その朝、ドゥーハンを包んでいた雪は、久々に小降りとなった。

 人々は、白い闇の閉塞感からひととき解放され、安堵にほっと胸をなでおろしている事だろう。

 クイーンガード長、レドゥア=アルムセイは、窓からドゥーハンの街を見下ろし、そう思った。

 ややあって、人々は屋根の雪をおろしはじめた。
 軒先にさがっていた大小の氷柱も次々に折り取られ、片付けられていく。

 この数ヶ月の間、降雪量が少なくなるたびに聖都で見られる光景だった。
 一年前には考えられなかった事が、日常として聖都に根をおろしつつある。

「日常、か」

 ふ、とレドゥアは皮肉に笑った。

「主なくとも、人は生きていけるのだな。だが、ガードは・・・、私は、守るべき主をなくしては、生きてはいけぬ」

 なんと弱気な台詞なのか。
 声に微かな震えを自覚して、さらにレドゥアは笑った。

「動揺しているらしい、この私が」

 レドゥアのかたわらに、女王の姿はない。
 あるのは、ただ、空虚な静けさ。

 つかんでいた窓枠が、ミシリ、と嫌な音をたててきしんだ。
 それはまるでレドゥアの怒りと動揺を、そっくりそのまま表しているかの様だった。

「一体何者の仕業なのか。我が魔術の網を潜りぬけ、あれを連れ去るなどと・・・!」

 レドゥアのこの言葉を聞いた者は、驚きのあまり声をなくすに違いない。

 女王がさらわれたというのだ。
 クイーンガード長の、十重二十重の魔術の護りをものともせずに。

 レドゥアは大きく息を吐き出し、激情をおさめると、ついと視線を動かして床に散った灰を見つめた。

 バサリと投げ出された服の間から零れた灰。よくよく見ると、人が倒れたような形をしている。

 それは、女王の身の回りの世話をしていた女官の、変わり果てた姿だった。

 女王を連れ去った何者かは、女官に一切の悲鳴を上げさせず、一瞬でその生命を奪い取ったのだ。いや、生も、精も一滴残らず吸い尽くしたと言った方が正しいかもしれない。全てを失った肉体は灰へと変じ、打ち捨てられている。

 とうてい人間にできる芸当ではなかった。

 レドゥアは灰を手に取ると、皮の小袋へおさめる。
 子細に調査し、手がかりの一端を掴まねばならない。

 レドゥアはそのまま足音高く女王の部屋から立ち去ると、通路に控えさせていた魔術師達に命令を下した。

「国境東端への門を開けよ」

「はっ」

 うやうやしく答えながらも、魔術師達は顔を見合わせた。
 一瞬、ガード長の意図が読み取れなかったからだ。
 今は国境などに転移の門を開くより、一刻も早く女王の捜索を開始すべきではないのか。

 しかし、レドゥアは魔術師達の思惑をよそに、命を続ける。

「そして、呼び戻せ、疾き風を」

「風・・・、あのお方をですか」

 恐るおそる、歳若の魔術師が尋ねた。
 レドゥアは冷笑でもって、それに答える。

「いつから、わが魔術師達は、言葉を解さぬ愚か者に成り果てたのか」

 魔術師達は雷に打たれかのごとく、身体を硬直させた。

「魔術師は門を開けた後、陛下をさらった者の調査に当たる。敵を知らねば事は始まらぬ。騎士には冒険者の管理強化と、街の警備をさせる。僧兵は現在の任務の続行を。となれば、捜索には忍者兵を当てるのが理想的だ。あやつらほど、俊敏に、秘密裏に事を運べるものはおらぬ」

 レドゥアはカッと杖で石床を叩いた。

「お前達も知っての通り、迷宮探索に当たっていた忍者兵は、あの死神によって半壊している・・・。減ったものは補給すればよい。現在、もっとも忍者兵がいる場所はどこか。答えよ!」

「と、東端です。忍者部隊の頭のおられる」

 質問をした魔術師が、震える声で答えた。

「そういう事だ」

 レドゥアは最早言うべき事はないとばかりに、ローブをひるがえしその場を後にした。
 冷え切った石造りの通路を歩きながら、レドゥアは心にその冷たさが押し寄せるのを感じた。

「・・・最早、我が手にオティーリエの髪はないのだ。「あれ」を造る事は二度と・・・」

 聞く者を震撼させる暗い呟きは、しかし誰に聞かれる事もなく、冷たい空気に溶け消えていった。


 

   東方風の衣装に身を包んだエルフの男が、枯れた細い枝を地面に突き刺す。
 無造作な仕草に見えたが、力の込め方に注意が払われていたらしく、枝は折れる事もなく凍てついた地面に埋め込まれた。

 やがてそれは、風雪にさらされ、白い氷の花を咲かせるだろう。

 エルフは、落日色の瞳をわずかに細めた。
 今となっては見慣れた光景だが、気分はよくない。
 何故なら枝は、墓標だったからだ。

 頭をあげると、エルフの部下である人間の男達も、それぞれの腕を止めていた。
 どうやら、この村の死者全員の埋葬が終わったらしい。

「ご苦労」

 エルフが短い言葉で労をねぎらうと、部下達は静かに頭を下げた。
 元々言葉数の多い連中ではないが、雪が、冷気が、静けさが、言葉を奪い、連れ去っていく。いや、度重なるこの沈痛な弔いの儀式が、口を重く閉ざすのだ。
 彼らが滅んだ村の死者を葬るのは、これで五度目だった。

 彼らは、ドゥーハンの忍者部隊。
 クイーンガード長レドゥア=アルムセイより、国境越えの命を受けていたが、いまだその使命は果たされていない。国境付近には、霧が深くたちこめ、立ち入るものを迷わせた。何日もさまよい歩いたあげく、元の場所に戻ってくる事も多い。彼らは挑戦を繰り返しながら国境付近にある村々の死者を弔うことにも時間をあてていた。

 非情の忍者部隊の頭であるはずのエルフは、転がる骸を放って置くことができなかったのだ。それは、かつて傍にいた娘の影響かもしれなかった。

 エルフの男は小さく息を吐き出すと、軽く片手をふり、部下達に指示を与えた。

「適当な空家で休憩を取れ。見張りは交代でたて、不死者対策を忘れるな。明朝、再び霧越えをする」

「ハッ」

 次々と散っていく部下達を追いかけるように、舞う雪が勢いを増した。
 ズキリとエルフの心が痛む。雪は、彼のよく知る娘のこぼす涙のように思えた。

「・・・泣くな、ソフィ」

 空を仰ぎ、言葉を紡ぐ。

「陛下のいる地上に平安を。お前のいるその空に、陽光を。俺が必ず取り戻す。だから、泣くな・・・」

 ほの暗い空に、娘の姿が浮かんで消えた。
 その愛らしい顔はしかし悲しげで、エルフの疲れた心を逆なでる。

「怒っているのか? 陛下の傍におらず、こんな辺境でぐずぐずしている俺を」

 まるで肯定のように、一片の雪が、エルフの端整な顔の上を滑っていった。

「・・・しかたないだろう」

 エルフは薄い唇を歪めて笑いを形作る。

「これは、傍にいながら、陛下を危険にさらし、お前を失った罰なのだから」

 屈辱の一言を呟き、エルフは拳を握り締めた。
 逆巻き、爆発しそうになる感情を、そうやって封じ込める。

 娘の幻を空に描きながら、エルフは己の心を強く占める、娘と背中あわせのような存在の一人の少女の姿を、脳裏から追いやった。少女を思い出す事は禁忌だった。ひとたび思い出せば、心の命ずるままに叫び続けずにはいられないだろうから。

 エルフはためいきをひとつつくと、視線を空から地上に戻した。
 広がる墓標に祈りの言葉を呟く。

「眠りよ、やすらかであれ」

 かつて、娘が死者に呟いた言葉そのままに。

 そして、エルフは一人、離れた空家にこもり、凍える夜を過ごすのだった。

 翌朝、エルフが霧に挑む準備を整えていると、部下の一人が慌てた様子でやって来た。
 部下が伴ってきた人物をみて、エルフは軽く落日色の瞳を見開いた。
 冷たい雪交じりの風が、やって来た人物が着ている濃灰色のローブをはためかせる。

「王宮魔術師が何故ここに」

 魔術師はエルフに対して膝を折ると、自らの使命を果たす。

「伝令致します」

 一旦言葉を切った魔術師に、エルフは頷き、続きを促した。

「聖都にて、オティーリエ陛下が拉致されました。至急帰還し、捜索に当たれとの、クイーンガード長のご命令です。帰還の為の転移の門はすでに開いております。お急ぎを・・・」

「なん、だと・・・?」

 一瞬、エルフは己の耳を疑った。
 信じられない言葉だった。

 自分が聖都を離れている間に、護るべき主がさらわれたというのだ。

「馬鹿な!」

 エルフは、力任せに壁に拳をたたきつけた。

「陛下がさらわれただと!? 長は、長はなにをしていたのだ!」

「敵がそれだけ狡猾だということです!」

 予想された叫びだったのか、よどみなく魔術師は答えた。
 エルフはいまいましげに舌打ちし、魔術師をにらみつけた。

「傍にありながら陛下を護れぬ者にガードはつとまらぬ。長はそう言い、俺を辺境へ飛ばした。その俺を呼び戻さねばならぬほど、事態は深刻か」

 魔術師はゆっくりと頷いた。
 声を伴わない返答は、しかしなにより雄弁だった。

 エルフは、部下に向き直る。

「全員帰還の用意。一刻たりとも無駄にするな」

「はっ」

 部下が立ち去るのを待ち、エルフは魔術師のそばに膝をつく。
 鋭い落日の瞳が己の目を射抜き、魔術師は微かに喉を鳴らした。

「教えろ、お前の知る限りの詳細を」

 魔術師はうなずき、なるべく情報を整理しながらエルフに事件のあらましを話し出す。

 この日。

 聖都に疾風が帰還した。