リカルドは、隣を歩くカレブをちらりと見やった。
 油断なく辺りに気を配っている姿はいつもと変わりなく見えるが、リカルドには、彼女が落胆しているのが手にとるようにわかった。
 青い瞳が暗く沈んでいる。冬の宵闇を映した湖面のようだ。額でさらりとゆれる前髪は、さしずめ湖面を渡る漣といったところだろうか。

 周りに聞こえないように、そっとため息をついているさまが愛らしい。
 不気味な静けさをたたえた迷宮には、その小さな吐息さえ響くのだと気づいてはいないようだ。

 またひとつ、小さなため息。
 徐々にその間隔は、短くなっているのではないだろうか。

「八回目」

 笑いを含んだ声で、リカルドの背後のミシェルが言った。

 一拍の間をおき、その意味に気づいたカレブが、顔を赤くして振り返る。

「い、やだ。ミシェルさん数えていたの?」

 だが、狼狽するカレブに、さらなる追い討ちがかけられた。
 生真面目な表情で、グレースが口を挟んだのだ。

「あら、九回目かと思いました」

 カレブは絶句して、白百合の姫を見つめる。

「グ、グレースまで」

 まさか、この姫の耳にまで届いていようとは。
 まるきり自覚していなかったカレブは、己がいかに落ち込んでいたかを知った。
 いつもの自分なら、皆に気取られるようなヘマはしないのに、と歯噛みする。

「みんな、甘いな」

 ふふんと得意そうに、リカルドが鼻をならした。

「十回だ!」

「叫ぶな、バカッ!」

 カレブは、リカルドの脇腹に鋭く拳を叩き込んだ。
 自分が叫び声を上げているのはこの際、棚に上げておく。

 ぐあっとリカルドはうめき、その場にしゃがみこんだ。
 その姿があまりに情けなくて、カレブは思わず吹き出した。

 ひとしきり笑って、立ち上がったリカルドの瞳が優しいことに気づき、カレブはハッとする。

 まただ。またやられた、と。

 リカルドは、カレブの気持ちを明るくする為に、わざとおどけて見せたのだ。

 ちらりと上目づかいにリカルドを見ると、なんだよ、と優しい戦士は笑う。

「ありがとう・・・」

 カレブの不器用な礼の言葉に、リカルドは笑みを深めた。
 そのまま、くしゃくしゃとカレブの細い銀の髪をなでる。

「女王陛下に会えなかったのは残念だったが、目的はそれだけじゃないだろ?」

「うん」

 オティーリエ女王に指輪を渡すのだと、あれほど固く心に誓っていたのに、カレブは女王に会う事が出来なかった。

 はやる心を押さえて飛び込んだ王室管理室は、もぬけの殻だったのだ。
 いつなんどきも女王が迷宮にいるわけではない。その事は理解していたつもりだったのだが、誰もいない王室管理室は、思った以上にカレブの心をうちのめした。

 明け方近くに見たあの夢が泡と消えていきそうな・・・、そんな感覚に捕らわれたのだ。

「時間が出来たってのは幸いかもしれないぜ。指輪を渡す時の小洒落た挨拶でも考えておけよ。クイーンガード長を驚かせるくらいの、さ」

「まあ、それは難問だわ」

「同感です」

 次々と言葉を重ねる仲間に、カレブはたまらなくなった。
 胸が熱い。嬉しいのに、苦しいのだ。

 それは、感謝と気恥ずかしさが入り混じった、複雑な感情だった。
 素直になれない少女には、なかなかやっかいな代物だ。

 思いを言葉にすることは出来なかった。だが、そのままだんまりを決めこむのも心苦しくて、カレブは仲間達にそっと微笑んだ。
 その小さな笑みに、リカルドは大いに喜び、ミシェルはクスクスと笑い声を弾けさせた。グレースも、新緑の瞳に優しい光を躍らせる。

 穏やかになる仲間たちの表情を見て、カレブは知った。
 言葉にならないならそれでもいい。大切なのは、伝えたいという気持ち、伝えようとする姿勢なのだ、と。

「・・・気を取り直して行こう」

 カレブは少し照れくさそうに呟くと、きりりと顔をあげ、歩き出した。

 だが、一行の間に漂っていたあたたかな空気は、すぐに消え去る事になる。

 ここはドゥーハンの地下迷宮。愛よりも哀が、温よりも怨が似合う場所。
 かすかに差し込む頼りない一筋の光は、その深闇に飲み込まれ消えていくのだ。

 異変は、第二層に降りて最初の敵を屠った時に起こった。

 軽い傷を負ったカレブは、顔をしかめて、床に散った血を見た。
 とっさに身をかわしたので、零れた血はわずか数滴だったが、白い床に赤い色がやけに目立って見えた。

「治します」

 剣を鞘に収めたグレースが、小走りで傍によってくる。
 戦闘中から気になっていたようだ。

「ごめん」

 傷ついた腕を差し出しながら、カレブは何故か己の血から目が離せなかった。
 目を離してはいけないような、そんな気さえする。

「・・・グレース」

 かたい声で呼びかけられ、頭をたれて癒しの祈りをつぶやいていたグレースは、顔をあげた。

 また、余計な事をしたのだろうかと思ったが、ハーフエルフの少女は、こちらに注意をはらっていなかった。緊張した面持ちで、じっと床を凝視している。

 カレブの視線を追い、グレースは息を呑んだ。
 カレブの血が、染み込んで消えるはずだった紅が、床から浮き上がっている。

 くるりと血は空中で円を描いた。
 しだいに早く、しだいに早く、線を引きながら血は円を描く。

「おいおい、こいつはなんの冗談だ」

 リカルドの叫びに振り返れば、今しがた倒したばかりの魔物の血も、カレブの血と同じように宙に浮かび、円を描いていた。

 四人が凝視する中、二つの血は徐々に近づき、互いに混じりあっていく。

 己の血が魔物の血と溶け合うその様に、カレブは強い嫌悪感を覚えた。口元を押さえ、こみあげる吐き気をこらえる。冷たいものが、足元から脳天めがけて勢いよく駆け抜けていくのがわかった。

 咄嗟に連想したのは、グレッグ達の命をうばった黒い影だった。
 あの影が現れるのならば、急いでこの場を立ち去らなければならない。

 撤退を告げようと片手をあげた瞬間、ミシェルが制止の声をあげた。

「待って。これは、黒い影の来訪を告げる先触れではない。もっと、別の・・・」

 珍しくミシェルは困惑しているようだった。なにかと隠し事が多い彼女だが、その言葉自体はいつでも明瞭で、このように言葉尻を曖昧にする事はない。

 ミシェルのその一瞬のためらいを嘲笑うかのように、シュッ、と血が走った。
 開け放たれたままだった扉をすり抜け、中央にぽっかりとひらいた吹き抜けを目指していく。

 ミシェルはすかさず後を追った。

 回廊の端まで走り、暗い吹き抜けを覗き込む。血のにおいのする風が、ミシェルの鼻孔を遠慮なくくすぐっていった。

「なにかが、起きている。わたしの知らない、なにか、が・・・」

「ミシェルさん!」

 遅れてやってきたカレブが、ミシェルの背後に立った。

「どうしたの。なんだか、らしくない」

 カレブの言葉に首をふりながら、ミシェルは暗い吹き抜けを指差した。

「血は、第四回廊へと降りたようだわ。行きましょう」

「危険なら、許可できない」

 あくまでも黒い影を恐れるカレブは、難しい顔をした。
 残った仲間達を、グレッグやサラと同じ運命にたたき落とすわけにはいかないのだ。

 腕を組むカレブに、フッとミシェルは笑った。

「安全など、どこにもないわ。違う?」

 屁理屈を屁理屈だとわかった上で、こうもどうどうと言われては、反論のしようがない。反論をすれば、屁理屈の塗り重ねになるだけだ。

 カレブは逡巡の後、わかったと頷くと、リカルドとグレースを呼び、第四回廊へと向かった。

 その間も、数度魔物に襲われたが、同じ事が起こった。
 倒した魔物の血が浮き上がり、空を滑っていくのだ。

 誰もが無言だった。

 進めば、何が起きているのか知ることができるのかもしれない。だが、知ってしまえば、二度ともどれない何かに足を踏み入れてしまうような気がしていた。

 だが、足は止まらなかった。
 目指すのが下層であるかぎり、何がまちうけているにせよ、先に進まねば道は開けないのだ。

 二層の複雑な仕掛けを動かし、監視塔への侵入を図る。
 ここを下れば、第四回廊だ。

 監視塔の瓦礫から飛び降りると、低い笑い声が聞こえた。大勢の人間があつまって、忍び笑いをしているようだ。笑い声はこだまとなって、壁に反響する。

「薄気味の悪い」

 顔をしかめ、リカルドは呟いた。
 手は腰の剣にかかり、いつでも戦える体勢を整えている。

 笑い声は、以前、死神と戦った場所から聞こえた。
 油断なく、ゆっくりと声のする方へとすすむ。

 あっという叫び声が、リカルドの口からもれた。
 カレブも驚きのあまり、目を見開く。

 響き渡るそれは笑い声ではなかった。
 血と血とがぶつかりあい、ざわめく嘆きの旋律だったのだ。

 一行の前で、集まった血は巨大な渦と化していた。
 笑い声のような音を立てながら、目にも止まらぬ速さで回転しつづけている。

 そして、渦の中心には何者かが横たわっていた。

 元は純白だったのであろうローブは、降りかかる血で無残によごれている。
 力なく投げ出された腕は、踏みしだかれた菫の色しており、もはや命の炎が掻き消えた事を告げていた。

 胸のふくらみから、ローブ姿のそれが、女性であるという事はわかったのだが、彼女がどのような容姿の持ち主であったのかを知ることは出来なかった。何故なら、女性の首から上は消失していたからだ。おそらく鋭利な刃物で斬りおとされたのだろう。赤黒い断面は滑らかで、女性が痛みを感じる間もなく、息絶えたことがわかる。

 胸には同じく血で汚れた一枚の紙が、細い針剣で止め抜かれていた。
 渦が生み出す風圧で、ひらひらと冗談のように揺れている。

「そうか。ここは空間のゆらぎが大きな場所・・・。だから・・・」

 全てを冷静に見たミシェルは、何が起こっているかを悟った。
 誰が何のためにこのようなことをしたのかを知りえることは出来なかったが。

 ゆらりと渦の中心が揺らめいた。

「気をつけて! これは召喚の門よ!」

 ざわめきがひときわ大きくなったかと思うと、渦の中心から高らかにラッパの音が鳴り響いた。同時に、規則正しい軍靴の音が近づいてくる。

 そして、血の渦の中から、整列した魔物が姿を現した。

「オーク、か・・・?」

 リカルドが戸惑うのも無理はなかった。

 ずらりと二列に並んだ魔物は、姿かたちこそオークと似通っていたが、オークより一回りは大きく、肌の色が違っていたのだ。オークは通常青黒い肌をしているが、この魔物達は、血を浴びたように赤黒かった。また、オークにはある愛嬌らしきものもどこにも見当たらない。黄色い小さな目は、冷徹にこごえていた。

「オークキング。異界にいる、オークの上位種よ、戦士さん」

 ミシェルが素早く魔物の名を知らせる。

「上位種だあ? そんな魔物が迷宮にいたなんて話は・・・」

 リカルドの台詞をさえぎるかのように、後方にひかえていたオークキングが、手にしていたラッパを高らかに鳴り響かせた。

 オークキング達が無表情に剣を構え、軍靴が床を蹴る。
 突然の、捨て身とも取れる一斉攻撃だった。

「耐えろっ!」

 短剣を抜き放ったカレブが叫ぶ。

 リカルドとグレースはとっさにカレブの傍にかけよると、各々剣と盾で、オークキング達の攻撃を受け止めた。体重をのせた攻撃は重く、カレブとグレースが押される。

 雄たけびと共に、後列のオークキングが踊りかかってきた。

「くうっ」

 カレブは咄嗟に腰をかがめて、目の前のオークキングに蹴りをはなった。
 右足を蹴りぬかれ、バランスを崩したオークキングがよろめく。

 ハッとしたグレースが、防御をとき、すかさずそこに切り込んだ。
 
 上段からの攻撃に、たまらずオークキングは仰向けに倒れ、後方の仲間を巻き込む。

 隊列は一挙に乱れ、カレブ達は体勢を立て直した。

「うまい、グレース!」

 リカルドの叫びに、わずかにグレースは口元をほころばせた。

「今度はこっちが一気に攻めてやる。さっき倒れたマヌケを狙うぞ!」

 言うが早いか、カレブは起き上がりかけたオークキングに切りかかった。

「次は俺がやるか。グレースはミシェルさんと残った奴を頼むぜ」

 リカルドはグレースに片目を瞑ってみせながらそう言うと、カレブの元へ走る。
 
 カレブは短剣の倍以上の長さを持つオークキングの剣を、すでに弾き飛ばしていた。
 しかし、得物をなくしたオークキングは、かわりに盾をふりまわし、カレブを追い詰めようとする。
 オークならばすでに逃げ出すところだが、戦いに対する執着は、オークキングの方が強いらしい。

 リカルドは行く手をふさぐ邪魔なオークキングの攻撃をかわして、カレブにつめよるオークキングの盾に、力任せに長剣を振り下ろした。
 カレブに集中していたオークキングは、予想外の攻撃に反応できず、盾を失う羽目になった。
 オークキングの手を離れた盾は、耳障りな音をたてながら床に転がる。

「遅いぞ」

「おまえこそ、手間取ってるじゃねえか」

 二人は減らず口をたたきながらも、呼吸を合わせて剣をふるい、オークキングの太い腹に十字の傷を刻んだ。

「二人とも、下がって!」

 グレースに守られながら魔法の詠唱をしていたミシェルが叫ぶ。
 既にその杖先には、魔法の炎が朱金の輝きを振りまきながらゆらめいていた。

 カレブとリカルドが飛びのくいなや、ミシェルは炎を解き放ち、オークキング達を焼き払った。ヘルガのクレタなどとは比べ物にならない熱量が、魔物の分厚い肌を焼いていく。

 何匹かのオークキングは、炎をまとったままこちらに突進しようとしたが、カレブの手投げナイフに足止めをくらい、リカルドとグレースの長剣にとどめをさされた。

 役目を果たした魔法の炎が消えうせると、生きているのはカレブ達だけだった。

 カレブは、焦げくさい匂いに顔をしかめながら、「召喚の門」へと近づいた。
 血はいまだ止まる事を知らず、渦を描き続けている。

「・・・こんなもの、さっさと壊してやる」

 とりたてて魔術の知識がないカレブだが、首のない女性の身体が、門にとって重要な役割を果たしていることはわかった。

「あなたも、ゆっくり眠った方がいいだろう?」

 呟き、ティールの魔法を詠唱する。主人に従順な青金の雷は、しなやかに渦の中心向かって突き進んだ。

 雷は一撃で死体を粉砕するかに思えたが、なんと、渦にふれるやいなや弾け飛んだ。
 火花が盛大に辺りに散る。

 リカルドはとっさにカレブを背中にかばい、グレースは盾をかざして身をまもった。ミシェルは、まとっていた魔法のマントで火花をうちはらう。

「なに、今のは」

 やや呆然としながらカレブは渦を見つめた。
 渦はカレブを嘲笑うかのように、回転を続けている。

「魔法が駄目なら・・・!」

 リカルドが剣を抜き放ち、渦に飛び掛った。
 しかし、大上段から振り下ろされたそれは、甲高い響きと共に弾き返され、リカルドはもんどりと床に転がった。

「リカルド!」

「いってぇ・・・」

 カレブに助けおこされながら、リカルドはジンジンとしびれる手に顔をしかめる。

「びくともしない。まるで噂のシルバースライムに斬りかかったみたいだ」

 ミシェルは渦に近づくと子細に様子を調べた。

「・・・強力な魔力ね。これは、なまなかな事では破壊できないわ」

 言いながら、ミシェルは手にしていた杖を、渦に叩きつける。
 杖は、しかしリカルドの剣と同じように弾き返された。
 反発する力の大きさにミシェルは唇を噛み、痛みに耐えた。

「無茶はおよしになって」

 グレースが近づき、ミシェルの手を取る。
 華奢な彼女の手が、折れたのではないかと危惧したのだ。

「平気よ。白百合の姫」

 ミシェルはやんわりとグレースに微笑んでみせた。
 頷きながら渦になにげなく視線をやり、グレースはどきりと鼓動を高鳴らせた。

「グレース?」

 リカルドが不審に思うほど、その表情は強張っている。

 グレースの新緑の瞳は、ひたと女性の死体に、いや女性の血まみれのローブに注がれていた。

 薄汚れてはいるが、肩口には黄金の糸でぬいとられた紋章が見て取れた。
 翼獅子のその紋章は・・・・・・。

「白騎士隊の、僧侶・・・?」

 呟いたとたん、グレースは足元が崩れ落ちていくような絶望にかられた。
 青ざめた顔で剣を抜き放つ。剣は、きらりと清浄な輝きを放った。

「グレース、やめろ」

 リカルドの制止の声も届かないのか、グレースは悲鳴をあげながら渦に剣を走らせた。
 下方から上方へ、剣は一筋の銀光となり駆け抜ける。

 渦は己を破壊しようとするものを再び退けるかに見えた。

 しかし。

 グレースの剣が触れるやいなや、渦は回転を止めた。
 刹那の間をおき、渦は元の血へと戻る。
 血は重力に捕らわれ、雨のように床に降り注いだ。

 それは最早門ではなかった。

 ただの血と、死体。

「やはり、斬れるのね・・・」

 そうでなければいいのに。そんな思いがこめられた切ない声だった。
 泣き笑いの表情で、グレースは剣を見つめる。

「グレース?」

 事態が飲み込めず、カレブはグレースに一歩近づいた。

「一体何をしたの? どうして、あなたがやると門が消えたの」

「わたしが門を消したのではないわ」

「え・・・?」

 グレースは渦を切り裂いた優美な長剣をゆっくりと持ち上げた。

「これが、あの人の剣だから」

「あの人?」

「ユージン=ギュスタームの、祝福の剣だから・・・!」

 ついにたまらなくなったのか、グレースは涙を流した。
 わけがわからず、カレブはリカルドを見る。

 リカルドは無言でグレースを抱き寄せた。

「リカ・・・」

 名前をよぼうとした途端、ミシェルに襟を引っ張られる。
 ふりむくと、ミシェルが唇に指を当てていた。

「今は、静かに」

「ん・・・」

 カレブは、複雑な思いで、泣き続ける白百合と朴訥な戦士から視線を外した。