、白百合の美姫ともてはやされる深窓の令嬢のでもない、貴族、グレース=ザリエルとしての表情だった。

 凛とした涼やかな声は、リカルドに顔をあげさせるだけの力を持っていたようだ。
 なんとか表情を消すことに成功したリカルドが、のろりと頭を上げる。

 グレースはそれを確認してから、言葉を続けた。

「ですが、王も人である事にかわりはない。わたし達と同じ、心をもった弱い人間なのです。クイーンガードとは、そんな王の心を護る存在。王が王であるために、クイーンガード達はその心に触れ、守り、共に生きる・・・・・・。よって、クイーンガードが強さのみで選ばれる事はありません」

 クイーンガードは、最強の兵士がなるものだと思っていたリカルドにとって、それは意外な一言だった。

「基本的に、クイーンガードは女王の指名によって誕生します。心を触れ合える存在であると女王が認識した者のみが、ガードになれるのです。クイーンガード長のみは例外で、前女王、もしくはドゥーハン公によって選出されます」

 ドゥーハン公とは、女王から国を受け継いだ王子及び、女王の夫君となった者の呼称だ。

 ドゥーハンは女王制の国である。女王に世継ぎの姫が生まれなかった場合、王子が国を統べる事になるのだが、その王子が王となる事はない。あくまで、王は王家の血を引く女子であらねばならないからだ。

 かつて、男子が王となり国を治めた時に、大きな戦乱が起こり、ドゥーハンは滅亡寸前においやられた。無明の闇を思わせる、絶望的な時間が長く人々を支配したが、戦乱は、時の王女の叡智と尽力によって終息し、ドゥーハンは平穏を取り戻した。

 以後、男子が王の名で国を統べるは不吉な事とされ、また、戦乱をおさめた王女に敬意をはらう意味をこめて、女王制がはじまったとされている。

「現クイーンガード長、レドゥアを選出したのは、オティーリエ陛下のお父君、故ドゥーハン公イグナーツ様」

 オティーリエは第十七代女王であるが、その母は女王ではない。第十六代女王オイラーリアは、オティーリエの祖母にあたる。

 オティーリエは二世代ぶりの女王なのだ。

 病に倒れたイグナーツは、愛娘が滞りなく王としての義務を遂行できるように、彼女が最も信頼をよせる養育係をクイーンガード長に任命したのであった。

 その身分、その実力。確かにレドゥア=アルムセイほどクイーンガード長にふさわしい者はいなかったであろう。

「オティーリエ陛下が女王となられて、しばらくはクイーンガードは長一人でしたが、やがて聖なる癒し手ソフィアがガードとなります。次いで、疾風のクルガンが」

 リカルドは頷く。彼らの話なら飽きるほどに聞いた。

 どのような怪我も、どのような病も、瞬時に癒す力を持った心優しい女僧侶ソフィア。エルフでありながら、ファイアドラゴンすら瞬時に倒すといわれる疾風の忍者、クルガン。

「そして、もう一人」

「え・・・?」

「オティーリエ陛下のクイーンガードは、前述の三名と、未だ二つ名さえ存在しない最後のクイーンガードの計四名」

 トクン、とリカルドの心臓が脈打った。
 グレースの新緑の瞳が、カレブを見つめる。

「マディエ男爵の妾腹の娘で、侍女からクイーンガードとなった、カレン=アンソン。彼女が最後のクイーンガードです」



 

 

 銀色の睫がかすかに揺れるのを、リカルドは、霜が溶ける様に似ている、と思った。ふ、とまぶたが開き、泉のような瞳が姿を見せる。

「目が、さめたか」

 リカルドは手を伸ばすと、カレブの冷たい頬に触れた。
 ゆっくりと青い目が動き、リカルドを見つめる。

「わ、たし・・・?」

 ふさいだ傷が痛むのか、カレブは細い眉をよせて顔をしかめた。
 記憶が混乱しているのだろう。瞳がおちつきなく彷徨い、辺りを見回す。

「ここは宿だ。憑いていた死神は、ミシェルさんの知り合いが消してくれた。もう、安心していいから」

 頬をなでられ、カレブは心地よさに目を細めたが、その一瞬に迷宮での出来事を思い出した。息をのんで、飛び起きる。

「あの人は!?」

 カレブは叫んで、部屋の中にクルガンの影を探した。

 振り返ると、リカルドが怖い顔をしている。だが、かまわずカレブは叫んだ。

「ねえ、リカルド、あの人はどこ!?」

「いないよ」

 リカルドはカレブの細い肩を掴んだ。こもった力の強さに、戸惑ったようにカレブがリカルドを見上げる。

 名前を呼ぼうとした途端、肩を引かれ抱きしめられた。

「あいつはいない。あんな奴、いなくていいんだ」

 リカルドのぬくもりに包まれて、カレブは頬を赤らめた。無意識の内に鼓動が速くなる。

「なあ、カレブ」

「な、なに・・・?」

 はなしてくれそうにないリカルドの腕の中でカレブは答えた。

「ひとつだけ、教えてくれよ」

 何を、と言おうとして、カレブは、リカルドが震えている事に気がついた。
 それを誤魔化すかのように、リカルドは腕に力をこめる。

「お前の名前、なんていうんだ」

「え・・・?」

「お前の名前が知りたい」

「カ、カレブにきまってるだろ」

 リカルドは身体をはなすと、カレブの両肩を掴んで拘束した。

「目を見て、もう一度答えろ」

 薄紫の瞳が、ギラリと強い光を放った。困惑してカレブは言葉を失う。

「お前の、名前は・・・?」

 カレブは、目を伏せるとぼそぼそと呟いた。

「・・・・・・男の名前の方が、旅したり、スリをするには都合がいいんだ」

「お前はもう、スリじゃないだろう。第一、スリが名乗るのかよ」

「カレブでいいじゃないか。今までだって・・・」

「駄目だ」

「リカルド、痛い!」

 跡が残りそうなほどに肩を掴まれ、カレブは悲鳴を上げた。しかし、優しい戦士の顔色は変わらない。恐ろしいまでに真剣な表情で、カレブを見つめている。

「答えてくれ」

 薄紫の瞳に射抜かれ、カレブは悟った。これ以上、誤魔化すことは出来ない、と。

「・・・・・・カレン」

 カレブの告白にリカルドの口元がひきつり、やがてそれは奇妙な笑みの形になった。
 再び、カレブはリカルドに抱き締められる。

「リ、リカルドっ」

「答えてくれて、ありがとう。カレン」

 耳元で囁くように、リカルドの声が震えた。カレブは、いや、カレンは、何故か、リカルドが泣いているような気がした。