辺りは闇だった。
 首をめぐらせてみても、なに一つ瞳には映らない。
 闇に包まれているのか、自分自身が闇の一部なのか。それさえもわからない。

 じんわりと忍び寄る孤独に、心が押しつぶされそうになったとたん、ぼんやりと光る一片の雪が、ゆっくりと頭上からおりてきた。

 雪だと思ういとまもなく、それは、次から次へと降ってくる。

 不意に、触れたいという強い衝動にかられ、手を伸ばした。
 たとえ、それが儚く消える雪でも、手にのせて感触を確かめたかったのだ。
 雪に触れることで、己の存在を実感したかったのかもしれない。
 
 手のひらにふうわりと風をふくんで舞い降りたのは、だが、雪ではなかった。

 星のような形の小さなそれは、白い花だった。
 内側から、何かに照らされるように、淡く輝いている。

「ジャスミン・・・?」

 無意識のうちに花の名前が口にのぼった。
 それが解放の鍵だったかのように、パンッと音をたてて闇が弾けとんだ。
 四方を囲んでいた黒い壁が、一瞬にして粉々になったかのようだった。

 目に入った白い指が、己の物だと認識するのに、一瞬の時がいった。
 細くしなやかな指が、慣れた手つきで磁器性の茶道具を銀のトレイに並べている。

 磁器は東の大国の特産品で、べノア大陸では高級輸入品として貴族達に愛好されていた。
 うすく光を帯びたようなこの白さは、磁器特有のものだ。べノア大陸で広く流通している陶器では、どうやってもこの白さが出せない。

 特に人気があるのが、東の絵が描かれたものだった。
 この茶器にも、東の花が艶やかに描かれている。

「お茶をお持ちしました」

 決められた者しか立ち入りの許されない部屋に入り、頭を下げる。

 つみあげられた本の向こうで、一人の女性が顔をあげた。

「ありがとう」

 礼の言葉は短かったが、聞く者を充分に喜ばせる温かさをもっていた。

 普段は結い上げている栗色の髪を、今は後ろで軽く一つに束ねている。
 無造作な髪型だったが、それは彼女の美しさを損なう要因とはならなかった。

 トンと軽い音をさせ、女性は机上の書類をまとめた。
 端によせ、机に茶を飲むスペースを作る。

 彼女の作ったそのスペースに、ティーカップを置き、菓子を盛った小皿をそえた。
 小さな麻の袋から、乾燥させたジャスミンの花を幾つか取り出し、カップの中に入れる。
 そして、そこにティーポットから茶を注いだ。

 淡い色のその茶は、女性の侍女頭が手ずからブレンドしたジャスミンティーだった。
 紅茶に、幾つかのハーブとジャスミンの花びらが絶妙の分量で混ぜてある。

 カップの中で丸まっていたジャスミンの花が、茶の熱によってゆっくりと開いた。
 目と鼻と口、それぞれで楽しむ事ができる茶なのだ。
 はじめはうまく淹れられなかったこの茶も、今では侍女頭とほぼ同程度に淹れる事ができた。

 茶の中で揺れるジャスミンに、女性は軽く目を細めた。

 彼女がこの茶をこよなく愛している事も、今はよくわかる。

「少し休憩なさいませ」

 気遣う言葉が自然と口から零れた。

 彼女は、昨夜から騎士団長や諸侯などから提出された各報告書類と格闘していた。
 明け方近くになってから、やっと二時間ていど睡眠を取る事が出来たようだが、それでも書類は片付かない。

 補佐の文官が助けられる部分は助けてはいたが、彼女の手元にある書類は、どれも彼女が目を通し、彼女の直筆のサインがいるものばかり。誰も、その役目を変わる事は出来ない。

 この茶は、今のところ彼女に対して自分ができる、精一杯のことだった。

 立ち上る芳香が、女性の表情を緩めていく。

「そうね。そうしようかしら」

 未練がましくチラリと机の上に視線を走らせる彼女に苦笑し、サッと書類を取り上げる。

「お茶とお菓子をかたづけるまで、これは預かります」

 彼女の身分を考えれば、出すぎた行動と言えた。
 だが、例え叱責されても、書類を返すつもりはなかった。

「まぁ」

 女性は軽やかな笑い声をあげると、ティーカップに手を伸ばした。

「では、いただくとします。ああ、いい香りだわ」

 彼女がジャスミンティーを楽しむ間に、書類をサイドテーブルに移す。
 書類を抱えたままでは、茶の世話が出来ないからだ。
 なにげなく、サイドテーブルにおいた書類に目をやり、その一番上の書類の筆跡を見て思わず苦笑した。

「これ・・・」

 くっくという押し殺した笑い声に、女性がふりむく。

「ああ」

 苦笑の理由がわかったのか、女性は頷いた。

 女性の方に向きなおり、薄焼きのクッキーをすすめながら言葉を続ける。

「仕方のない人。こんな悪筆で書類を提出するなんて」

 彼の悪筆は有名だった。彼の書類は、サインを除き、必ず他者の清書が必要なほどだ。
 だが、この書類はいつもの清書がなされていなかった。清書をすべき人間にその暇がなかったせいだ。

「確かに、少々解読に骨が折れます」

 澄まし顔で女性が言った。

「言っておきます。字の練習をしろ、と」

 同じく澄まし顔で言った自分に、女性は楽しそうに笑った。

 よかった、と思う。

 少しでも彼女の心がほぐれたのなら、この休憩は成功だ。
 なにせ、この書類の山は、どれをとっても懸念を抱かせることばかりが書いてあるのだ。
 それと長い時間向き合うのは、そうとうな心労と言えた。
 いかに彼女が頑強な精神をもっていようと、これはなかなかに堪えるはずだ。

 こんな風にこの女性をおもう日が来るとは、一年前には考えられなかった。

 少しもの憂げな顔になっていたのか、女性が気遣うような視線をむける。

「どうしました・・・?」

「いえ、なにも」

 笑みを浮かべる。
 誤魔化す笑顔は昔のままだが、そこに生じる気持ちはまったく別物だ。

「さあ、こちらのお菓子も召し上がれ。手をつけて下さらないと、侍女頭殿が嘆かれます」

 ウサギの形をした菓子入れのふたを開けると、そこには小さなパイ菓子がはいっていた。
 パイの層にはさまれたさくらんぼのジャムが、きれいな縞模様をつくっている。

「それは大変ね。苦い薬を飲まされるわ」

 女性は、侍女頭の怒った顔を思い出したのか、慌てて菓子に手をのばした。
 ほっそりとした指が可愛らしい菓子をつまみ上げる。その指には、見慣れぬ指輪がはまっていた。

 薔薇の形に刻まれたカーネリアンの指輪。
 ルビーのように深い赤ではなく、少し茶色の混じった紅茶のような色合いの石だ。
 昔から、やる気を起こし、失敗を防ぐ守り石として知られている。

「・・・・・・大切な指輪なの。つけていると、温かく、厳しく、支えられているような気がする」

「失礼しました。ぶしつけに見たつもりはなかったのですが」

 詫びると、かまわないのですよ、と女性は笑う。
 優しい手つきで指輪に触れながら、女性は遠い瞳をした。

「なくしてしまった想い出が、わたくしを優しく包んでくれる」

「なくした、想い出・・・」

「この指輪をわたくしにくださった方はもういません。あの優しい知的な瞳の方にお会いできることは二度とない・・・」

 ジャスミンティーの湯気の向こうに、今まで見たことのない表情を浮かべた女性がいた。
 これは、聞いてはいけない言葉なのではないかという警鐘が、心の奥で鳴り響いた。
 だが、女性は語りたい心境なのか、とうとうと言葉を続ける。

「あの方は、指輪をくださった翌日に消えてしまった。そして、わたくしは・・・、代わりに優秀なガードを得たのです。初めての、わたくしの、ガードを・・・」

 女性が誰の事を言っているのかは、すぐにわかった。
 猛禽の目をした男の姿が脳裏に浮かび上がる。

 まさか、彼とこの方が。
 いや、しかし。

 ぐるぐると様々な思いが心をかけめぐるが、結局巧い言葉にならなかった。
 女性も、何か言って欲しかったわけではないのだろう。

 女性は笑みを取り戻すと、優しくこちらを見つけた。

「内緒ですよ? 特に、殿方には。恋の話は女同士の秘密です」

「心得ました」

 ニヤリと頷くと、強張っていた空気がほどけていくのがわかった。

「でも、わたくしだけ話したのでは、不公平ね」

 悪戯っぽい光が女性の目に宿る。

 ぎくり、と心臓が震えた。
 自分でも意外なほどに、情けなく動揺していた。

「わたしには、話すことなどなにも」

 とっさに否定した声もすっとんきょうで、ますます焦ってしまう。

 女性はゆっくりと頷くと、ティーカップを持ち上げた。

「わかりました。では、あの娘にきくとしましょう」

「う・・・」

 恨みがましく女性を見る。
 女性の言う「あの娘」に聞かれたら、一の話が十にも二十にもなってしまうではないか。

「お好きになさいませ」

 少し膨れて、女性に二杯目の茶を淹れる。
 二杯目の茶には、ハチミツを入れるように侍女頭に言われていたが、無視した。
 子供っぽい抵抗だと思われてもかまわない。

 くすくすと笑いながら女性は茶を飲んだ。

 かなわないな、と思う。

 ふう、と諦めのため息をついて、微笑んだ。

「いつか・・・、その方に再会できるといいですね。そうなるように、わたし達も協力します」

 女性は驚いたように、こちらを凝視した。

「そんな日が、いつか・・・」

 強く渇望する声が、唇から零れる。

 だが。


 ”その日は、来ない。永劫に”


 静かな男の声と共に、女性の胸に一文字の赤い線が走った。
 線はぷつぷつと血のあわを立てる。一拍の間を置き、女性の胸から上が、ごとりと床に落ちた。

 声にならない悲鳴が喉からほとばしる。

 胸を失った女性の背後には、深い闇がわだかまっていた。
 その闇の中に、ひょろりとした青年が立っている。
 そばかすの浮いた顔はどことなく気弱な印象だったが、うす茶色の瞳はやけにギラギラと輝いていた。

 手には、血のついた黄金色の短剣が握られていた。
 小刻みにゆれる短剣は、まるで笑っているかのようだった。

「ギルマンッ!」

 知らないはずの青年の名前が口をついた。

 なぜだか、彼こそがアンジュウの殺人鬼ギルマンだと心が告げる。
 時間の感覚がなくなり、足元がグラグラした。

「会うのは、初めてだねぇ・・・」

 一歩ギルマンは、こちらに近づいた。
 短剣の先から、ポタリと血が滴り落ちる。

「キミさえ、いなければ、僕は・・・」

 手がとっさに武器を探した。
 長いスカートをたくしあげ、足にくくりつけていたナイフを抜き放つ。

 ギルマンの凶悪な短剣の前では、それはいかにも頼りなかったが、どうとでも渡り合える自信があった。

 だが、こちらのそんな様子にかまう事無く、ギルマンは近づいてくる。

「ねえ、気づいているかい・・・?」

 無言で睨み返すと、ギルマンは声をあげて笑った。

「僕とキミは、双子だ」

「ふざけるな。気分が悪くなる!」

 ギルマンは、短剣を握っていないほうの手を、ゆっくりと伸ばしてきた。

「双子なのさ・・・、僕も、キミも、同じ、道具・・・」

「違うっ、道具なんかじゃないっ。わたしは・・・!」

「道具さ。自分では変わったつもりかもしれないけど、今だってほら。キミは道具として、迷宮を彷徨っている・・・」

 ぐにゃり、とギルマンの姿が歪んだ。
 それは、ゆっくりと別の姿に変わっていく。

「あぁっ・・・」

 言い知れない絶望に、足がよろめいた。

 現れたのは、黒いフードをかぶった死神。
 銀色の髪が、サラサラとゆれる。

 ふりあげられる長大な剣を目で追いながら、絶叫をあげた。
 それは、肺から空気がなくなるまで、止まらなかった。


 

   己の悲鳴で、カレブは目を覚ました。
 寝台から飛び上がり、ぎゅっと胸を掴む。

 部屋はひどく冷え切っていたが、身体はびっしりと汗をかいていた。

「ユメ・・・?」

 ほうっと安堵のため息をつく。

 水差しからゴクゴクと水を飲むと、なんとか人心地がついた。
 とたんに寒さを感じ、慌てて上着を羽織る。

 そのまま、粗末な机に歩み寄ると、その上に置たドワーフの贈り物を取り上げた。
 震える指を叱咤して、巧妙な細工の鍵を開け、中にしまった指輪を確認する。

 薄暗い部屋の中で、鈍くカーネリアンの薔薇が輝いた。
 夢の中で見たそれと、寸分たがわない。

「・・・どこからが夢で、どこまでが夢だったんだろう」

 全てが現実のような気もするし、全てが夢のような気もする。

 ジャスミンの香りが流れたあのひと時が、現実であればいいと、カレブは心の奥底で祈った。それは悲しい祈りだった。

 カチリと宝石箱の蓋をしめ、カレブは目を閉じた。
 今日は、この指輪を迷宮にいる女王の元に届けるのだ。

「・・・陛下。大切な指輪を、お返しいたします」

 呟いた少女はカレブではなかった。
 だが、その事を、カレブ自身、気づいてはいなかった。